2015年6月30日火曜日

宇屋谷と神代神社(3)神代と諏訪大社③

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:922~924頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 宇屋谷と神代神社(3)神代と諏訪大社③

  「画詞」が「神使」の童体を「神代」といっていることからすれば

 「神子/熊子」は「神代」であり、

 神氏系図は

 第一代を「神子亦名熊子」、第二代を「神代」とするが、

 双方とも同義で、この氏族性が「神代」にあることは明らかである。

 第二代の名は科野国造に係わる「異本阿蘇氏系図」に載る

 「乙頴(一名神子、又云熊古)」に続く次代「隅志侶」に相応し、

 「クマシロ」と訓むことが示唆されている。

 諏訪大社の大祝家は「神氏」としてこの序文に登場するが、

 諏訪神族の中心として歴史を担ってきた。

 これを「ミワ」と読み

 大神神社の三輪氏と同族とする解釈もこれまでみられるが、

 「ミワ」は大神神社特有な事情によるものであって、

 諏訪大社には適用できず正当ではない。

 「クマ(氏)」少なくとも「カミ(氏)」であるべきである。

 その本義が「牡牛」であり、

 大神神社の奉祭氏族と遠祖は同族であることは

 当考察で明らかにしたところであるが、

 やはり別系としなければならないだろう。

 「神氏」名について、その正否ををかくにんすることは不可能ながら、

 「神代」であったとさえ推測される。

 「神氏」「神代」は誤って転記されやすい字体である。

 その実例がある。

 福岡県久留米市神代に当たる。

 和名類聚抄筑後国御井郡神代郷は隈代、神城とも表記され、

 和名類聚抄の高山寺本の「神代」と記し「久万之呂」と

 訓じているのに依拠しているが、

 伊勢本と東急本は「神氏」に作っているぼである。

 この実例を考慮すると、

 諏訪神族の歴史的背景から「御衣着祝神氏」が

 「神代」でなかったことは断言できないだろう。

 だが、1000年を超える年月に亘って「神氏」として

 歴史を築いてきたのであり、

 それは尊重されなければならない。

 「御頭」である鹿頭は「神代」なのであり、

 鹿頭が牛頭の役目を果たしている事実は紛れもない。

  以上の考察で「風の祝」が宇夜都弁命、美穂須須美命に

 依拠していることを含めて諏訪大社が斐川町の神代神社と

 深い関係にあることが理解されるだろう。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
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2015年6月24日水曜日

宇屋谷と神代神社(3)神代と諏訪大社②

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:918~922頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 宇屋谷と神代神社(3)神代と諏訪大社②


