2016年5月8日日曜日

《北陸と佐渡の秘密》②

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1168~1191頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《北陸と佐渡の秘密》

 だが、七尾市黒崎を後にした「契約の箱」に

 納められた「像石」が最後に安置された地が

 佐渡島であることは明白で、

 現在もその隠れた聖所に保護されている筈である。

 七尾市黒崎を船出して石板の運搬船がどのような

 航路を経て佐渡へ渡ったかは判断し難いが、

 黒崎から新潟県の頚城郡青海町の海岸へ

 富山湾を横断し、神社のある五智の海岸、

 刈羽郡西山町の御島石部神社の鎮座する

 石地の海岸を経て佐渡島へ渡った推測される。

   佐渡島史書に表れるのは『記・紀』からである。

 『古事記』の国生みの条に「佐渡嶋」とあり、

 これを『日本書紀』は「佐渡洲」と記す。

 同紀には欽明天皇5年に「佐渡島」、

 『続日本紀』の文武天皇の大宝元年(701年)に

 「佐渡」と表わされている。

 7世紀末までには北陸と同じくその地名が

 定着していたとみられる。

 佐渡は「延喜式」には訓がない。

 「サド」は最初に述べたようにヘブライ語の

 SVD(秘密、内緒)の音写である。

 以下の見解に依り

 同島に適した名称であることが解る。

  「延喜式」神名帳および民部に羽茂、箱太、賀茂の

 三郡が載っている。

 「箱太」の訓を「サハタ」としている。

 「サハタ」は『古事記』が

 「其少名毘古那神を顕はし白せいし謂はゆる

  久延毘古、今者山田の曾富謄(そほど)といふぞ」

 「曾富謄」と同根でヘブライ語の 

  ShVPhT(shophet、裁判官、土師)の音写であり、

 少彦名神を示唆している。

 この件については後述する。

 漢字「雑太」の「サッタ」は SDR(seder)で

 「隠れ家、隠れ場所」を表し SVD(秘密)に対応する。

 幸手市名の STR(seter、隠れ場所、隠れる)の

 変音である。

 神名帳の式内社に引田部神社が載る。

 同社は現在真野町金丸に同名で鎮座している。

 地名「金丸」は

 石川県鹿島郡鹿西町の宿那彦神像石神社の

 鎮座地名とおなじ KhKYH-MLKh(船乗りの宿営地)で

 少彦名神の鎮座地であることを示している。

 引田氏は大彦命の後裔とされ、

 同命を祭神に祀るとする説もあるが、

 社伝がいう大己貴命にして少彦名神が優先されよう。

 社号の「引」あるいは「引田」は

  HK(hok)あるいはHKhT(hokit)の音写で

 「法律の、規則の」で、同類語「石などに刻む」の

 Kh(H)KKは「法律を制定する」との

 字義で用いられており、

 モーセが十戒を石板に刻んで

 伝授された故事に符号させている。

 当該神社名を「引-田部」と分けて理解する。

 「田部」は同じ神名帳の記載御食神社の「食」と

 同根と考えるからである。

 同社に神名帳は「ミケ」と訓じているが、

 これは「田部」と同様「みタベ」で、

 ヘブライ語の TBLH(tabelah) の転訛である。

 同語は「(金属、石、木の)平板」を意味するので、

 「御食」は「お板」、

 「引田部」は「法律の箱」と解釈され、

 「十戒の石板」を表わしている。

 御食神社は現在畑野町宮川に同名で鎮座している。

 このように雑太郡には「十戒の石板」に係わる

 秘密が隠されている。

 神名帳の同郡にはまた飯持神社が記載され、

 同名社が現在畑野町河内に鎮座しているが、

 神名帳は「イモチ」「ミケモチ」と訓じている。

 前者はもう一つの郡名「羽茂郡」の訓「ハモチ」に

 通じ、飯持も羽茂も「ハネモチ」と訓め、

 これはヘブライ語の HVR(hun)の転写で

 「富、財産」を表わす用語で、これまで述べた

 飯島、福島とその概念を共有する。

 「羽茂」を「ウモ」と訓んでいるのは

 また理由がある。

 同郡に記載されている式内社大目神社と関係し、

 ヘブライ語の IRMH(armah)の転訛で

 「山、塚、積み重ね」が字義である。

 大目神社の訓を神名帳は

 「オホマ(秘称)」としている。

 新潟県頚城郡青海町の「オウメ」も同根で、

 石板の佐渡への経路としての地名と考える。

 同名の神社が現在真野町吉岡に鎮座している。

 祭神は「佐渡国寺社境内案内帳」「神社明細帳」が

 大己貴命としているのが正しい。

 ただ草創の頃の鎮座地は現在の羽茂町椿尾の

 大目神社跡と伝えられ場所である。

