2011年9月30日金曜日

天武天皇と『日本書紀』

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録20:27頁
     言語復原史学会・隅田 真也

 《天武天皇と『日本書紀』

 天武天皇によって発動された、

 「国史編纂」「国史づくり」は、

 「壬申の乱」後の「中央集権国家建設」「国づくり」の過程の中で、

 「日本書紀」と云う「形」をとって、

 天皇在位中にその「成立」「完成」をみていた。

 この事実は「712年書写古事記」の序文がキチットその中身を告げていた。

 681年飛鳥浄御原令編纂が開始され、

 同年もうひとつ天皇は「記して定めよ」と決意、決断、下命した。

 「三月、大極殿に御して川嶋皇子ほかに詔して

  帝紀及び上古の諸事を<記して定めよ>大嶋子首、筆を執り以って録す」である。

 現代学者はこれを「日本書紀」の事と

 「勘ぐり」ながら今まで誰もそれを断定出来なかった。

 逆に「古事記」を800年代の作と見たりもした。

 しかし今「序文の正しい解読」によってその存在が証拠だてられてみると記事が

 「日本書紀」の事であるとハツキリ判明した。

 「続日本紀」の記事、720年「日本紀、系図、奏上」を

 「日本書紀」成立、成立年と間違って解釈したため混乱が起こって来たのである。

 681年「日本書紀」成立と言ってマチガイナイ。

 この存在があって、次の持統天皇は690年、即位するや否や、部族統率問題、

 蝦夷の反乱とか諸般の事情で、

 例の「十八氏纂記」を決行し「日本書紀」加筆を施したのである。

 その記事が「日本書紀」に散見され、それら部族のことは全部判明済みのはずである。

 『My ブログ』
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 歴史学講座『創世』うらわ塾
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 メソポタミア世界
 シュメル-人類最古の文明 
 The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

2011年9月29日木曜日

『古事記』序文を素直に続んで 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録20:25~26頁
    言語復原史学会・隅田 真也
 《『古事記』序文を素直に続んで

 A 序には、「併序」と云う表題がついている。

   これは後世、後付けされたものではない。

   証拠に序本文に「併」の同字使用があるのと、

   この語句自体「日本書紀」に出典を持つのでそれが分かる。

   表題は

   ① 安萬侶の「違う時期」に書き置いた文の提供とその寄せ集め的使用。

   ② 執筆者Ⅹは、安萬侶の文と自分の文(712年古事記作成の経緯、主願など)を

     併せて序文を作成した。この二つの理由から、Ⅹは、正直に表題をつけたのだ。

 B 「臣安萬侶言」「詔安萬侶」「臣安萬侶誠憧誠恐…」などの表現も素直に文を読めば

   従来の校本がいかに間違っているか、分かるはず。説明は省略する。

 C 安萬呂は序一で、本教(記)により

   国生みし時を識、先聖(天武)によりて、神を生み、人を立てし世を察、と並記証言した後、

   神武天皇の業績を称え「今に聖帝と伝う」と述べ、今度は、天武天皇の業績を称えている。

   彼は同時代人の生き証人として、神武=聖帝=天武という「日本書紀」の内容図式を
 
   明言しているのである。

   彼の天武賛歌には二つの理由がある。

   紙面の大半で天武を絶賛し、今上天皇にわずかその1/8の記述である。

   これが許されるのは、天武天皇の日本書紀、業績評価の既確定と執筆者Ⅹの正体にある。

   しかし彼も気を使っていて天智の娘今上天皇に対し(智海は浩汗として潭上古を探り)と

   天武と対比させつつ意図を表現している。

   智海=浩汗=天命開別=天智天皇であるのは云うまでもない。

   元明天皇賛歌文の中で彼が「史不絶書」と賛辞したのは、女帝の天職、

   本分だというのに史官が記録する事などとアホみたいな口訳をする者がいる。

 D 天武天皇の詔「諸家のもたる帝紀…」云々は国史編纂のことであって

   「古事記」撰録企画のことではない。阿禮への勅語は、あって当然。

 E 「正先紀之謬錯」の「先紀」は「天武・日本書紀」の事。

 F 序文執筆者Ⅹは元明天皇の命に従い安萬侶に言うて仕事をさせ

   「712年書写古事記」を成立させ序文を書き遺した。

   では何故自らは正体を現さず安萬侶の仕事として彼の「記名、日付」入りとしたか、

   それには、ちやんとした理由がある。

   Ⅹは元明天皇のたっての願いで消極的参画なのだ。

   それは彼の「謹みて詔旨の随に、仔細に採り披ひぬ」の言葉に抽象されている。

   だが天皇が人選するからには正しい人選である。

   Ⅹの方では事を成しうる人物であると同時に、あまり成したくない立場、

   この矛盾した立場にある人物であったという事である。

   表面には出たくなかったと言う訳だが、

   それにしても安萬侶記名とは?

