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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
セブンネット
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:1168~1191頁
第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰
《北陸と佐渡の秘密》
さて、社殿背後の小高い丘は禁足地となって
現在石柵で囲まれていて入れない。
土地の人が磐境神社と同社を呼ぶように
この石柵の内に「御食(みけ)石」という
長さ70㎝の石が置かれていて、
本来この石がご神体とされてきた。
「御食石」とはすでに分析しておいたように
「オケ石」で「箱石」となる。
「おタベ石」と解釈すれば
その室には霊体の石板が安置されていることになる。
だがこのご神体とされてきた御食石は
「聖所のおさえ石」で
聖箱を納めた室の扇を固める石である。
同神社の周辺から祭祀遺物が発見されている。
御食石の近くから滑石製有孔石製品一個が、
その禁足地から200㍍離れた山林中から
長さ7㎝の子持勾玉が出てきた。
子持勾玉は第12章 大国主に神と大物主神で
述べたように桜井市の大神神社の祭神大己貴神に
係わる祭具であり、
大彦命の傘下での人々の祭祀に係わる遺品であろう。
この一件でも祭神を大己貴神とする理由となる。
「コフサ」を「オフサ」と称するのは
大彦命の後裔阿部氏族に
「フサ(布施、布勢)」名があり、
その理由により「おフサ」となったのであろう。
また「御食(みけ)石」というのは、
旧8月15日の例祭にご例祭に
ご神体の石境に
新穀と(𩙿+豊)酒と餅として供饌する
式典の神饌から名付けられたもので、
第1章 祝祭の「ウケ」である用語である。
これらは大彦命の傘下の人々が始めた祭祀であろう。
同神社にはもう一か所禁足地があり、
ここが奥宮と考えられる。
通称岩坂と云われる長さ2㍍の大石を中心にした
70㍍、50㍍の方形の地で、
ここを田切須配石遺構といい、
3つの大環状、139の小環状の配石が遺っている。
田切須もまた重要な名称で、
現在西三川の西隣りの地区名で
この禁足地名から興った地名であろう。
これを「タキリス」というが、その字義が
「二つの板」である。
「タ」がヘブライ語の DV(duu) で、
「二つの」意味で羽咋市の「大町」の祖語であり、
「キリス」はKRSh(keresh)の音写で「板」を表し、
「タキリス」は「二枚の板」で
「二枚の十戒の石板」を意味する。
ヨシュアより与えられた二枚の石板は
この禁足地に埋蔵されているとの開示である。
ただ実際の埋蔵場所が
本殿背後の禁足地か
田切須の禁足地かは即断が許されない。
幸手市の田宮・八海神社の関係から推して
奥宮の性格のある後者を実際の「隠れ場」と
する方が穏当な見方ではある。
小布勢神社の氏子には栗の木の葉には
小便をかけてはならないという言伝えがある。
その理由はヘブライ語で「栗、栗の木」を
IRMVN(aremon)というが、その近似語が
IRMH(arimah)で「山、塚、積み重ね」を意味し、
栗の木の葉が、
二枚の石板を納めた石塚に通じるからである。
「石の祭壇」に小便をかけるなどの無礼は
許される筈もない。
幸手市の場合、石の祭壇を
「オウガル AVN-GL」(石の積み重ね)といったが、
佐渡の場合「オホマ IRMH」といい、
「大日」と表記しているのである。
既に述べたように
「延喜式」神名帳の大日神社の所在地、
「和名類聚抄」の大日郷の所在地を波茂町椿尾
とするのは、
小布勢神社の至近距離にあるからである。
高塚山と呼ばれる丘陵地こそ大日(石塚)である。
「和名類聚抄」の波茂郡に越太郷があるが、
小布施は同郷の中心的地域といわれている。
そのため
越太は越伏(こふせ)の
誤記ではないかとの説もあるが、
「越太」は「コシタ」でサンスクリット語の
koṣṭhe の音写で
大彦命の傘下の人々が持ち込んだ用語である。
その字義は
「貯蔵室、倉庫、周壁、囲まれた場所」であり、
5、6世紀世紀にはそのような評判が
この地にあって平安時代に郷名になったのであろう。
以上の見解のように佐渡はヨシュアより
ガド族等に授けられた十戒を訓んだ
「二枚の石板」を埋納し
隠れ場を築き護ってきた「秘密」も聖所なのである。
とはいえ、この石板は『出エジプト記』の神殿に
安置されたものではないを認めておきたい。
従って小布勢神社に安置されている石板を
「イスラエルの石板」ということにする。
ヘブライ国がソロモン王亡き後
イスラエル国とユダヤ国に分裂し、
紀元前8世紀にアッシリアにより滅ぼされ
捕囚となったのは北のイスラエル国の人々で
(うしなわれた十支族)で、
ガド族はそれに属していたからである。
これに対しエルサレムの神殿に安置されていた
「モーセの十戒」を
「ユダヤの聖櫃」「ユダヤの石板」
ということができる。
英語で言う Ark of Judei(ユダヤの箱)である。
この「ユダヤの聖櫃」も
紀元前587年に新バビロニアに
依ってエルサレムの神殿が破壊されたために
行方不明になってしまった。
現在もその所在は知られていない。
その「ユダヤの石板」の現在の安置所を
私(小嶋秋彦)は
幸いにも天の導きにより知ることを得ているが、
本書には述べないこととした。
季(とき)がいたれば公表することもできようが、
季はその季ではない。
最後に北陸道の別称を
『日本書紀』が「クヌカノミチ」、
西宮記が「クルカノミチ」、
北山抄が「久流加之道」という理由を述べる。
「クヌカ」は少彦名と石板の移動宿営地である
KhNYH(khanaykh) の音写である。
鹿西町、真野町の金丸の「カネ」の祖語である。
「クルカ」は GVLH(golah) の音写で祖国からの
「追放、捕囚」の字義が
「離散したイスラエル人の居留地」となった用語で、
本節でみたようにイスラエルの人々の
濃密に居住した北陸地方の名称として相応しい。
富山市の呉羽名はこの GVLH 名であろう。
呉羽が属していた婦負郡は現在「ニフ」と
呼ばれるが古代には「メフ」であった。
これはヘブライ語の MPhRTs の転訛で
「入江、湾」を表わす用語で
富山湾に因んだ地名である。
その富山は「富山郷」名に由来するが、
市内の本郷町辺りが当該比定地であろう。
隣りの「大町」名は羽咋市の場合と同じく
「二つの」であり、太田は証人の ID(Ied)に依る。
その太田地区に刀尾神社が鎮座し、
「トウオ(ビ)」が「富トミ」になったらしい。
DV-AVN で「二つの石」の意味で
「富山」は「二石の山」でイスラエルの
「石の祭壇」に係わる。
富山市域も
イスラエルの人々の居留地であったのである。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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