2015年6月5日金曜日

銅剣と荒神谷遺跡④

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:891~895頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 銅剣と荒神谷遺跡④

  天穂日命の葦原中国への派遣について、

 『古事記』は

  「思金神及び八百萬の神、議(はか)り白ししく、

  『天菩比神、是れ遣はすべし』とまをしき。

  故天菩比神遣はしつれば、及ち大国主神に媚び附きて、

  三年に至るまで復奏さざりき。」と記す。

 つまり「媚び附いて」、『日本書紀』では「倍婚」というが、

 大国主神に服従してしまい、

 遣使の役目を果たさなかったというのである。

 しかし、素盞鳴尊のの神話上の行状からすれば、

 大国主神の国を制圧して

 自分達が支配者になったまま

 葦原中国(出雲)を天孫に献上しようとしなかったというのが

 本当のところであろう。

 大国主神を奉ずる先住の人々、第12章の「出雲族」で

 述べた意宇(多)氏、つまりヤーダヴァ(ドヴァラカ)族の

 鍛冶集団を征圧したのは建御雷神などではなく、

 天穂日命氏族であったとの理解が生れてくるのである。

 『記・紀』は大国主命の国譲り後に

 新しい統治者を送るのではなく、

 天穂日命にその祭政を任せている。

 ただし、その後裔は崇神天皇の時代の出雲振根の事件を初め、

 繰り返し時の政朝からその服従に疑いを持たれ、

 出雲国造神賀詞にみられるように代が替わるごとに

 服従の誓約を述べなければならないは後になっている。

 不思議なことに天孫族の支配に最も反抗したと語られた

 建御名方神の留まる諏訪の勢力に対しては服従の誓約や

 建御雷神に述べた条件が守られているかなどの尋問は

 その神話上も史料上の記録にも全く見当たらない。

 『古事記』の物語がいかに虚構であるかが解かってくる。

 つまり、天孫族の出雲支配に抵抗したのは天穂日命氏族であり、

 大国主命あるいは建御名方神ではなかったのである。

 延喜式神名帳 因幡国高草郡に

 「天穂日命神社」「天日名鳥命神社」と共に

 「阿太賀都健御熊命神社」が記載されている。

 天日名鳥命は天夷鳥命などとも表記され、

 天穂日命の御子神である。

 健御熊は『日本書紀』に

 「大背飯三熊之大人、別名武三熊之大人」とあり、

 天夷鳥命の別称とされる。

 その神名を修飾する「阿太賀都」はサンスクリット語で理解すると

 adhi-gata でその意味は「得る、獲る、横取」である。

 3年間復命しなかった父の後を追って、

 『日本書紀』は武三熊之大人が派遣されたが父に従って

 復命しなかったと述べている。

  『三国史記』の「新羅本紀第二」の十四代儒礼尼師今の

 十四年に以下のような奇妙な話が記述されている。

 東洋文庫から転載する。

  伊西国(慶北清道郡)が侵略して来て金城を攻めた。

  わが国は〔国民を〕総動員して防いだが、

  撃退することができなかった。

  突然異様な姿の兵隊がやって来た。

  その数は数え切れないほどで、

  彼等は皆竹葉を首飾りにしており、

  わが軍とと共に賊軍を攻撃し、これを討ち破った。
  
  その後、彼等の行先がわからなかった。

  〔ただ、〕人々は竹葉数万枚が

  竹長陵に積み上げてあるのを見て、

  〔これが彼等の耳飾りの竹葉でないかと〕疑った。

  このことによって、

  人々は先王が陰兵をもってこの戦いに援助したのだと思った。

 ここに登場する竹葉は三又戈と同じと考えられ、

 矢ないも矛、剣とみられる。

 天鈿女命が天石屋戸の前で手に持って踊った「小竹葉」である。

 『日本書紀』で素盞鳴尊が韓郷に行ったが、

 そこに留まらず」に舟でこの国へやって来たと

 語られているところをみると、

 この「異様な姿の兵隊」とは素盞鳴尊を奉祭する集団と考えられる。

 竹葉が積み上げられたとは、

 剣などを積み上げたと考える。

 それはまさに「矛を納める」(戦闘を終わらせる)意味である。

 荒神谷遺跡の銅剣がよそから持ち込まれたとするならば、

 それは征圧をし終わった集団の戦勝を祝う祭事と

 考えることができる。

 祭祀用剣であるから刃こぼれなどが無くて当然だろう。

 斐川町の東隣りの宍道町の西端、斐川町境に佐々布地区がある。

 これは「ササハ・竹葉」の字義である。

 その直ぐ東の白石に才という字名がり、

 佐為神社が鎮座する。

 竹葉は「佐為」で「剣」である。

 358本の銅剣が外部からのものとするならば、

 それは出雲国造氏族の所行と考える。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ


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