   その答えは次の序文の構成でスツキリ謎が解ける。

   「大抵記す所……頓首頓首」までと、「日付」「安萬侶・記名」、

   これは執筆者Ⅹに本文に添えて提出した彼の同文章をⅩが採用、

   序文のしめくくりにそのまま転写したもの。

 『My ブログ』
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 歴史学講座『創世』うらわ塾
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 メソポタミア世界
 シュメル-人類最古の文明 
 The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

2011年9月28日水曜日

断定を急ぐより再検討を繰り返すこと

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録20:24頁

 《断定を急ぐより再検討を繰り返すこと

 『古事記』ほどひどくはなくても、大学院講義録でも早とちりをすることがある。

 たとえば以前、我が国の海人のルーツとして、

 フェニキヤ人=船来国(フネキヤ)人を挙げたことがあるが、
 
 大学院講義録20号では、ギリシャ海人の実体は海軍だったとわかった。

 するとこの2つは結びつくのか?という疑問が新たに生まれる。

 フェニキヤ人カルデア人と同時代の人で、

 新バビロニヤ帝国に吸収されているが、

 アレクサンドロスの東征よりはるか以前に滅んでいるから、

 ギリシャ人より前にきたグループの一員だった可能性のほうが強い。

 まだまだ結論を出すのは早すぎる。

 また『十八氏纂記(つきぶみ)』の例で明らかなように、

 『記・紀』には多数の筆者がひしめいていて、独断的な解釈や誤解に満ちている。

 だからその1つに正解が見つかっても、完全だと思うのも早い。

 徹底した研究が必要である。

 その実例として隅田先生の「稗田阿礼の語源研究」をご覧にいれると、

 この必要性が具体的によくおわかり戴けて、多言を要しないと考えるし、

 本学会の実力がどれほどのものかも、広く知らせることができると思う。

 また先生の先々号のご論文が残した

 「謎=『古事記』序文の、もう1人の筆者・Ⅹは誰か?」

 のお答えも速く掲載してはしいというご催促を沢山戴いたので、

 ご多忙の先生を煩わせて、再度お願いした玉稿を、ここでご覧戴くことにした。


 『My ブログ』
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 歴史学講座『創世』うらわ塾
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 メソポタミア世界
 シュメル-人類最古の文明 
 The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

2011年9月27日火曜日

名乗りの書き替えが生む『古事記』不信

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録20:23頁

 《名乗りの書き替えが生む『古事記』不信

 これで倭の五王時代も、

 倭=優婆畏=女性仏教徒で、それが連邦の代名詞になっている国。

 『倭国』とは、

 やはり卑弥呼時代以来の「女王国家」だったことが、はっきり証明された。

 以上で『記・紀』は、名乗りの「読み損ない」で、

 何がなんだかわからなくなっているが、

 それを解決すれば、すっきりした史実が復元できることもまたわかった。

 ところが見逃してはいけない重要な問題がある。

 それは同じ五王なのに、ハセとナガタニ双方の名乗りが、

 皇后の名として使われている点である。

 これは天皇たちが、敵・味方入れ換わったと言うことなのか?。

 そうではない、それは『記・紀』の基になった記録に、

 「長谷」という漢字が使われていただけなのである。

 それを書き写した複数の筆記者がいて、

 それぞれナガタニとハセという異なった読み方をし、

 それを自己流の当て字で表現したためだったとわかる。

 すると何故?そんな書き替えが必要だったか?という新たな疑問がわく。

 この答はそれは日本人にではなく、

 唐の皇帝や役人に読ませることが主目的だったからだ、とわかっている。

 だから、そこで読み方をミスった。

 あるいはわざと読み替えたということになる。

 なぜなら、特に『古事記』のものは万葉式にカナ化してあるが、

 それは真実とはできるだけ引き離した、

 「意図的な書き方」になっている。

 『古事記』は全面的に信頼してはいけないのである。

 『My ブログ』
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 歴史学講座『創世』うらわ塾
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 メソポタミア世界
 シュメル-人類最古の文明 
 The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