  延喜式神名帳水内郡には

 「建御名方富命彦神・別神社名神大」が記載されている。

 「富」は富(登美)氏族との縁りを推測させる。

  前掲の室町時代の小坂円窓が著した「諏訪ぢ明神絵詞」に

 「神代」は登場する。

 春の御立坐神事に神使として六人の幼童がその役目に当たるが、

 「神代童體(体)」故ある事なり」と記している。

 つまり「神代」とは「神使」なのである。

 諏訪大社にとって「大祝」とは「童」なのである。

 「神代」はまた「御霊代」とすることができ、

 これは「神子(童)」である。

 上社大祝家は神家という。

 その系図を記した「神氏系図」(諏訪教育会所蔵)の

 原文(漢文)の序文は次のようにある。

  神代ノ事ハ幽邈ニシテ記シ難シ。

  伝ニ曰ク諏訪大明神ハ天照大神ノ御弟、

  建速須佐之男命ノ六世ノ孫、大名持命ノ第二子、

  御名方富命神是ナリ。

  尊神、父ノ大神ノ大造ノ功ヲ輔ケ、国土ヲ経営シ、

  終ニ天祖ノ命ヲ奉ジ、之ヲ皇孫ノ命ニ譲リ、永ク此国ニ鎮座ス。

  子伊豆早雄命十八世ノ孫、健国津見命ノ子、健隅照命、

  科野国造健甕富命ノ女ヲ妻ル。

  健甕富ノ子、諸日照命、幼クシテ父ヲ亡フ。

  是ニ茨木国造許々意命、磯城島朝天皇ノ御宇、  

  科野国造ヲ拝シテ許々意命、緩撫ノ道ヲ失フ。

  健隅照命之ヲ遂にニ竟ニ襲フ。

  国造九世ノ孫、五百足、常時尊神ニ警ス。

  一日夢ニ神有リテ告グ、汝ノ妻兄弟部既ニ姙ル、

  身分娩必ズヤ男子ヲ挙ゲン。

  最長シテ吾将ニ之ニ憑ク有ラント欲ス。

  汝宜シク鐘愛スベシ、夢覚メテ後、之ヲ妻兄弟部ニ語ルニ、

  兄弟部モ亦、夢ヲ同ジク恠ム。且ッ慎ム。

  後果シテ男子ヲ産ム。因リテ神子ト名ヅク。亦熊子ト云フ。

  神子ハ歳ノ時、尊神化現在、御衣ヲ神子ニ脱着セテ、

  吾ニ体無シ、汝ヲ以テ体ト為スト神刺有リテ、御身ヲ隠ス。

  是即チ御衣着祝神氏有員ノ始祖ナリ。

  用命天皇ノ御宇二年、神子社壇ヲ湖南ノ山麓ニ構フ、

  其子神代、其子弟兄子(…略…)


  ここに登場する「神子(神童)」は、御名方神に係わる

 サンスクリット語からきた概念である。

 「ミナ」がその用語の基になっていて、

 「少年」で、その属性が「バラモンの少年/波羅門童子」である

 nāṇava を移入したものである。

 その同類語に kanāra (童子、児童)があり、

 インドの最南端にコモリン岬があるが、

 それは英語名で、ヒンディー語では kanniya-kunāri といい、

 インド古来からの童子信仰に依る。

 kunāri は kunāra の女性形で「少女」を意味し、

 コモリン岬 は女性の保護神の聖地である。

 「神子」を「熊子」というのはこの kanāra に依るのである。

 ここに、「神」を「クマ」と訓む例がみられ

 「神代」が「クマシロ」と読まれるのである。

 阿曇族の祖神海津見命はまた「少童」とも表記されるように、

 その祖神は童子である。

 「アズミ」はシュメル語の es-mā (家-船)で海人族に相応しい。

 スバル族にシュベリ(息子)とアシュリ(娘)があったと論じたのは

 第2章であった。

 このシュベリがインドに入り童子信仰となったと考えれれるが、

 日本に至り「ワタツミ」、

 そして諏訪大社に至り「神子」となっているのである。

 シュメル語に min があるが、

 これも「ミナ」であり、

 その字義は「二(漢字)」でサンスクリット語の dva,dvi と同義で、

 諏訪大社も」
 
 上社下社、前宮本宮、春宮秋宮の構成の

 元になっていると考えられるし、

 同じく men は「冠」の意味であるが、

 同様「ミナ」の概念で

 御柱祭の最後の段階御建神事に当り曳行されて

 また柱の頭を三角錐斧で切る「冠落し」と係わる。

 祝(ハフリ)は

 メソポタミアのハブール地方発祥の神官の名称であることを

 紹介するのが本書の主題であったが、

 諏訪信仰にはシュメルの想念が生きているのである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
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、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2015年6月22日月曜日

宇屋谷と神代神社(3)神代と諏訪大社①

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:916~918頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 宇屋谷と神代神社(3)神代と諏訪大社①

