ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年6月30日土曜日
住吉仲皇子の愚行記事は真実か?
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録30:9頁
《住吉仲皇子の愚行記事は真実か?》
「住吉仲皇子の愚行記事は真実か?」
彼は『記・紀』では悪者扱いされている
住吉仲皇子(紀)・
墨江中王(記)である。
彼は伊邪木(イザナキ)和気・履中天皇の皇弟だが、
皇位を奪おうとして天皇が寝ている神殿に放火したので、
もう一人の弟・水歯別=のちの反正天皇が、
中王の家臣・ソバカリを使って暗殺させたということになっている。
しかし『宋書』が記録した倭の五王の名乗りは、
讃=仁徳、
珍=履中、
済=住吉仲皇子、
興=安康、
武=雄略の順にピッタリ一致し、
間に挟まった允恭天皇だけ名乗りの形式が
根本的に違う高句麗の足根号もち、
それも「おわさず(架空の)」天皇だというもので、
済は住吉仲皇子以外にありえないことをすでに明らかにしてあり、
発音も<スミ>だったこと、
その名乗りの地名群と遺跡群と、
その時間帯による拡大発展を徹底的に跡付けて確認してある。
『宋書』が記録した五天皇の治世のうち、
済=住吉天皇の治世は、
443年と451年で9年間に亘り、
彼が死んだといって興=安康天皇が遺使したのが462年だから、
在位は20年に及んでいた可能性がある。
それがまるで歪められているのは、
仁徳系の記事には極悪非道なものや悲惨なものが多いし、
後世の官籍に仁徳系の子孫は一人も名がないなど
顕著に排斥されているように見えるから、
同じ扱いがこんな記事を生んだのである。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
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