2013年3月15日金曜日

卑弥呼死後の大乱と神功皇后と武内



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録39:19頁

 《卑弥呼死後の大乱と神功皇后と武内
 「卑弥呼死後の大乱と神功皇后と武内


 殺馬国は人口五万余戸、邪馬壹国に次ぐ大国である。

 卑弥呼の宗女=次期女王の所領として最も相応しい国である。

 そこが壹国(サツマ)と呼ばれ、

 後女が壹與=イエッジョー=壹女王と呼ばれていたのは当然で、

 13歳という年少だったために軽視されて男王が立ったが、

 伝統の女王制を守る人々の反対で大乱に陥り、

 千余の犠牲者を出した後、壹與奉戴者の勝利に終った。

 その先頭に立って、卑弥呼を継いだ男弟を倒したのは、

 狗奴国王の卑弥弓呼素だから、

 この名は漢魏音で「ヒミキウンゴソ=姫木王の御祖」という大隅語の呼び名である。

 卑弥呼時代には女王に属さずと書かれて対立していた人物が、

 少女王を立てて屋久島から乗り込んだ。

 これは神功皇后を助けて三韓征伐をした武内宿祢と同一人物だ。

 なぜなら武(タケ)は高の大隅方言=タケで

 高の漢魏音はコー、これは大隅発音でク。

 狗奴(クノ)国の狗は、この高だったのである。

 では内は何だったのか?

 狗奴王の奴は大隅発音「ナ」。

 王はマレー語で「イ」だから。

 狗奴王は「高(ク)ナイ」、

 この「ナイ」に「内」の字を当て字したものが「高内」なのである。

 だがこの内は「ウチ」とも発音されていた。

 それが官名の「狗右智(ウチ)卑拘]なのである。

 これで壹與が何故?神功皇后か?という疑問が解けたと思う。

 また狗奴王は高内(クナイ)か狗右智(クウチ)なのに、

 「タケノウチ」と教えた過去の歴史教育の低さも、よくお判り戴けたと思う。


 《スメル(シュメール)文明

 「スメル(シュメール)文明
 《パーリ語辞典
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 『言語復原史学会:画像』 
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