2012年4月26日木曜日

最終移住者の大国主は百済出雲人=大化大戦の敗者




 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録27:31頁


 『最終移住者の大国主は百済出雲人=大化大戦の敗者
 「最終移住者の大国主は百済出雲人=大化大戦の敗者

 では、移住はなぜ平和裏に行なうことができたのであろう?。

 それは移住がとてつもなく大規模だったことを示している。

 先住民は争えず、受け入れざるをえなかったのである。

 そんなものは、大化大戦時以外、考えられない。

 半島百済が半島から追い出されて

 大量の引揚げ者が本州へ雪崩れ込んできたとき、

 最も近い山陰に百済出水(ホセイヅン)(ポセイドン)人が

 上陸したことは、

 「いわみ=大群が蝟(い)集したことを意味する」

 古語で=石見の国(島根県)。

 岩美町(鳥取県)という、

 ダブル地名が今も現存することで、疑いの余地がない。

 またそこには<因幡の素兎の伝承>がある。

 彼は<ワニ>=<倭人>を騙して海を渡って来た。

 しかし要求通りの脱出費が払えず、

 結局は身ぐるみ剥がれてしまった。

 それを<大国主>=旧天皇が、

 「ガマ(我慢して)の穂綿(ほわた)

  (<ホ>は<日本>・<ワタ>は<海>=戦勝国・日本の海軍)にくるまれ

  (敵対せず日本の国民になれ)そうすれば助かる」と教え、

 自分も苛酷な運命に逆らわずに大きな荷物を担いで、

 横暴な兄=天智天皇たちに従ったというのが、

 この寓話の真相なのである。

 この<イナバ>も「倭奴国(イナハ)」で、

 因幡は倭人居住地を示す差別地名を嫌って、

 後に変えた文字だということになる。

 大化大戦は枚方市が決戦場で、

 その近くに守口市の<佐太>がある。

 <大国主>は、

 そこから

 <京都の嵯峨>、

 <鳥取の境港>を経由して

 <出雲の佐田>に着いたのである。

 『参考』
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