ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年12月28日金曜日
その文化は、むしろ徐福のもの
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録36:27頁
《その文化は、むしろ徐福のもの》
「その文化は、むしろ徐福のもの」
ただ始皇帝の何世孫といっても単純ではない。
何といっても阿房宮に美女三千を侍らせた男である。
それに行方不明とは言っても、徐福が数千人の人を連れて、
我が国めざして来たというのも事実である。
その時は皇女が来ていて、
南中国では、天照大神がその皇女だということになっている。
その後の海上交通の発達を考えると、
情報は充分届くから、在来のような隔絶感はない。
それなのに彼等の消息は、不明のまま現在に至っているのだ。
これは秦氏が除福たちではないと誤認された場合しか、あり得ない。
でなければ人口の少なかった時代に、
数千人の大群が行方不明になれば、
それこそ全世界にニュースになる。
それは電波はなくても船があったからだ。
船のサイズは小さくても、
大学院講義録35のフェニキヤの船の壁画でご覧のような大船が、
始皇帝(B.C.E.221年即位)より前のB.C.E.700年には、
世界の海を走り回っていたのである。
スサノオはそれよりもさらに千年ちかく前に我国まで来ていた。
こうした事実を在来の教師たちが知らなかったために、
誤った世界観しかなかったに為ぎない。
それなのにニュースにならなかったのは、
徐福たちは難民として
「新羅」に住みついたので誰にも特別視されずに済み、
安全を見極めてから秦氏として、
応神天皇十四年に来朝帰化し、
太秦(うずまさ)の号をもらう程に改めて繁栄を極めたのである。
《パーリ語辞典》
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