『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:6頁
これで帯方郡とは、もと公孫氏の領地だったことがわかる。
それを魏が密かに軍隊を派遣して占領してしまった。
その直後
の景初2年6月に、卑弥呼が派遣した難升米らが訪れて、
帯方郡を占領している魏の太守に、
「皇帝にお目にかかって献上したい」と申し込んだ。
その2カ月後の景初2年8月に公孫氏は滅んだが、
帯方郡はそれ以前に魏のものになっていた。
そこへ難升米らが魏の皇帝のところへ案内してほしいと
訪ねて行っても少しも奇妙ではない。
それを
「景初2年8月より前は帯方郡は公孫氏の領土だったから、
難升米らが訪れた時期は景初2年ではない。
『魏書倭人章』は間違っている。景初3年が正しい」と白石は主張した。
それ以後も複数の学者がこのことで論戦したが、
いまだに結論は出ていなかったのだ。
それがなぜかは、もうよくお判りの
とおり、
『魏書倭人章』だけしか読まずに議論をしていたからである。
また他を読んでいたとしても、
それを関連づけて時間帯に分けて配列しなかったからだ。
キチンと整理すれば、愚かな論争は起こらなかったのである。
これはさらに重要な価値評価の答を教えてくれる。
卑弥呼らの近代的な素早い情報収集力と行動力の高さだ。
白石流の史学では、そんなことも、まるでわからないのである。
*このあとは代講として本学会を代表する
柿本一征正会員の論文(1)をご熟読ください。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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