ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年6月10日日曜日
国名で判る『記・紀』の資料が書かれた時代差
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録29:19頁
《国名で判る『記・紀』の資料が書かれた時代差》
「国名で判る『記・紀』の資料が書かれた時代差」
しかし『日本書紀』も、
これほどではないが無知さを暴露している部分がある。
この事実を総合して考えると、
『記・紀』の編集者らは正確な史実を知らず、
寄せ集めた資料を何とか継ぎはぎしたのだが、
それは原典ごとに異なる当て字や名乗りや通称があつて、
まるで別人のように見えたり、
国名などもまた様々に相違していたのだと判る。
だが逆にそのお陰で、その史料がどんなものだったか判る。
都怒我阿羅斯等らの記事がその最もいい例で、
新羅と書くものは、うんと後世の史料。
任那は『日本書紀』に新羅の南の海にあると明記してあるから
卑弥呼当時は狗邪韓国なので、
これも後世のもの、
意富加羅は仲哀天皇を<ツルカルニン>を
誤写した都怒我阿羅斯等と書くから、
古い資料を使っているが、
任那の由来を御間城天皇の名から来ているとコジつけ解説しているし、
その仲哀が垂仁天皇の時代までいたと書くのだから、
その阿羅斯等が
卑弥呼が倭国の女王に共立される前に死んだ
彼女の夫・仲哀天皇の別名だなどとは想像さえできないでいる。
これもまた後世のものである。
このことで忘れてならないのは
『古事記』が見せる『日本書紀』への反感の強さだ。
せっかく書紀が良い当て字でソナカを旨く表現しているのに、
わざわざ帯中に書き改めている事実は、
『古事記』が書紀に激しい反感をもったために、
後から作った本なのだという、動かない証拠なのである。
『参考』
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『言語復原史学会:画像』
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