2011年9月26日月曜日

長谷(ハセ)は倭の五王が種子島出身だと証明する

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録20:22頁

 《長谷(ハセ)は倭の五王が種子島出身だと証明する

 これは同じ名乗りの別人だったはずだ。

 この答は雄略の兄・安康天皇の皇后の名が教えてくれる。

 その名は中帝姫。

 これはナカタイだから、長谷を南九州語で「ナガタイ」と

 読むのに当てた当て字であるとみるのがただしい。

 すると五王のうちの3王までが

 「長谷」という名乗りをもった皇后と結婚していることがわかる。

 この名はまたもう1つ重大なことを教えてくれる。

 それはナガタイの名は
 
 『魏書倭人章』にも「奴佳鞮」という当て字で記録されているという事実だ。

 するともう1つの疑問が浮かび上がってくる。

 長谷はもともとハセとは読めないのに、

 大和や飛鳥、春日と同様、無理やり読ませる日本語読みの1つである。

 その語源は百済という文字をハツセ(ヒャク・セイ)と読む南九州語だとわかっているし、

 その百済はポセイドンへの当て字だった。

 だから百済はギリシャ系の国だとわかるが、

 長谷はどうみても始めからハセだったのではない。

 なのに、そのナガタイという南九州語の発音が、

 奴佳鞮として『魏書倭人章』に記録されているのである。

 百済と長谷の関係は一体?どうなっているのであろうか?。

 この答は3世紀にはナガタイだったものが、

 5世紀にはハセに変わったということである。

 長谷野をハセンノと発音するのは種子島人である。

 五王はそこの出身だという証拠なのだ。

 『My ブログ』
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 歴史学講座『創世』うらわ塾
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 メソポタミア世界
 シュメル-人類最古の文明 
 The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

2011年9月25日日曜日

イザナミの尊=幡梭皇女が立証する女王制の継続

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録20:21頁

 《イザナミの尊=幡梭皇女が立証する女王制の継続

 しかし、それではギリシャ人の政権はどうなったのだろう?。

 イザナギ、イザナミの男尊女卑事件で、

 履中天皇以後は女王制は無くなってしまったのだろうか?。

 それを否定するのはその履中天皇の皇后・幡梭皇女である。

 履中天皇は伊邪木和気でイザナギその人だから、

 この皇后が天の御柱を巡ったイザナミの尊、その人である。

 彼女は仁徳天皇と日向の髪長媛との間に生まれた皇女で、

 履中天皇は仁徳天皇の長男だから、腹違いの兄妹が結婚したのである。

 ところがこの皇女は『釈日本紀』巻第四の「帝室系図」には

 仁徳天皇の后妃皇子女のところに「先履中后、後雄略后」と注釈が書いてある。

 雄略皇后にもなったというののだ。

 すると、この当て字の正しい読み方がわかってくる。

 この幡梭皇女は『古事記』が波多毘能若郎女と書くので、

 在来はハタビと読むことになっていた。

 しかし夫の名乗りは大長谷で大は倭だからハセである。

 その都の跡も長谷と呼ばれている。

 だとすると、この幡梭は幡はハタだから頭音ハ、梭はサだから南九州語ではセ、

 ハセ=長谷への当て字だとわかる。

 この史実で、この名乗りが雄略天皇の皇后のものだというのは真実だと断定できる。

 しかし仁徳天皇は425年に宋へ最後の使者をおくったが、

 雄略の上表は478年で53年後である。

 仁徳の皇女なら80才以上になっていて、とても雄略の皇后にはなれない。

 『My ブログ』
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 歴史学講座『創世』うらわ塾
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 メソポタミア世界
 シュメル-人類最古の文明 
 The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

2011年9月24日土曜日

高市の名が教える我が国の紀元は4千8百年!

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録20:20頁

 《高市の名が教える我が国の紀元は4千8百年!


 ではここで、本号の冒頭に見た疑問に結論をだしておこう。

 その疑問とは明らかに倭王の名乗りをもった仁徳天皇のあとに、

 高族、高句麗王のように見える名乗りをもつ安康・雄略の2天皇がいる。

 という問題だった。

 しかしそれは倭も高句麗も『五彩圏』連邦の1地方に過ぎず、

 高は、我が国の出発点がシュメルからのカリエン大移動で、

 指導者がスメラ王=スメラギそのものだったから、

 天皇制は4800年以前に始まっていたと教えた。

 そのカリエンの名は今なお活きてKorean=朝鮮人と訳されているが、

 武の上表にある海北は半島地域で、

 そこにいる人々も連邦国民だから、私たちとは人種差などない。

 今の国境を古代史にまで持ち込んで混同していては、

 正しい史実などわかるわけがないのである。

 倭王・武が個人名のように、名乗りのあとに加えたのは、

 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓以外の本拠地が、

 タケ=武=高だという意味である。

 その倭王・武=雄略天皇は、

 その高句麗からの政権略奪者・允恭天皇を倒して高(タカ)の国の都を取り戻したから、

 そこをタケシと呼び、高市と名づけた。

 だから倭国王であったことには変わりはなく、

 シュメルからの伝統が、

 カリエン=カウリエン(香里園)=皇統と、高の都市(高市)といった都名などが、

 今もなお地名として残っていることで、ずっと守られていたことがわかるのである。

 『My ブログ』
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 歴史学講座『創世』うらわ塾
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 メソポタミア世界
 シュメル-人類最古の文明 
 The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

