ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年4月12日木曜日
伯耆(ほうき)の境港から出雲の佐田へ移ったのは誰か?
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録27:17頁
《伯耆(ほうき)の境港から出雲の佐田へ移ったのは誰か?》
「伯耆(ほうき)の境港から出雲の佐田へ移ったのは誰か?」
しかし彼女は出雲にも出水にも引退したりはしていない。
それはまた別の<大国主>の史実を物語っているのである。
私たちが既にみてよく知っているものから見ていこう。
大阪湾国生みの主人公は伊邪木和気・履中天皇で<イザナキ>の命だった。
その子が<天照大神>と<スサノオ>であるはずだが、
天照大神に近い<青>・<ア>、<海>・<マ>=青海郎女はいるが、
<スサノオ>に合う皇子はいない。
その代わり弟に<墨江中王>がいて、
次の倭王・済(スミ)と同じ発音をもっている。
かれは讃・珍・済で五王の3番目だから、済(ス)三(サ)の王(オ)でもある。
事実、彼は兄の皇位を奪おうと皇居に放火、
天皇は阿知の直(あたえ)に救われて逃げ出すという行為も
また<スサノオ>そのものである。
しかし家臣の隼人に殺されて、誰も出雲へは行かない。
では出雲へ行ったのは誰か?、
移った跡に必ず残す
「<サカイ>や<サカ>→<サタ>」という皇族の移住に伴う
[地名遺物の定則]を活用すると、
<伯耆の境港>から<出雲の佐田>へ移った人物が、
唯一あるだけである。
しかしそれを『記・紀』はどちらも書かない。なぜか?。
出雲神話と呼ばれてきたものは、
それを書かないことが「目的」で書かれた「秘史」なのだからである。
当事者は『原・日本書紀』を作った天智天皇であり、
彼に皇位を追われた天皇以外にはない。
倭国を譲った<倭(オオ)国主>が<大国主>で、
勝ったのが<スサノオ>・天智天皇なのである。
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
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