『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録03:9頁
「ナーヤ」の実在はパーリ語が使われていたことの動かぬ証拠になったが、
古代日本にはパーリ語だけでなく、ギリシャ語もマレー語も間違いなく入ってきて、
日本語を構成した。
だがそれらは同時に入ってきたわけではない。
地域差もある。
ここではそれを明確に立証し、後で混乱の起こらないものを挙げて、
そうしたものは、どうすれば発見でき、証拠力を発揮できるのか?、
立証の手法を体得して戴こうと思う。
壹與が位宮とともに卑弥呼政権を倒して、
女王に就任したのは魏の正始八年、247年だった。
このとき初めて「邪馬壹国が生まれた。
それ以前には邪馬台国はもちろん邪馬壹国もない。
当時の官名「伊支馬(いちま)」はピッタリ「壹国(いちま)」に合うから、
この国名がイチマと発音されていたことが確認できる。
魏の支配下に入ったため魏語の数詞「イチ」を使ったとみて間違いない。
それ以前は今の十島を「投馬(トウマ)」と書いていることなど、
当時の国々がヒフミヨの日本語数詞で呼はれていたことは、
本講でリストをご覧にいれたように疑いのない事実である。
ところが壹国と、全く同じ「1の国」の意味をもつ国が、
中国語でなくマレー語で呼ばれている。
マレー語で「1」は「サツ」なので、薩摩(さつま)は間違いなく1の国なのだ。
こうなってくると、
あなたはどちらを使って原稿を書けばいいか?とお考えにならずには済まない。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書"
『メソポタミア世界』
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