  斐川町宇屋谷の神代神社が「諏訪神社元宮」と

 地元ではいわれているが、

 実際そのような関係にあるといえるのだろうか。

 既に「風の祝」「鍛冶(鞴)」でその関係を提起した。

 結論は諏訪大社の歴史には「神代」と重大な関係にある。

 まず長野県内の神代の付く地名に触れておく。

  上水内郡豊野町に「上神代」という地名がある。

 これはかっての神代村の一部である。

 和名類聚抄においては「水内郡大田郷」内とみられるが、

 そこには延喜式神名帳の水内郡に同名で載る

 「伊豆毛神社」が鎮座する。

 同社は出雲宮、出雲大明神とも史料では表記されている。

 祝祭神は素盞鳴尊、大己貴命であるが、

 その祖神については、

 素盞鳴一神、伊勢津彦命、出雲建子命説があり不確定であるが、

 後述するようにこの中ではその地名「神代」から

 「出雲建子命」が最も可能性が高い。

  記述のように素盞鳴尊とするならば、

 それは「神代神」に置換えられなければならない。

 豊野町内には「石」の地名もあり、

 斐川町宇屋谷との繋がりを感じさせる。

 同町の南隣りは長野市だが、

 石の南方の同市内と千曲川を隔てた須坂市の向かいに

 小島の地名がある。

 そこからは少々離れるが、犀川と千曲川との狭間に篠ノ井があり、

 そこに延喜式神名帳更級郡に載る布制神社が鎮座する。

 その比定社は長野市篠ノ井布施五明の同名社であるが、

 同地には合わせて四社の同名社がある。

 同地はかっての布施郷で布勢氏がその祖神大彦命を祀ったとされる。

 この地域においても神代-布勢の関係を確認することができた。

 因みに「篠ノ井」はサンスクリット語を祖語とする。

 「篠」は sena で「軍艦」、

 「シノノイ」は sena-ni で「将軍」の意味がある。

 森将軍塚古墳初め、の地区に「将軍」名の付く古墳が

 数基あるのに対応される地名である。

 神代村、伊豆毛神社、布創神社は

 出雲の登美族の東漸をみるものである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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2015年6月21日日曜日

 宇屋谷と神代神社(2)神代神社と角間③

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:913~916頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 宇屋谷と神代神社(2)神代神社と角間③

  神代神社は石川県羽咋郡志賀町神代にも鎮座する。

 延喜式神名帳「能登国羽咋郡」に同名で記載されている。

 その訓を神名帳は「カンシロ」としているが、

 地元では「カクミ」と呼び、地名、河川名も同様である。

 何故ここでは「カクミ」なのだろうか。

 神代神社は次第に東漸するが、

 まず鳥取市大桷をみる。

 大桷は大満村と桷間村が合併した地名で、

 桷間は古く桷城村ともいわれた。

 そこに桷間神社が鎮座するが、

 祭神を牛頭天王と称しているので、

 桷城は「神代」であっただろう。

 奈良時代から史料にみえる地名で古墳群遺跡がある。

 同地区をの北側には布勢地区があり、

 大桷遺跡は古墳時代前期の遺跡である。

 同じ鳥取県の倉吉生田は

 天文13年(1544)までは鹿首と呼ばれた。

 その近くには現在下神、北条町の上神があるが、

 和名類聚抄久米郡の神代郷と係わっているようである。

 この鹿首が志賀町矢駄の字名にあり、

 遺跡名で知られ「シシクビ」と呼ばれる。

 「志賀」は「鹿」と同音で、隣りの富来町には鹿頭(ししず)がある。

 鹿首、鹿頭は同義である。

 鹿島郡名は本来「鹿頭(かとう)」であっただろう。

 羽咋町の神代神社の呼称「カクミ」は

 この「鹿首(かくび)」の訛った表音である。
 
 矢駄は yadu によるもので登美(富)族の流れがここにみられる。

 これらの資料は「神代」ろ表記されているが、

 実態が「鹿首」であることを示し、

 「牛頭」が「鹿頭」へ転移した実情を明らかにしているのである。

 第1章祝祭で越の国が牛を殺すことが盛んで禁止の政令を出しても

 なかなか止まらなかった状況を説明した。

 確かに石川県河北郡に宇ノ気町(宇気で牡牛の意)があるように

 牛と強い結びつきがあったことが窺われる。

 牛殺祭が禁止されるに従ってその対象を

 牛から鹿へと転換していったと推測されるのである。

 志賀町内に牛ヶ首の地名があるなどその古代の遺称である。

  鹿首となった「神代」が富山県氷見市神代(コウジロ)の

 「加久弥神社」である。

 延喜式神名帳の「越中国射水郡」に同名で記載されている。

 その北側には布施地区があり

 布勢神社(同じく神名帳記載)が鎮座し、

 両地区の西方には矢田部がある。

 yadava の音写とみられ、この辺りは登美族関係の地籍である。

 このように「神代」は「カクミ」となり、

 富山県に入ると「角間」と表記されるようになる。

 氷見市の北にある角間がその最初で加久麻神社が鎮座している。

 同県では婦負郡八尾町角間、新潟県では糸魚川市角間、

 三島郡中里村に角間神田がある。

 この鹿首(鹿頭)である角間は

 長野県、特に諏訪大社にとって重要である。

 諏訪市諏訪には角間川が流れるように

 かっては角間村と呼ばれた地域があった。

 諏訪大社の「御頭」が鹿頭、鹿首であることは既に述べた。

 その他小県郡真田町の角間、下高井郡山ノ内町の角間温泉、

 北佐久郡望月町、北御牧村を流れる鹿曲川も「カクマ」という。

 東北地方では秋田県にその地名がみられる。

 湯沢市角間、大曲市角間川、秋田郡若美町角間崎がそれだが、

 同県内にには鹿、角を付けた地名男鹿、鹿角、角館などと多く

 鹿頭に対する思念がそこにみられる。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
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2015年6月20日土曜日

