ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2013年5月9日木曜日
祝(ハフリ)(1)
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:14頁
第一章 祝祭 「祝」(1)
祝は「ハフリ」あるいは「ホオリ」と称されてきた。
神社に奉仕する神官(職)は禰宜と祝が古来あった。
双方の関係をみると、
禰宜の方が上位に位することが多かったようだが、
祝の方が古い職名であったと考える。
祝の用語が『記・紀』に登場するのは、
日本書紀の仲哀天皇八年正月に始まる。
伊賀彦という者を祝として祭ったとの記述である。
神功皇后九年十二月
忍熊王が謀反したため、皇后が攻めて紀伊国に至った時、
昼が夜のように暗くなったことがあり、原因として小竹(しの)(社)の
祝と天野(社)の祝が一緒の墓穴に葬られたからだと解り、
別葬したところ昼夜が別れたとの伝承を載せている。
さらに皇極天皇元年七月には
「村々の祝部、所教のとおりに或いは牛馬を殺して諸社の神を祭る」
と出てくる。
祝部は祝の職席のことで、
諸社の神々に牛馬を殺して供養しても雨が降らず、
旱魃がおさまらないといっている。
祝職のあった神社を挙げれば、
茨城県の鹿島神宮、
福岡県の高良玉垂命神社、
熊本県の阿蘇神社には
一から十までの祝と国造祝・金凝祝があった。
長野県の諏訪大社には鎌倉時代の初めに
大祝、権祝、凝祝、副祝などの職制が成立していた。
また愛媛県の大山祇神社でも大祝がおり、
その後においては諏訪大社と共に祝のいる神社として通っていた。
《Key Word》
禰宜と祝
禰宜
祝
日本書紀
仲哀天皇
伊賀彦
神功皇后
忍熊王
皇極天皇
茨城県の鹿島神宮
福岡県の高良玉垂命神社
熊本県の阿蘇神社
長野県の諏訪大社
愛媛県の大山祇神社
諏訪大社
国造祝
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