2011年9月23日金曜日

「人種」という観念を生みだしたもの

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学院講義録20:18~19頁

 《「人種」という観念を生みだしたもの

 《救いようがないほど暗い迷信「人種的偏見」

 これだけでも『魏書倭人章』解明は、

 倭人の人種的構成を正確に突き止めて説明するものでなければ、

 信じるに足る、まともな答えだと言えないことが、よくおわかり戴けたと思う。

 でもまだ、縄文時代に古代ギリシャ人が我が国になど来るはずがない、

 という人がいる。

 そんな歪みを助長しているのは「人種」という古臭い観念である。

 御存知のとおり現存する人類はホモ・サピエンス1種しかない。

 外観は様々に変わるが、それは個体変異にすぎない。

 寺田和夫先生は40年ほど前の東大教授時代に

 『人種とは何か』という新書版を出されたが、

 この間題の核心をつく希に見る名文である。

 「まえがき」から要所を引用させて頂だいた。

   人種間の接触は、今日の交通の発達からみても、国際関係からしても、

   ますます濃密になっていくだろう。

   われわれは人種に関する一通りの知識を身につけなければいけない。

   だが、人種という実体は、わかりきっているようでわかりにくいものだ。

   そもそも日本人種などというものがあるだろうか。

   われわれは日本人がさまざまの人種的要素がまじりあって

   作られたものだということを知っている。

   ところが速く離れた存在であるユダヤ人となると、

   鷲鼻、赤毛で唇の厚い人々が実在し、

   これがユダヤ人種という恐ろしい冷血漢の金持ちの連中だと考える。

   だが事実は、日本人種というものが考えにくい以上に、

   ユダヤ人種は、認めにくいのである。

   人種には二つの大きな側面がある。

   自然人類学が対象とする生物学的人種と、

   人種問題という言葉で表現されるような社会学的人種である。

   人種の解剖学的・生理学的特徴を調査し人種を分類し、

   人種がなぜ形成されたかを研究するとき、それは前者を問題にしている。

   人種の接触の実態を分析し、異人種間の緊張の原因を探るとき、

   それは社会学的な人種を問題としているのだ。

   しかし人種の社会問題をみると、どんな場合にも、

   人種の知能、肉体的特徴という、

   生物学的次元の観念が表面に出るか、

   少なくともかげにひそんでいることがわかる。

   むしろ、人種の社会学で重要な人種的偏見というのは、

   人種にかんする生物学的研究の成果を無視した所に生まれることが多い。

   だからそれは、もはや合理的な思惟ではなく、一種の迷信となる。

   学者によると、人種主義は、あるいは人種そのものまで、

   迷信であるというのである。

   迷信は今日の合理的な世界のなかで早急になくなりそうなものだが、

   こと人種の問題になると、歯がゆいほど息が長い。

   しかもそれが何千万という人々の生活を、
 
   救いようのないはど暗いものにしているのだから、憂欝な話である。

   この迷信がなくならない限り、

   人類は自らをホモ・サピエンスであると誇る資格がないだろう」
 
  「寺田和夫]

 『文化史年表』
 文化史年表

 『CHRONOLOGICAL CHART』
 CHRONOLOGICAL CHART

 『ウワイト』
 ウワイト
 『ウバイド』
 GoogleWeb検索
 YahooWeb検索
 YahooWeb検索
 Google画像検索
 Yahoo画像検索

 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『My ブログ』
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 歴史学講座『創世』うらわ塾
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 メソポタミア世界
 シュメル-人類最古の文明 
 The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

