『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:20頁
しかし、同一人だとすると新たな疑問が沸(わ)いてくる。
先に阿部の比羅夫が蝦夷を討伐し、
粛慎を討ったとあるとお話しした。
だとすれば天智天皇の大変な業績なのに、
なぜ?それが一言も記録されていないのか?。
いくら記録が混乱したといっても、
それは記録の持ち主が、
それぞれ使った当て字が違うだけで、
その事跡は同じように書かれていたはずだから、
それまで変わってしまうことはない。
変わるのは当て字のちがう名前くらいのものである。
そして実際に検討してみると、
事実、全てその通りなのだ。
いやその名の1つである蝦夷に至っては、
その文字さえも同じなのである。
天智天皇は中ノ大兄ノ皇子時代に、彼の最も有名な行為、
クーデターを敢行して蘇我を倒したと記録されている。
もうおわかりのように、
その相手は蘇我「蝦夷」なのである。
すると阿部比羅夫が討った蝦夷討伐の、
顎田(アグタ=原文には歯偏に咢の文字と田)や
淳代(ヌシロ)はどうみても、
東北地方の秋田や能代ではありえなくなる。
ところが同じ年に粛慎も討つ。
粛慎といえば私たちの常識ではシベリアの住民である。
その一部が、
そのときの阿部比羅夫の名乗りである
「越国守」の名から北陸あたりが、
その粛慎国だったのだとされてきた。
だがこれも怪しくなる。
ではそれらの記事はすべて、
『日本書紀』がデツチ上げた大ウソだったのであろうか?。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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