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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:1281~1299頁
おわりに
《箒木は「智恵の木」》
『旧約聖書』「イザヤ書」第40章6-8に
次のような詩がある。
40:6
声が聞える、「呼ばわれ」。
わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。
「人はみな草だ。
その麗しさは、すべて野の花のようだ。
40:7
主の息がその上に吹けば、
草は枯れ、花はしぼむ。
たしかに人は草だ。
40:8
草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、われわれの神の言葉は
とこしえに変ることはない」。
この偉大な力を持っている「息」は、
ヘブライ語で HBL(hebel) といい、
「息、蒸気」また「風」を表わす。
グルジア語の同類語 haeri は「空気」を表わす。
ヘブライ語において HBL は、
さらに「空、空虚」を表わす。
『旧約聖書』「伝道の書」第1章2に
この「空」が用いられている。
1:2
伝道者は言う、
空の空、いっさいは空である。空の空
これを漢語的に表記すると、
「空空、一切是空、空空」となる。
「空空」はヘブライ語で
HBL-HBLYM(hebel-habalim)となり、
「虚無感」を言ったものと理解される。
「伝道の書」は第1章1に
1:1
ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。
とあり、伝道者とはダビデの王子ソロモン王を指す。
聖書学者は
この書は実際にソロモン王が述べたのではなく、
同王に託して述べられたものであるとの
見解を共有している。
第1章12-14は述べる。
1:12
伝道者であるわたしはエルサレムで、
イスラエルの王であった。
1:13
わたしは心をつくし、知恵を用いて、
天が下に行われるすべてのことを尋ね、
また調べた。
これは神が、人の子らに与えて、
ほねおらせられる苦しい仕事である。
1:14
わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、
みな空であって風を捕えるようである。
同書の第1章から第4章まで
いろいろな自然現象や人間の行い、また
王の努力苦労などを述べているが、
それらを「空であって風を捕えるようである」と、
それらが空しいことを弁明している。
これは「イザヤ書」の「草は枯れ、花はしぼむ」
に対応する。
第1章は上記の
「空の空、いっさいは空である。空の空」に続いて、
次のように詩われる「伝道の書」第1章(3-9)。
1:3
日の下で人が労するすべての労苦は、
その身になんの益があるか。
1:4
世は去り、世はきたる。
しかし地は永遠に変らない。
1:5
日はいで、日は没し、
その出た所に急ぎ行く。
1:6
風は南に吹き、また転じて、北に向かい、
めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
1:7
川はみな、海に流れ入る、
しかし海は満ちることがない。
川はその出てきた所にまた帰って行く。
1:8
すべての事は人をうみ疲れさせる、
人はこれを言いつくすことができない。
目は見ることに飽きることがなく、
耳は聞くことに満足することがない。
1:9
先にあったことは、また後にもある、
先になされた事は、また後にもなされる。
日の下には新しいものはない。
「しかし、地は永遠に変わらない」は、
前記の「イザヤ書」40章の
「しかし、われわれの神の言葉は
とこしえに変わることはない」に対応する。
「人はみな草で」、「草は枯れ、花はしぼむ」が
「地は永遠に変わらない」ように
「神(の言葉)はとこしえ(永遠)に変わることはない」
のである。
つまり、人のなせる業は「空空」であるが、
神は有り続けるもの「有る者」にして
「有りて有る者」であると言っている。
「有る者」「有りて有る者」を漢語的に表記すると
前者は「有」、後者は「有有」となるが、
本書の第16章の
「志摩のダンダラボーシと天白社」で述べたように
「如」あるいは「如如」とする方が的確である。
「空空」と「如如」は
仏教の経典にも使われている用語である。
「空空」はサンスクリット語で
śūnyatā-śūnyata といい、
大乗仏教の端緒となった
般若経の「空(śūnya:本義は零)」の説に始まり、
大空経(中部122経)、中阿含経(巻49)に表れ、
「空という観察それ自体空である」というのが
その論旨である。
鳩摩羅什が漢訳した「中論」の「空亦複空」が
それを表わしている。
空海の詩文をまとめた「精霊集(巻第7)」には
「戯論を空空に滅し、寂静を如如に証せむ」と、
「空空」と「如如」とが
対極にあるものとして用いられている。
その「如如」は「智度論2」に
「如如法性実際世界故無、第一義故有」とあり、
「大乗義章3」には
「如如ト云フハ、是前正智所契ノ理ナリ、
諸法體ハ同ジ、故ニ名ヲ如トナス、
一如中ニ就イテ、體ハ法界ノ恒沙仏法ヲ備エル、
法ニ随ッテ如ヲ弁ズレバ、
如ノ義ハ一ニ非ラズ、彼此皆如ナリ、
故ニ如如ト曰フ」とある。
恒沙とは恒河(ガンジス河)の砂の数をいい、
物の極めて数の多い比喩で
仏典にはよく使われている慣用句である。
體(てい)とは「かたち、ありさま」である。
「如」はサンスクリット語で tathā といい、
「存在のあるがまま」を意味する。
同語は漢語仏典に
「法界、実相、真如、如実、如如」と訳されている。
tathā-tathā は漢訳され「如是如是」となっていて、
「如如」に相当する。
これらは、全ての存在の法(性)の
真実(あるがままのすがた)を言っている用語である。
「往生要集(大文第4 正修念仏)」は
「色は即ち空なり、故に これを真如実相といふ」
といい、「真如」と「如如」は同義とされ、
「大乗仏教」においては
「空」を強く主張する。
これに対し、
『旧約聖書』は
「如如(有有)」を強く主張し、
そこに神性を求めている。
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