『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録02:21頁
続いて17ページでは、それをさらに補足して、
銅鐸の出土地の大半が海に近い場所で、
使用者が海人族だったことを指摘する。
これで海も湖もない奈良が、
銅鐸圏の中心地になるわけがないことを論理的に納得させる。
それなら何故?そんな奈良で銅鐸が出土するのか?、
この当然でる疑問に、
そのあとから次の一八ページまでを使って答える。
それには質問者が銅鐸について高校で習う程度の知識をもっていると、
会話の進展に都合がいいし、
疑問が具体的で、続者にそれ以上の疑惑感をもたせない。
高校生を質問者に設定したのは、
こうした利点を想定した上のことである。
それを充分に活用して、
銅鐸絵画が農耕技術の教科書(大学講義録21参照)だったこと、
を挙げて海人族説への不安を表面化し、
それへの回答で銅鐸圏の海人族が、
ここではまだ表面にでないが、
ウッタラ仏教宣布団による水稲稲作を中心にした農耕教育を受けて、
次第に海から離れた地域に進出していった歴史まで理解させて、
その疑念を一掃するのである。
これで銅鐸とは何だったかがわかり、
その発展の歴史がわかり、奈良との関わりと、
奈良の実体がわかるから、結論としそ、
当時の奈良が卑弥呼当時には単なる
「粗末な開拓地」にすぎなかったことを、
はっきり印象づけることができる。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書"
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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