ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年12月26日水曜日
秦(はた)氏は始皇帝の子孫
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録36:25頁
《秦(はた)氏は始皇帝の子孫》
「秦(はた)氏は始皇帝の子孫」
こうして徹底的に、
秦氏はユダヤ人ではなく、
景教徒でもなかったことが立証され続けると、
では彼等は何だったのか?という最終的な疑問に行き着く。
この答もまた、やはり『日本書紀』に詳しく書いてあるし、
『新撰姓氏録』などにもその子孫たちの消息が詳細に記録されていて、
『書紀』が書く素性が真実であることを、大量に立証し続けている。
『日本書紀』誉田(応神)天皇十四年の二、
《応神天皇十四年(癸卯二八三)是歳》
是歳。
弓月君自百済来帰。
因以奏之曰。
臣領己国之人夫百二十県而帰化。
然因新羅人之拒。
皆留加羅国。
爰遣葛城襲津彦。
而召弓月之人夫於加羅。
然経三年、而襲津彦不来焉。
「是の歳、弓月君 百済より来帰。
因って奏して曰う。
臣、己れの韓の人夫、百二十県を領して帰化せんとす。
然るに新羅人これを拒むに因りて皆。
加羅の国に留めらる。
これを聞いて天皇は葛城襲津彦を加羅に派遣し、
弓月の人夫を召させたが、
三年を経ても襲津彦は帰って来なかった。
『日本書紀』
『新撰姓氏録』左京諸蕃上。
左京 諸蕃 漢 太秦公 宿禰
秦始皇帝三世孫孝武王之後也。
男功滿王,足仲彥天皇【謚仲哀。】
八年來朝。男融通王,【一云弓月王。】譽田天皇【謚應神。】
十四年來朝,率廿七縣百姓歸化,獻金銀玉帛等物。
大鷦鷯天皇【謚仁德。】御世,以百廿七縣秦氏,分置諸郡,即使養蠶織絹貢之。
天皇詔曰:「秦王所獻絲綿絹帛,朕服用柔軟,溫煖如肌膚。」仍賜姓波多。
次登呂志公、秦酒公,大泊瀨幼武天皇【謚雄略。】
御世,絲綿絹帛委積如岳,天皇嘉之,賜號曰禹都萬佐。
「秦の姶皇帝の三世孫・孝武王の子・功満王、仲哀天皇八年来朝帰化。
その子・融通王(弓月君)、応神天皇十四年来朝帰化。太秦公宿弥の祖也。」
『新撰姓氏録』
『三代実録』巻四十四元慶七年(八八三)十二月廿五日丁巳
左京人従五位下行下野権介秦宿祢永原・従五位下守大判事兼行明法博士秦公直宗、
山城国葛野郡人外従五位下行音博士秦忌寸永宗、
右京人主計大充正六位上秦忌寸越雄、左京人右衛門少志秦公直本等、
男女十九人、賜姓惟宗朝臣。永原等自言。
秦始皇帝十二世孫、功満王子、融通王之苗裔也。
功満占星之意、深向聖朝、化風之志、遠企日域。
而新羅邀路、隔彼来王、遂使衛足之草、空「宮」无仰陽之心。
属天誅伐罪、官軍掃塵、通率百廿七県人民、誉田天皇十四年歳次癸卯、是焉内属也。
「元慶七年十二月、右京人・秦宿祢永原、秦言。
秦氏は秦の始皇十二世孫・功満王の子・融通王の苗裔で、功満は占星して翌朝に深向、
遠く日域を志したが、新羅が路をはばみ王都を隔てしも、陽を仰ぐ心、空しからず、
天誅くだって罪人を伐ち、官軍塵を払って、
百二十七県の人民、誉田天皇十四年、歳次・癸卯、ここに内属し焉わる也。」
『三代実録』
《パーリ語辞典》
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