2011年9月22日木曜日

ギリシャ問題が不可欠だった『魏書倭人章』解明

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録20:17頁

 《ギリシャ問題が不可欠だった『魏書倭人章』解明

 嘉手納も日本語の誕生に深く関わっている。

 「手」は古音タだから嘉手納はカタナである。

 カタナは刀で武器、アテナやアマゾンの持ち物である。

 八俣大蛇退治は天照大神をスサノオが討った話で、

 真相は位宮が卑弥呼を倒した歴史だが、

 その時、天照大神は武装して弟神を迎える。

 大蛇を倒したスサノオは天ノ叢雲ノ剣を手にいれる。

 天はチヌで沖縄、叢はソウで曽於=大隅、雲はクモで熊毛から球磨。

 卑弥呼の名乗りに合う。

 それが倒された女王の象徴なのだからご神体である。

 それが祭られていたのは「熱田神宮」

 これはアタノ神宮だからアテナ神宮。

 そのアテナが嘉手納に変わったから、その御神体もカタナと呼ばれた。

 だから「剣=刀」なのである。ということがわかる。

 こうみてくると、嘉手納は間違いなくアテナから変形したものだったことが理解できる。

 すると卑弥呼の「千人の侍女」は、アマゾンたちだったのであり、

 卑弥呼がギリシャ文化の継承者だったことがわかる。

 すると同じ『魏書倭人章』に書かれた

 倭国民の男性の「横幅衣」が「無縫で、但、結束」

 してあるだけだというのが、

 古代ギリシャ男性の衣服・トーガで、女性の「貫頭衣」は、

 下図のアテナ像が着ているのと同じものだと断定できるし、

 倭人が目上に尊敬や誓約を表わすのに「搏手」するというのも、

 ベンガルの手締め→今の神への拍手と同じものだとわかる。

 『文化史年表』
 文化史年表

 『CHRONOLOGICAL CHART』
 CHRONOLOGICAL CHART

 『ウワイト』
 ウワイト
 『ウバイド』
 GoogleWeb検索
 YahooWeb検索
 YahooWeb検索
 Google画像検索
 Yahoo画像検索

 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『My ブログ』
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 歴史学講座『創世』うらわ塾
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 メソポタミア世界
 シュメル-人類最古の文明 
 The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

2011年9月21日水曜日

阿多国は嘉手納で、アテナヘの当て字

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録20:16頁

 《阿多国は嘉手納で、アテナヘの当て字

 沖縄は、近世には嶋津藩と中国の宋とに、

 2重に服属するという複雑な歴史をもつように、

 その支配者は変転を繰り返しているから、

 本来はアテナだったものが、

 それを嫌って後世に、

 嘉手納という当て字に変えられたとしても不思議ではない。

 ではアテナだとどうなるか?。

 瓊瓊杵(ニニギ)の命の妃も神武天皇の妃も共に「アタノヒメ」である。

 手は古音夕だからアタノは「阿手奴」と書かれてアテナへの当て字だったが、

 それを「阿多之・阿多都(つ)・吾田津・吾田ノ」などと当て字したために、

 「アタノ」の方が本当らしくなってしまったのである。

 神武天皇妃のモデルは、『崇神天皇紀』の武埴安彦の妻・吾田媛だから、

 夫とともに戦場へ行って戦っている。

 この女神はアマゾンの象徴だから、女武者でありアマゾンだとすぐわかる。

 だから天孫(てんそん)ニニギの尊というのは間違いで、

 アマゾンとニニギの尊は、2つに分けて読まなければいけないのである。

 阿多は鹿児島県の地名だから吾田媛はそこの出身だと従来は考えてきたが、

 こうみてくると阿多囲も吾田囲もアテナへの当て字で、

 そこは嘉手納でなければならない。

 それが後世に鹿児島に移ったのである。

 この阿多国・吾田国はまたアタマと読める。

 アタマ=頭。

 アテナは父の「頭」を破って飛び出した。

 アタマという日本語にハッキリ関連が認められる

 『文化史年表』
 文化史年表

 『CHRONOLOGICAL CHART』
 CHRONOLOGICAL CHART

 『ウワイト』
 ウワイト
 『ウバイド』
 GoogleWeb検索
 YahooWeb検索
 YahooWeb検索
 Google画像検索
 Yahoo画像検索

 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『My ブログ』
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 歴史学講座『創世』うらわ塾
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 メソポタミア世界
 シュメル-人類最古の文明 
 The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

