ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年12月22日土曜日
猿田毘古=大人弥五郎=屋久王=スサノオ
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録36:21頁
《猿田毘古=大人弥五郎=屋久王=スサノオ》
「猿田毘古=大人弥五郎=屋久王=スサノオ」
これで大人弥五郎は、間違いなく猿田彦だとわかる。
しかし何故?名が違うのだろう?。
大隅語の発音は「ヤクルドン」である。
私にはそれは屋久郎ドンと聞こえる。
こんな顔をした屋久島王といえば、
そこに杉を植えたスサノオもそれに該当する。
大隅では弥五郎は武内宿祢だともいう。
宿弥は高族=カリエンで、
宝貝を貨幣として中国に売って、
その富で商帝国=殷を樹立した一族の、長の名乗りである。
これでフェニキヤ人が屋久島へ来た時期も判った。
それは縄文杉の年輪と共に
貝貨幣と殷の発掘物とそこに書かれた文献史料という、
莫大な物証をもっていたからである。
屋久郎ドンは海人の王だから、船の王であり、
海原を支配した神・マカーラでもある。
その容貌は、まさしく中近東の人である。
とすれば、
兜布はフェニキヤ人の船乗りのもので冠の一種だったのである。
それが冠だった証拠もまた大量にある。
それは江戸時代まで実用品だった武士の礼装用の冠で、
浅野内匠守が刃傷の場で額につけているあれである。
これは新羅の王も全く同じものを着けていたことが、
出土品の陪葬騎士像ではっきり判る。
それは兜布とは形が違い、はるかに複雑な形になっているが、
額の前方の同じ位置に着け、紐を顎で結んで止める。
兜布を基に考案、心理的効果を狙って改良進化したことが判る。
《武士の礼装用の冠》
「武士の礼装用の冠」
《パーリ語辞典》
「パーリ語辞典」
『参考』
『言語復原史学会:Web』
『言語復原史学会:画像』
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