ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年4月26日木曜日
最終移住者の大国主は百済出雲人=大化大戦の敗者
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録27:31頁
『最終移住者の大国主は百済出雲人=大化大戦の敗者』
「最終移住者の大国主は百済出雲人=大化大戦の敗者」
では、移住はなぜ平和裏に行なうことができたのであろう?。
それは移住がとてつもなく大規模だったことを示している。
先住民は争えず、受け入れざるをえなかったのである。
そんなものは、大化大戦時以外、考えられない。
半島百済が半島から追い出されて
大量の引揚げ者が本州へ雪崩れ込んできたとき、
最も近い山陰に百済出水(ホセイヅン)(ポセイドン)人が
上陸したことは、
「いわみ=大群が蝟(い)集したことを意味する」
古語で=石見の国(島根県)。
岩美町(鳥取県)という、
ダブル地名が今も現存することで、疑いの余地がない。
またそこには<因幡の素兎の伝承>がある。
彼は<ワニ>=<倭人>を騙して海を渡って来た。
しかし要求通りの脱出費が払えず、
結局は身ぐるみ剥がれてしまった。
それを<大国主>=旧天皇が、
「ガマ(我慢して)の穂綿(ほわた)
(<ホ>は<日本>・<ワタ>は<海>=戦勝国・日本の海軍)にくるまれ
(敵対せず日本の国民になれ)そうすれば助かる」と教え、
自分も苛酷な運命に逆らわずに大きな荷物を担いで、
横暴な兄=天智天皇たちに従ったというのが、
この寓話の真相なのである。
この<イナバ>も「倭奴国(イナハ)」で、
因幡は倭人居住地を示す差別地名を嫌って、
後に変えた文字だということになる。
大化大戦は枚方市が決戦場で、
その近くに守口市の<佐太>がある。
<大国主>は、
そこから
<京都の嵯峨>、
<鳥取の境港>を経由して
<出雲の佐田>に着いたのである。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
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