2011年9月20日火曜日

沖縄の嘉手納はアテナヘの当て字

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録20:15頁

 《沖縄の嘉手納はアテナヘの当て字

 1000人もの女性が卑弥呼に仕えていたという記事には、

 これまで確実な定説はなかった。

 その実体は何だったか?。

 ギリシャ人の優位が確実になると、これまでテンソンと読むのが正しいと、

 無根拠に定説化していた「天孫」は、

 女性軍団「アマゾン」で有名なギリシャの女性上位国への

 当て字とみることが必要になる。

 すると講義録34号でお話しし付録につけたアテナ像が、

 十一面観音像の原型だという理由が、

 一層鮮明に理解できるようになる。

 御存知のようにアテナはゼウスの娘で、武装した女神である。

 卑弥呼と壹與とが混合した神功皇后もまた武装した女王で、

 当時の人々には女神である。

 どこかにその遺物が残っている可能性がある。

 卑弥呼も壹與もその故郷は沖縄である。

 すると沖縄本島に「嘉手納」という語源不明の地名がある。

 E音のない沖縄語がなぜか?わざわざ「手」という文字を使っているから、

 これをテとよめば、納の字を「ナ」と読ませるのは

 アテナが元の名だったからではないかと思いっく。

 嘉の字はカだが、カとアは色々な理由で入れ換わる。

 阿の字は本来はツクリの「可」の音でカだったし、乎、呵、呀、乎、遏なども、

 ア・カ双方に使っている。

 また中国と韓国では私たちがカと発音する文字を

 ハまたはアと発音するものが多いし、

 漢音と訓音でカとアが変わるものも多い。

 嘉手納が、もとアテナだった可能性は大きい


 『文化史年表』
 文化史年表

 『CHRONOLOGICAL CHART』
 CHRONOLOGICAL CHART

 『ウワイト』
 ウワイト
 『ウバイド』
 GoogleWeb検索
 YahooWeb検索
 YahooWeb検索
 Google画像検索
 Yahoo画像検索

 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『My ブログ』
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 歴史学講座『創世』うらわ塾
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 メソポタミア世界
 シュメル-人類最古の文明 
 The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

2011年9月19日月曜日

ついに完成した『ギリシャ人渡来建国史』

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録20:14頁

 《ついに完成した『ギリシャ人渡来建国史』

 ホーライの名はギリシャ人がつけた名だ。

 これはギリシャ人が始皇時代以前に日本列島に来ていた動かぬ証拠である。

 始皇が求めたのも架空の霊薬ではなく、

 ギリシャ宗教と医学の産物だったことを前にお話しした。

 こうして整理すると古代史は従来考えられていたような漠然としたものではなく、

 私たちが日常体験しているような、ハツキリしたものだとわかる。

 我が国へ来たギリシャ人は、どんな人たちが、何を目的に、いつ、どこを出発して、

 どこを通ってやってきたか。

 そのあと何が起こり、どんな結果になったか。

 それは天照大神=卑弥呼を生み、応神天皇を生んで、天皇家の先祖になった。

 それ以前にすでに領土を拡大して、

 中国を中心に沢山な国をつくり、東アジアを支配した。

 こうして細部にわたって疑問が全て解けたことを、

 よく再認識しておいて戴きたい。

 また文化史を年表にして見ると、

 弥生時代そのものがギリシャ人によって開幕したことまで一目瞭然になった。

 そして、さらにそれに先行して、西アジア古代文明もまた、

 我が列島まで届いていたことも読み取れた。

 こうして在来の史学では想像もできなかった巨大な問題群が、

 疑いが残らないはど確実に、そして大量に解明できたのである。

 それを、これまで解明済みの問題を幾つか挙げて、補強すると、

 完全といっていいほどに、卑弥呼以前のギリシャ人主導社会が見えてくる。

 『文化史年表』
 文化史年表

 『CHRONOLOGICAL CHART』
 CHRONOLOGICAL CHART

 『ウワイト』
 ウワイト
 『ウバイド』
 GoogleWeb検索
 YahooWeb検索
 YahooWeb検索
 Google画像検索
 Yahoo画像検索

 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『My ブログ』
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 歴史学講座『創世』うらわ塾
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 メソポタミア世界
 シュメル-人類最古の文明 
 The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

2011年9月18日日曜日

超古代海上コースはペルシャ湾→霞ケ浦=稲敷

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録20:13頁

 《超古代海上コースはペルシャ湾→霞ケ浦=稲敷

 我が国へはインド商人だけが来ていたのか?。

 『文化史年表』は、その「商人」が誕生した地域を、

 冒頭でお話しした通りシアルクだと示唆してくれている。

 その商人独特の慣習が、

 大貿易港のベンガルに残り、江戸の魚河岸に残るのは、

 やはりペルシャ湾→ベンガル湾→沖縄→東京湾→霞ヶ浦=稲敷という、

 縄文時代の海上交易の名残だったのである。

 だからギリシャの人たちも、

 何の知識もない「世界の涯(はて)・日本列島」へ、

 偶然やってきたわけではない。

 ホメロスの作品や神話などとは別の、現実的な世界観の中で、

 はるか東方に四季の鮮明な、

 美しいホーライの女神たちの国にたとえられる

 島があることを知っていたのである。

 そして一(ひ)と足早く出適った台湾の環境につられて、

 これこそホーライの国だと信じたために、

 その名が後世、フオルモサと訳される時代まで生き延びていたのである。

 でも中国人はその誤りを知っていた。

 なぜなら、秦の始皇はそこへ仙薬を採りに行かせた。

 命令を受けた徐福は、山東半島から東に向かって船出した。

 その方向にあるのは朝鮮半島と日本列島しかない。

 「蓬莱、方丈、瀛(えい)洲」の3仙境は

 「北条」や「頴娃(えい)」という地名のある

 日本列島にあったのである。

 台湾へ行くのなら南の福建省へ行けば、見える程の位置にある。

 いくら秦の時代でもそれくらいの知識はある。

 彼等は本当の蓬莱を知っていたのである。


 『文化史年表』
 文化史年表

 『CHRONOLOGICAL CHART』
 CHRONOLOGICAL CHART

 『ウワイト』
 ウワイト
 『ウバイド』
 GoogleWeb検索
 YahooWeb検索
 YahooWeb検索
 Google画像検索
 Yahoo画像検索

 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『My ブログ』
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 歴史学講座『創世』うらわ塾
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 メソポタミア世界
 シュメル-人類最古の文明 
 The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

