『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録19:11頁
殷人が稲敷を聖地にした根本思想
ここで考える必要があるのは、
ではなぜ?彼等の聖地である茨城県の稲敷が、
貝のつく名で呼ばれず、稲のつく名で呼ばれているのか?という疑問である。
それはインという西を意味する別称があったから、
それに「稲という当て字」を用いたのだと思いがちである。
しかし稲は中国の発音でトウだから、インへの当て字にはなるはずがない。
東風をコチというが、沖縄大隅語ではクッで、クッはまた「来る」を意味する。
「去る」を「イン」というのと対称になっている。
「太陽は東からクッ。西にイン」というのだ。
稲は水稲も陸稲も間違いなく西から来た植物である。
語源は放と同じく太陽の去る西の地の産物を意味している。
殷と稲とは同じ時代に生まれて使われた日本語の兄弟なのである。
その殷墟や他の殷代の遺跡から陸稲の遺物が出土している。
しかしその辺りは北部中国であって、とても稲が自生していた地域ではない。
明らかに他の地域から移入された作物だ。
稲は主食を与えてくれる尊い植物だ。
その成育は太陽に左右されるから太陽の恵みだと考えるのも自然である。
すると稲敷がなぜ故人にとって整地だったかがさらによくわかる。
東を拝むのは太陽を崇拝する単なる迷信ではなく、
主食を恵んでくれる太陽の「経済的」な恩恵に対して感謝し、
さらなる恵みを乞う経済人間「商人」思想の産物だったのである。
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