宇屋谷と神代神社(2)神代神社と角間②

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:910~913頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 宇屋谷と神代神社(2)神代神社と角間②

  「神代」はまた「神の依代」が推測できる。

 主旨においてその概念を正しいと考えるが、

 この用語により成立したのではない。

 メソポタミアを起源とする

 祝の基盤にある想念を継承したものである。

 つまり、

 「神代」はその象徴「牛頭」を表現したものであるからである。

 「神」は

 サンスクリット語の牡牛を表わす gava, go, gu の転写である。

 「カミ」は gava, 「コウ」は go, 「クマ」 gava で(kuma)

 となったものである。

 これらの牡牛を意味するサンスクリット語に

 漢字の「神」が当てられた」のは、シュメル語の段階にまで

 遡って考えなければならない。

 シュメル語の「牡牛」の用語 gu, gud があり、

 サンスクリット語の前記の祖語である。
 
 第4章カルト人の移動「ゲルマン」で

 その祖語がシュメル語の gelam-am (階段-牡<野>牛)であり、

 ゲルマン族の「神」を表わす Gütt(ドイツ語)、 god (英語) は、

 シュメル語の gud に由来するとの観測を述べたが、

 それと同様に「牡牛」を表わすサンスクリット語 gava が

 漢字の「神(しん)」を用いて表記され「カム/カミ」となって

 いてもおかしくはない。

 この事情を証明する事例を述べる。

 第12章において、奈良県桜井市の大神神社に関して
 
 「大神(おおみわ)」の「ミワ」に何故「神」字が

 当てられているかの説明は行わなかった。

 「ミワ」は「美如」で「雲」であり、三輪は積雲の意味であった。

 「神」字が「ミワ」の当て字であることは明白である。

 「神」は日本語において「カム・カミ」である。

 「カム・カミ」の実際が「牡牛」である

 gave ともいうインドラ神の「牡牛」に由来する。

 インドラ神が牡牛であることは

 リグ・ヴェーダのインドラ神讃歌で謡われているところである。

 大神とは「大-牡牛」なのである。

 「神」は祭神の象徴である「牡牛」によって表現された用語である。

 三輪はインドラ神の首飾りである花環と

 関係することも触れておきたい。

 大神山が「青垣」であると論じたが、

 その祖語 śṛṅga は「角」 であり、同山は「角山」で

 錐形の牛角山であるとすることもできる。

  次に「神代」とは何かであるが、これは「牛頭」を表わす。

 サンスクリット語の「牡牛」と「頭」の意味である

 śira との合成語 で gava-śira, gava-śirasa (カムシロ),

 go-śira, go-śirasa (コウシロ) の音写である。

 よって神代神社は「牛頭神社」なのである。

 そしてこの「牛頭」である「神代」こそ

 本来の素盞鳴尊が占めている出雲の元祖神である。

 『古事記』に素盞鳴尊の神系が八島士奴美命をその御子として

 17世を語るが、その御名に「奴美(どみ)」があるように

 本来は富(登美)族の系譜であり、

 いうなれば「神代神」の系譜と考えるべきである。

 ここでも素盞鳴尊の立場を意図的に高くしている様子がみられる。

 宇屋谷の神代神社には大国主命が祀られていることから、

 同社は登美族に関係するものであろう。

 次にその名称による神社の流れを追うが、

 神代に付随して「布勢」名の地籍、神社が隣接する。

 「布施、布勢」に奈良県桜井市の阿部を本貫とする

 阿部族の一支族とされる。

 「フセ」の祖語が「供儀、供与」を意味する

 (阿部は hava を祖語とし、供儀を意味する)か、

 「ふさ/多」によるものか判断しがたいが、

 何れにしても多(生尾)に係わる登美族の本譜に属する。

 布施(布勢)神社は阿部氏の祖大彦命を祭神とする場合が

 ほとんどである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
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2015年6月19日金曜日

宇屋谷と神代神社(2)神代神社と角間①

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 牛角と祝祭・その民族系譜:908~910頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 宇屋谷と神代神社(2)神代神社と角間①