2011年9月17日土曜日

我が国へきたインド「商人」のコースと生態

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録20:12頁

 《我が国へきたインド「商人」のコースと生態

 だからそこに書かれた古代文化は、国ごとに区切られていたのではない。

 在来の旧式観念が作り出した国境や地域とは関係なく、

 人々の移動・交流する範囲に広く広まっていた知識だったのである。

 それを象徴的に教える身近な事実をお話ししよう。

 私たちは魚河岸や株式の取引所で商談が成立すると、

 威勢よくボンボンと手打ちするのを、いかにも江戸っ子らしいとか、

 日本独特の風物詩だとか感じて釆た。

 15世紀初頭に書かれた『星瑳勝覧』という中国文献にも、

 この「手締(じ)め」を実際に見た記録が載っている。

 「商談が成立して価格が決まると、

  手を打って納めとし、後で紛争など起こさない」と書いている。

 まさにその通りだが、著者・費信が旅してそれをみた場所は日本ではない。

 「榜葛刺(ボカラ)国」で、現在のインドのベンガルだったのだ。

 これも商習慣という名が示す通り、古代商人が広めたもので、

 それがインド経由で我が国まできた証拠だ。

 それはその国名が倭の五王の名乗りにある

 慕韓(ボカラ)そのものだからである。

 しかしその名乗りにインドの地名は入っているはずがない。

 その時代には、それは朝鮮半島の弁韓以外ない。

 弁韓はべンカラで、我が国では紅をベニ・ベンガラ色という。

 沖縄のビンガタの原産地で、

 紅(ベニ)の語源はベンガルのベンだとわかる。

 インド商人は3世紀より前に、

 沖縄経由で朝鮮半島に弁韓国をつくっていたのである。

 『文化史年表』
 文化史年表

 『CHRONOLOGICAL CHART』
 CHRONOLOGICAL CHART

 『ウワイト』
 ウワイト
 『ウバイド』
 GoogleWeb検索
 YahooWeb検索
 YahooWeb検索
 Google画像検索
 Yahoo画像検索

 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『My ブログ』
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 歴史学講座『創世』うらわ塾
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 メソポタミア世界
 シュメル-人類最古の文明 
 The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

2011年9月16日金曜日

民族史観と国境を否定する『文化史年表』

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録20:11頁

 《民族史観と国境を否定する『文化史年表』

 それを別々の民族だなどと思い込むと、真実は根底から崩れてしまい、

 八紘一宇どころか、隣り近所が殺し合うヒトラー型思想に毒されてしまう。

 ヒトラーは「国民の血の純潔さ」を謳い文句にして侵略を正当化しようとし、

 その恐怖政治の見せしめにするつもりでユダヤ人(イスラエル人)を大量虐殺したが、

 当時、世界の異端、全体主義者として全人類の憎悪の的になった日本人も、

 同じ「民族」思想に寺されて奇妙な自尊心をもち、

 朝鮮半島や中国の人々を理由(ゆえ)もなく蔑視して恥ずかしいとも思わずにいた。

 いま近隣某国のテレビ画像が自国の元首を、

 かつての天皇のように扱うのをみるたびに、

 同じ目的で、同じ扱いを受けていた戦前の皇室を思い出して、

 背筋がぞっと寒く冷たくなるのをおぼえるのは私1人ではない。

 その思想の産物「民族」という名詞は、その遺物であり人類の敵である。

 幼稚なマスコミなどが今なおそれを使い続けていること自体、

 人道の敵であることを忘れてはならない。

 『文化史年表』は、

 始皇帝が万里の長城を築いて国境を固持しようとした時代より

 ずっと古くからの人類の歴史を一覧させてくれる。

 それは他に方法がないために、やむなく国別に分けられてはいるが、

 本当は古代には国境などない。

 私たちは島国に住んでいるため水陸の境を国境のように錯覚しているが、

 もともと海は「世界を結ぶ道」だったのである。

 『文化史年表』
 文化史年表

 『CHRONOLOGICAL CHART』
 CHRONOLOGICAL CHART

 『ウワイト』
 ウワイト
 『ウバイド』
 GoogleWeb検索
 YahooWeb検索
 YahooWeb検索
 Google画像検索
 Yahoo画像検索

 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『My ブログ』
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 歴史学講座『創世』うらわ塾
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 メソポタミア世界
 シュメル-人類最古の文明 
 The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

