2012年4月21日土曜日

建国の大理想を根底から破壊する幼稚本の実例




 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録27:26頁


 『建国の大理想を根底から破壊する幼稚本の実例
 「建国の大理想を根底から破壊する幼稚本の実例

 今、出雲や各地にある<大国主>を祭る神社は、

 本質的には前君主をしのんで建てられた御霊(みたま)の(よ)拠りしろであって、

 そこへお参りするたびに、以上のような先人の知恵を想い出し、

 戒(いましめ)めとするための、英知の産物だったのである。

 しかし賢者ばかりはいない。

 時代とともに物知りぶった連中が、

 根拠もなしに勝手な解釈を人々に押しつけて、

 その社に祭られている本当の神霊を冒涜し、

 偽物の名を並べたてて化け物の住みか同然にしてしまっている。

 それをさらに先の原田某のように、

 売本に仕立てて売るという者まで現われるのが実情である。

 それは4大文明の結晶として天皇家が生まれた英知の結晶『神道』を、

 まるで田舎の野蛮な迷信の野祠(ほこら)同然のものに貶(おとし)め、

 天皇家の大理想を根底から破壊しているばかりでなく、

 住民も迷信としてかえりみなくなり、

 荒廃にまかせる悲惨な状況を助長しているからである。

 彼は大国主をこう説明している(『古代日本正史』342P)。

 *出生年は、大体160年頃と推定される。

  出生地は出雲の隅々敷谷(くまぐましきや)、

  現在の飯石郡三刀屋(みとや)町熊谷である。

  ここは、あとでわかった

  大国主の館の跡三刀屋町給下(きゅうげ)から南に下りた場所である。

  父母は不明。

  180年頃、

  素佐之男尊の末子、

  相続人である須勢理(すせり)姫の養子になり、

  素佐之男の死後、出雲から日向まで、

  つまり、

  山陰地方から九州全土まで広大な国を相続して大国主と呼ばれた。*

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
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