  宇夜都弁命を主祭神とするのが神代神社である。

 「神代」の追求は、

 古代の宗教的環境を知る上で貴重な内容を明らかにする。

 『日本書紀』の

 巻第一を「神代上」、

 巻第二を「神代下」、

 天地の創生から国生み、神々の誕生、

 葦原中国の平定から天孫族の系譜と

 神武天皇である神日本磐余彦尊の誕生までが語られる。

 そのことからは日本の創生の時代、

 神々の活躍する神話の時代を一般に神代と呼ぶが、

 この神社名「神代」はその時代を表わした名称でないことは

 自明のころである。

 では「神代」は何を表示したものだろうか。

  神代神社を地元では「カミシロ」あるいは「コウシロ」と呼ぶ。

 出雲国風土記には「神代社」が出雲郡に2社

 (一社は現神代神社に合祀されたという)

 飯石郡に一社記載されている(三刀屋町神代の神代神社)。

 また「神代」は肥前国風土記彼杵郡に、

 その挿話は除くが、神代直の個人名で載っている。

 和名類聚抄には地名として「神代郷」が以下のように載っている。


  備中国哲多郡神代郷 訓「加无之呂」

  備後国三上郡神代郷

  上総国海士郡神代郷

  淡路国三原郡神稲郷 訓「久万之呂」

  筑後国御井郡神代郷

  肥前国高木郡神代郷

  石見国邑知郡神稲郷 訓「久万之呂」


  「姓氏家系大辞典」は「神代」の訓を

 「カムシロ、コウシロ、クマシロ」としていることから、

 「神稲郷」も合わせ紹介した。

 これらを含め、現在日本国内には

 30を超える同名地が散在する。

 それらの呼称は「カミシロ、コウシロ」が多く、

 「クマシロ、カジロ」「ジンダイ」、「カクミ」もある。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
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 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年6月18日木曜日

宇屋谷と神代神社(1)宇屋谷と宇夜都弁命⑤

 『浦和レッズレディース』
 『ひねもす至福の時』
 『誕生日の花と花ことば』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『明星院・広島県歴史&地名他』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ(History)
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:905~908頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 宇屋谷と神代神社(1)宇屋谷と宇夜都弁命⑤

  『古事記』において建御名方神が建御雷神にしの手を

 取られとところ、

 その手は「若葦を取るが如」と形容しているが、

 この「若葦」とは出雲国風土記の美談郷に載る

 「和加布都怒志命」と係わる発想である。

 つまり「葦」とは「布都」と同義で「剣」を表わす。

 サンスクリット語の asi がその祖語で、

 これまで神奈川県の足柄(第11章)、

 埼玉県行田市忍(同)の祖語、また足立郡の「アシ」(同)の祖語

 として述べてきた用語である。

 「若葦」は「剣神(八千矛神)の御子」である。

 島根県平田市西郷町に葦原神社が鎮座する。

 その字名に西谷といい、

 「西」「葦」が同類であることを示している。

 「葦原」は単なる植物の芦を表わす用語ではなく、

 「剣・刀」を製造している場所との解釈に辿りつく。

 このあたりに西代、西谷、金田、庵地、本庄など

 刀鍛冶に関係する用語を地名としている所が多い。

  葦原名は、『古事記』に大黒主神の別称

 「葦原色許男」としても登場する。

 この神名は、

 同神が根の国の須佐之男命を訪ねた時告った名前である。

 葦原は前記の通りで、「色許男」の「シコ」は

 サンスクリット語の śikkā の転訛と考えられる。

 この用語は思金(思兼)神名 śikhin

 (再興の知識を得た、髪の房を持っている)の同類語で

 「髪の房」「髷」を表わす。

 同神は須佐之男命から困らされ、

 その娘須勢理毘売に助けられるが、

 あるとき大室に呼び入れられて

 須佐之男命の頭の虱を取らされた。

 つまり、髪の手入れをさせられたのであるが、

 「わたしは葦原の髪結い」と名乗ったためである。


 そこで色許男は虱を取りつつ、その髪を

 「その室の椽(たるき)毎に結い付けて、

  五百引の石を其の室の戸に取り塞へて、

  其の妻須勢理毘売を負ひて」逃げ出すことができた。

 この śikkā は śikhin で示されるように

 知識、学識 cikitsa に通ずるが、

 この概念が斐川町神庭の東学頭となっている。

 これは「ガクトウ」と読まれるが、本来は「チカトウ」で

 第8章の「六派哲学と五明学」で紹介した医方明や

 第11章日本に祀られたインドの神々で展開した

 「近津神」と同じである。

 平安時代になって大国主神が医薬神であると

 政朝が決めたのも遠因はここにある。

  守屋谷の周辺の資料を考察すると、

 この地域に鍛冶集団がいた可能性があり、
 
 荒神谷遺跡から出土した銅剣の工房の存在を推測させるのである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
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2015年6月16日火曜日