 「神社明細帳」が徳治2年(1307年)に

 大間遠江守が守護神として

 現在地に遷したというのは史実であろう。

 「和名類聚抄」羽茂郡の大目郷の地である。

 鎌倉時代の守護本間氏は佐渡において神社の改めを

 いろいろとやったらしい。

 このように「延喜式」神名帳に載る諸社については

 解釈される。

 だが、

 これらの神社に能登半島を離れた「十戒の石板」が

 納められている訳ではない。

  さて、神名帳が「御食」を「ミケ」とし、

 「飯持」を「ミケモチ」としていることにも

 背景がある。

 『記・紀』が崇神天皇の時

 大彦命を北陸に遣わしたことを述べているが、

 佐渡にも大彦命の勢力の遠征があったとの伝承が

 遺っている。

 大彦命を祖とする阿部氏の「アヘ」が

 サンスクリットの ahar であると述べたのは

 第11章の「埼玉・鹿島:剣持神の国」であった。

 「ミケ」とは

 その ahar である「神饌」と称しているのである。

 その本実はただし前述の通り

 「御タベ」で「板」である。

 しかし、

 御食は「オケ」と訓めるので

 この点を疎かにできない。

 佐渡島の南端で小木(おぎ)町がある。

 観光用の桶舟を出すなどオケにこだわっている。

 また民謡の佐渡おけさ節の「オケサ」が生まれるなど

 その類似語は佐渡の文化の鍵となっている。

 「オケ」あるいは「オケサ」はヘブライ語の

 ARGZ(areegaz)の転訛で「箱、木箱」の字義で

 「契約の聖櫃」を指している。

 この中に「十戒の石板」が納められたのである。

 「オケサの島」は「聖櫃の島」である。

 そして「櫃・箱」の名称である所に

 石板は安置されている。

 そこは現在神社となっているが、

 「延喜式」神名帳の頃には神社として

 その社殿が無かったので、

 それには記載されなかったと考える。

  その神社は真野町西三川小布施に鎮座する

 小布施神社である。

 「小布施」は一般に「オブセ」と訓まれているが、

 本来は「コフセ」でその祖語はヘブライ語の

 KPhSH(kofesah 箱)である。

 安来市木佐町の支布佐神社の祖語であるなど

 何度も登場した用語である。

 小布勢神社とは「聖櫃神社」である。

 本土の西山町、柏崎市辺りから

 佐渡島へ航海して来ると羽茂町の海岸に辿り着く。

 その大石湾の大石に小布施神社が鎮座している。

 大石は「ダイ石」で「ダイ」が DV(Dvv) で

 「二枚の石」を意味する。

 「十戒の石板」を積んだ船はここに来着し、

 同社の場所で一定期間宿営していたのであろう。

 その後の経緯は推測できないが、

 終には

 西三川の高塚山の山麓に所が築かれたのである。

 至聖所とは

 幸手市神明内八海神社に

 原型を保っているような石塚で、

 「石の祭壇」である。

 高塚山の名称はこの塚から付けられたものだろう。

 同神社本殿の背後には現在小高い聖域がある。

 これが石塚であったことは間違いない。

 伝承によると崇神天皇に派遣された

 大彦命が来征した際、

 この地にいた先住民がきつく抵抗し、

 なかなか制圧できず、先に進攻できなかったという。

 その先住民こそ石塚を護っていた

 イスラエルの人々であり、

 最重要の聖地を死守しようと強勢であったのである。

 しかし、彼らは敗れた。

 そのため石の祭壇の意義を知り保護することをも

 軽じられようになったのであろう。

 中世鎌倉時代になって守護として渡来した本間氏は
 
 聖跡との伝承のあったここに社殿を建てた

 石塚の保護を神社として始めたのである。

 それまで社殿は無かったのである。

 「同社には古く社殿が無く、

  本殿背後の磐石と称する小丘に

  佐渡開祖の人らが創祀したと伝える」と、

 「全国神社名鑑」が由緒を述べている背景は

 上記のように考えられる。

 佐渡開祖(先住民)の人々であるイスラエルの人々が

 「十戒の石板」と石の祭壇として築いた石塚は、

 『出エジプト記』第20章で語られたように

 自然石だけに依る「積み重ね」であったのである。

 現在の祭神は素盞鳴尊であるが、

 これは本間氏の一統とみられる

 佐々木氏の祖臣であり、大彦命であったとする説も

 上記の解釈から言われているもので、

 本来は大己貴命でもある少彦名神であり、

 ヤハウェ神なのである。

 「佐渡国寺社境内案内帳」は明徳5年(1394年)に

 本間山城与市重頼が創建したと言う。

 この本間氏後に再び本書で登場する 

 信仰に厚い一族である。

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