2011年9月15日木曜日

ギリシャ人がつくった前漢時代の東アジアの国々

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録20:10頁

 《ギリシャ人がつくった前漢時代の東アジアの国々


 その実態が、先にお話しした大隅(ウースン)(烏孫)であり、

 『五彩圏連邦』そのものであり、

 高句麗の周辺に生まれた邑婁・夫余といった国々であり、

 それがさらに生んだ匈奴であり、鮮卑であり、隋・唐政権でもあったのである。

 それは時とともに姿を変えていったのだ。

 それを朝鮮半島の王は「百済と高句麗は、ともに扶余から出た」と証言している。

 扶余は

 「扶養(ハヤ)の風=南風(ハヤ)」のハヤであり、ハヤ=海人=隼人、

  すなわちギリシャ海軍の出身であり、隼人=大隅人だということなのだ。

 その百済は出水とともに海神・ポセイドンが語源だった。

 海神の名を選んでアンピトリテ?奄美、都井岬、取手

 ポントス→本都別→誉田別天皇

 アフロディテ→淡路島などという名を沢山のこしたのは、

 ギリシャ人の海人たちだったと、

 誰が考えてもすぐわかる言語文化財が大量に残っているので、疑いの余地はない。

 だから在来の東洋史などにみる「騎馬民族」といった分類は根本的に誤りで、

 多様な故郷から溢れ出た人々が好き勝手な方向に移動して土着しては、

 不意にやってくる敵や異常気象に襲われて放浪する生活の繰り返しで

 分散集合してしまっただけの違いしかない。

 「何民族」といった固有の「民族」など存在しない。

 もちろん時代が進むと同時に外敵に対する防御法として

 民結して「私有地=国」を主張するが、

 それは純血とか民族とかを意味しない。

 『文化史年表』
 文化史年表

 『CHRONOLOGICAL CHART』
 CHRONOLOGICAL CHART

 『ウワイト』
 ウワイト
 『ウバイド』
 GoogleWeb検索
 YahooWeb検索
 YahooWeb検索
 Google画像検索
 Yahoo画像検索

 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『My ブログ』
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 歴史学講座『創世』うらわ塾
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 メソポタミア世界
 シュメル-人類最古の文明 
 The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

2011年9月14日水曜日

「八紘一宇理想」が生んだギリシャ人東方政権

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録20:9頁

 殷は、沖縄の宝貝で商帝国を立ち上げただけでなく、

 稲敷を故郷だと証言している。

 このことは、シルクロードの開発が漢代には実現せず、

 隋・唐代まで遅れた事実とともに、太古の往来は海路だったために、

 インド亜大陸沿いに往復した商人が、

 中国より日本列島に早く来ていたことを証言している。

 ペルシャ湾はその海の「西の玄関」だったのである。

 これはギリシャ人が来たコースも教える。

 彼等はペルシャ湾から船出した海軍だったのだ。

 アレクサンドロスがダリウス王を倒して、自分はその皇女と結婚し、

 そして1000人の花嫁をギリシャ軍人の妻にした

 「八紘一宇結婚式」が済んだあと、

 さらに東のインドへと出発したとき、

 陸路をとった大王軍とは別に、海上を進んだ別動隊だったのである。

 彼等は、インド北部で病を得てギリシャへ引き返した大王の情報を得られぬまま、

 インドからさらに東へ東へと進んでしまった。

 そしてやがて大王の死を知って帰国を諦め、建国の地に選んだ新天地が、

 気候温暖な理想郷「ホーライの国=台湾」だったのである。

 するとその眼の前には、意外にも富み栄えている沖縄カリエン経済界があった。

 目と鼻のさきにある小島を取ってイオニヤ(行く基地)にしたギリシャ人たちは、

 沖縄の島々を或いは戦って取り、

 あるいは島長(しまおさ)の娘と結婚して先住民に溶け込みつつ、

 さらに拡がっていった。

 《「八紘一宇理想」が生んだギリシャ人東方政権


 『文化史年表』
 文化史年表

 『CHRONOLOGICAL CHART』
 CHRONOLOGICAL CHART

 『ウワイト』
 ウワイト
 『ウバイド』
 GoogleWeb検索
 YahooWeb検索
 YahooWeb検索
 Google画像検索
 Yahoo画像検索

 言語復原史学会
 言語復原史学会

 『My ブログ』
 歴史徒然
 ネット歴史塾
 ウワイト(倭人)ウバイド        
 オリエント歴史回廊(遷都)    
 古代史の画像 
 歴史学講座『創世』うらわ塾
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」         
 

 小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
 メソポタミア世界
 シュメル-人類最古の文明 
 The ETCSL project,Faculty of Oriental Studies, University of Oxford

 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