2016年5月15日日曜日

《「財宝国」任那と百済》

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1211~1216頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《「財宝国」任那と百済》

  『日本書紀』の

 「気長足姫尊神功皇后」の9年春2月の条に

 「足仲彦天皇、筑紫の橿日宮の崩りましぬ、

  時に皇后、天皇の神の教えに従わずして

  早く崩りたまひしことを傷みたまひて、

  以爲さく、崇める所の神を知りて、

  財宝の国を求めむと欲す。

  是を以て、郡臣及び百寮に命せて、

  罪を解へ過ちを改めて、

  更に斎宮を小山田邑に造らしむ」

 とある。

 その財宝国は足仲彦天皇である

 仲哀天皇8年の秋9月の条に

 熊襲を討つために下降したのであるが、

 神が皇后(神功)に神懸かりして

 申した言葉の中に出て来る。

 「天皇何ぞ熊襲の服はざることを憂へたまふ。

 是、膐宍(そしし)の空国ぞ。
 
 豈、兵を挙げて伐つに足らむや。

 「天皇、何ぞ熊襲の服はざることを憂へたまふ。

  是、膂宍の空国ぞ。

  豈、兵を挙げて伐つに足らむや。

  茲の国に愈りて宝有る国、譬へば、

  乙女の眉ひきの如くにして、津に向へる国有り。

  〔(目+彔) 此れ麻用弭枳と云ふ〕

  眼炎く金・銀・彩色、多に其の国に在リ。

  是を栲衾新羅国と謂ふ。」

 とある。

 「宝有る国」で、それが「新羅国」だと言っている。

 神功皇后は神託に従って

 新羅「財宝国」へ遠征することとなる。

 同皇后紀は、その他に「財国」「財土」とも

 表記を変えている。

 仲哀天皇紀が「財」の内容を

 「眼炎く金・銀・彩色、多に其の国に在リ」といい、

 『古事記』では

 「西の方に國有り。金(くがね)銀(しろかね)を

  本と爲し、目の炎耀(かがや)く種種(くさぐさ)

  の珍しき寶、多(さわ)に其の國に在り。」

 といっている。

 これらはいうなれば風聞のいうところであるが、

 皇后が新羅国征服を果たし、

 「既に財の国を獲つ」となった後、

 新羅王波沙寐錦(はさむきむ)が八十艘の船に載せて

 官軍に従わし」日本に貢った調(みつぎ)の内容は 
 
 「金、銀、彩色、綾、及び羅、 縑絹」であった

 「綾、羅、 縑」は全て絹織物である。

 これら絹に関係して仲哀天皇紀から引用した

 「処女の眼」はおもしろい示唆に富んでいる。

 その文面は、

 少女の眉のような形の国が日本の津(島々)に

 向いていると言っているのだが、

 「(目+彔)」を「麻用弭枳(まよひき)」と

 訓んじて「眉を書く」の意味にしている。

 「蘇民将来」で紹介したように

 ヘブライ語の眉 VVYL(vayi) でその音に似ている

 「白い」の表記はそれらのヘブライ語に絡んでいる。

 播磨国風土記逸文の「爾保都比売命」にも

 「赿売眉引国」が現れる。

 「赿売」は「処女」と同音であるが、

 その字義は「繭を売る」である。

 「赿」はこれまで何回か紹介した

 サンスクリット語の kôsa(絹)である。

 「眉」を「繭」とし、

 「引」は埼玉県騎西町の玉敷神社の「敷」と同じく

 「ひき、しき」で繭から生糸にする「糸紡ぎ」や

 生糸から帛にする「布く」など

 絹加工の作業と解釈すれば、

 これは「絹を売る繭加工国」の意味となる。

 そこが絹の生産地を示す表現と考えられる。

 実際に絹の産地であることは

 第10章 天毒とセリカの「韓半島の絹業」で

 史料が明らかにしている様子をみた。

  そして、この「財宝国」こそ

 「ミマナ国」なのである。

  ヘブライ語の MTMVN(matman) 

  ギリシャ語   μαμωνάς

   ラテン語   mammana  

  ドイツ語   Mamman

   英語     mamman

 がその原語で「財宝、富、宝、金」をあらわす。

 静岡県三島市多呂の間眠神社の祖名である。

 「ミマナ」は漢字で「任那」と表記されるが、

 古代サンスクリット語の影響を受けている

 韓半島では、

 支音が重なる場合その第一音ン〔N〕になっており、

 「ニムナ」となったのである。

 例えばインドのガンジス河は ganga と

 サンスクリット語では表記されるが、

 ギリシャ語では γαγγης(gaggis)である。

  神功皇后紀には「内宮家屯倉」あるいは

 「内宮家」との表現がある。

 宮家も屯倉も同義と解釈されており、

 王朝の管理する倉庫屋の意味である。

 しかし、ここの「内」については理解が難しい。

 本書が、

 顕国玉神の『古事記』の表記「宇都志」や

 播磨国風土記神前郡の

 宇智賀久牟豊富命の「宇智」を

 UZ(栄光の複数)と

 解釈することからすれば「内」も

 「ガド族」と考えられる。

 秦氏であるガド族が

 韓半島にいたことは事実である。

  「百済」が日本の史料に表れるのは、

 先に引用した

 神功皇后紀の新羅を波沙寐錦の

 朝貢の後の記録の記載に

 「是に、高麗百済、二つの国の王、

  新羅の国籍を収めて日本に降りぬと聞きて、

  密かにその軍勢を伺ばしむ」が初出である。

 『三国史記』に依ると、

 百済国は温祚王を始祖として

 「十済」として始まった。

 その後、その地で

 「百姓が楽しみ従ったことに由来して、

  號を百済と改めた」とある。

 この百済を日本では「クダラ」と呼称する。

 韓半島の史家はそう呼ばない。

 その理由は、

 そう呼んでいた人々が日本に渡来してしまって

 遺称を保つことができなかったからである。

 「クダラ」はヘブライ語の「玉、球」を表わす

 KhDVR(kedur) に依拠する。

 「玉」は繭玉の比喩名である。

 シラ(斯羅)がサンスクリット語の「石」で

 同じく繭玉であることに相応し、

 韓半島の南部がセリカのうちの

 重要な絹の生産地であったことを示すものでる。

 その「百済」はまた

 ヘブライ語の「絹、絹製品」を表わす

 MShY(meshe) の祖語と考えられる。

 紀元前後にして初め西方に伝わった

 「絹」のセリヤ・セリカについては

 第10章 天毒とセリカで述べた。

 ローマ人からユダヤ人の代名詞としてさえ使われた。

 meshe もまたこの東アジアで生まれたものである。

 「百」はヘブライ語で MAH(moh) であり、

 百済は mah-je で meshe に通じる。

 「百」を moh とすることは、

 日本でそれを「もも」と読むことが参考になる。

 「もも」はヘブライ語の「財宝、宝」の MHHR の

 音写で、百済は「モモセ」でもある。

 長野県松本市南部及び塩尻市内田にある百瀬は

 その移転であり、イオニア(Ιωνια)が祖語である。

 現在のヘブライ語では

 日本を YPhN(yaphan) と言う。

 ジャパン(Japan、Yaphan) Ιωνιαから

 生まれた呼称であるかもしれない。

 日本の古代は

 世界の動きから孤立していた訳でなく、

 外の地域の人々との交流・混成に依って

 成立したものである。

 《参考》
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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