宇屋谷と神代神社(1)宇屋谷と宇夜都弁命④

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:902~905頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 宇屋谷と神代神社(1)宇屋谷と宇夜都弁命④

  ウヤ(宇屋)、イヤ(伊屋)は、

 先に述べた「敬、礼」の意味において共一である。

 この事実を基礎にして宇夜都弁命が

 建御名方神である傍証を述べる。

 長野県上伊那郡辰野町に鎮座する「矢彦神社」は

 第1章祝祭で

 三叉矛を「神代鉾」として護持する神社として紹介したが、

 その祭神は建御名方神で、

 同神が諏訪に入る前に一時ここに滞留したとの伝承を持つ。

 その社名を「矢彦」は「弥彦」で「イヤ彦」であった。

 「イヤ彦」は「伊屋彦」あるいは「宇屋彦」で

 宇夜都弁命をいう名称である。

  「イヤ彦」は「伊夜比古」と表記され、

 新潟県西蒲原郡弥彦村に鎮座する弥彦神社の正式名でもある。

 同社は延喜式神名帳越後国蒲原郡に

 「伊夜比古神社名神大」と載り、万葉集越中歌に

 「伊夜彦の神の布本(ふもと)に 今日らもか 鹿の伏すらむ

  皮の服(きぬ)着て 角つきながら」

 と歌われている古社である。

 祭神は現在天香語山命とされているが、

 「神道大辞典」が

 「祭神天香語山命となっているが、

  その勧請社では伊夜彦を称している」

 との指摘をしているように

 「伊夜比古」神の神格が不明であったか、

 あるいは意図的な方針によってか、

 現祭神が主祭神とされたものである。

 その時期などについては史料は明確であるがここでは触れない。

 この伊夜比古神も

 実は辰野町の矢彦神社同様建御名方神にある宇夜都弁命である。

 能登半島の七尾湾にある島、

 石川県鹿島郡能登島町向田(こうだ)に鎮座する伊夜比咩神社は

 例年7月31日に「オスズミ祭」と称して、

 高さ30メートルの柱松明に火を掛ける火祭を行うが、

 この柱松明は年一度越後からやって来る伊夜比古神に

 その比咩神の所在を知らせるものだとの伝承があり、

 伊夜比古神社に相対する神社である。

 祭神は神社名と同じくするが、

 現祭神を大屋津姫命としている。

 同社も延喜式神名帳能登国能登郡に同名で載る古社がある。

 また大伴家持に

 「鳥総(とぶさ)たて船木きるといふ能登の嶋山今日見れば

  木立繁しも幾代神(かむ)びぞ (万葉集巻十七 4026)」

 と歌われた。

 その「オスズミ祭」は「御須美祭」と考えられる。

 「須須」が「スズ」となった理由は、能登半島の先端珠洲市寺家に

 須須神社があり美保須須美命が祀られていることが影響し、

 「珠洲」となったからであろう。

 つまり「オスズミ祭」とは、美穂須須見命である建御名方神にして

 宇夜都弁命、あるいはその后神を祭る神事なのである。

 その柱は高佐13~15メートルの大木で

 周りに800束からなるシバをくくりつけ、

 柱の上に同じ高さの青竹をその先に御幣をつけて立てる。

 後に述べるが、「柱を建てる」は建御名方神の象徴なのであり、

 「伊夜比咩」は伊夜比古の后神とすることができる。

 そして伊夜比古神が建御名方神(美穂須須美神)であることを

 証明しているのである。

  珠洲市の須須神社は高座(たかくら)宮と呼ばれ、

 高座山に鎮座している。

 その勧請社が珠洲市蛸島の高倉彦神社、

 鳳至郡能都町真脇の高倉神社であるが、

 更に越後の伊夜比古神社(弥彦神社)にも

 その「高倉」は伝わったらしい。

 「コウクラ」と訓まれ、

 祭神を天香語山命とした原因となったとみられる。

 その経緯の中で「神倉」つまり「高倉下命」が介在したのである。

 けだし、伊夜比古神社の原初的祭神は建御名方神である

 宇夜都弁命である。

  延喜式神名帳能登郡に載る「鳥屋比古神社」は

 現在の鹿島郡の同社名から採られた町名鳥屋町春木に鎮座するが、

 同社は島根県斐川町鳥井の鳥屋神社を勧請したものと推測され、

 その西隣り瀬戸の「瀬戸比古神社」も後述の通りで、

 双方とも建御名方神を祭神とするものと考えられる。

《参考》

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 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
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