2011年3月2日水曜日

比羅夫が打った蝦夷は天智天皇が討った蘇我蝦夷(えみし)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:20頁

しかし、同一人だとすると新たな疑問が沸(わ)いてくる。

先に阿部の比羅夫が蝦夷を討伐し、

粛慎を討ったとあるとお話しした。

だとすれば天智天皇の大変な業績なのに、

なぜ?それが一言も記録されていないのか?。

いくら記録が混乱したといっても、

それは記録の持ち主が、

それぞれ使った当て字が違うだけで、

その事跡は同じように書かれていたはずだから、

それまで変わってしまうことはない。

変わるのは当て字のちがう名前くらいのものである。

そして実際に検討してみると、

事実、全てその通りなのだ。

いやその名の1つである蝦夷に至っては、

その文字さえも同じなのである。

天智天皇は中ノ大兄ノ皇子時代に、彼の最も有名な行為、

クーデターを敢行して蘇我を倒したと記録されている。

もうおわかりのように、

その相手は蘇我「蝦夷」なのである。

すると阿部比羅夫が討った蝦夷討伐の、

顎田(アグタ=原文には歯偏に咢の文字と田)や

淳代(ヌシロ)はどうみても、

東北地方の秋田や能代ではありえなくなる。

ところが同じ年に粛慎も討つ。

粛慎といえば私たちの常識ではシベリアの住民である。

その一部が、

そのときの阿部比羅夫の名乗りである

「越国守」の名から北陸あたりが、

その粛慎国だったのだとされてきた。

だがこれも怪しくなる。

ではそれらの記事はすべて、

『日本書紀』がデツチ上げた大ウソだったのであろうか?。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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歴史学講座『創世』
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