2016年5月12日木曜日

《伊都と志都》②

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1192~1210頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《伊都と志都》②

  商船などが航海して来た入江(湾)の名称が

 船越湾で字義の通りだが、

 もう一つの湾名及び地名となっている加布里(羅)は、

 この地域の性格をよく表している。

 イスラエル人が渡来する以前の弥生時代から

 この地には他種の人々が居住していた。

 彼らの遺産が

 志登支古墳群を代表とする支石墓である。

 これらの墓地の支石下には

 甕棺で死者が埋葬されている。

 この葬送の様式を韓半島などにあることから

 中国及び韓半島の影響と

 決めつけている向きがあるが、

 甕棺葬送はアーリア人が侵入する以前の

 インドにおける風俗で、

 そこには支石が同様に立てられていた。

 奴国の地である福岡市に

 この遺品が多いことから考えると、

 この地の先住の人々は

 奴国と同じインドからの渡来人たちで、

 彼らの築いたものともみられる。

 支石を立てる風俗はヘブライ人と全く同じであり、

 彼らの容認できるものであった筈である。

 そのため、この地を「イト」とは別に

 「加布里」とか「支登」と

 ヘブライ語で呼んだのである。

 「カブリ」は KBRH(keburah 埋葬)、

 「シト」は「幸手の秘密」で述べた

 STR(setr 隠れ場所、避け所)の音写で、

 いずれも墓地を表わしていると考える。

 STRは幸手市名の祖語であるが、

 同市内に「志手」との地名もあり、

 志登との同一性が覗われる。

  前原市井田、三雲辺りには

 弥生時代の遺跡が集中しており、

 伊都国の主要地と考えられてきた。

 しかし、

 ここはヘブライ人たちの信仰上の聖地である。

 ヨシュアがガド族などの部族に授けた

 「十戒の二枚の石板(イスラエルの聖櫃)」が

 ここに渡来し、奉祭されていたのである。

 井田はもちろん ID(ied) である。

 その字名に郡里がある。

 「コオリ」は 

 GVLH(golah離散したイスラエル人の居留地)名である。

 三雲の「ミクモ」は MKhBVA(mkhboa) の音写で

 「隠し場所、隠れ場」で、

 この用語はこれまで何回も登場し、

 そこには「律法の巻物」で

 「十戒の石板」が安置されていた。

 ここ三雲にも同じ痕跡がある。

 「筑前同続風土記」が記すところに依ると、

 その東部に「築山という小山」があり、

 また「東北郊に茶臼塚」があるという。

 茶臼塚は、「南北十四間、東西七八間」の

 大きさだという。

 同風土記がこれ等の塚を

 俗に高麗人の塚だと言い伝えていると記しているが、

 「郡」「高麗」とは

 「離散したイスラエル人の居留地」ことであり、

 韓半島北部に国を建てた高句麗ないし後の高麗国とは

 全く関係がない。

 続風土記に述べられている二つの塚は

 幸手市の田宮と八海神社の石塚、

 佐渡島の小布勢神社と田切須の石塚のように

 双つ一組の石塚造成方法は一致している。

 「双塚」を証明しているのが隣りの地名

 曽根で ShNY(sheney 二つの、二つ一組の) の

 音写である。

 三雲の南隣り井原の下町名は七尾市にも

 同名の町名があるが、ここでは

 ShTY-MTsVH(shety-matsuvah)の転訛で

 「二つの記念碑」を表わしているようである。

 松井や末永は MTsVH に従うものだろう。

 そして大門名は IRMH(ianmah)の転訛で
 
 「山、塚、積み重ね」の字義で

 佐渡島の大目神社名に相当する。

 前原市の西隣り二丈町は

 「二上山(現二丈岳)」から

 転じた町名という。

 これは「二つの小丘」を表わす。

 「上」の「カミ」は GBVV(gauu 積み重ね)か

 GBI(gebai 小山、丘)の音写とみられる。

 「築山」と「茶臼塚」の二つの塚は

 イスラエル人たちが築いた「石の祭壇」で、

 伊都の祖語 YD(yed 記念碑)を示す

 最も有力な痕跡である。

 そして、そこには「文字が書かれた石」が

 納められていたのである。

 三雲地区内に鎮座する細石神社名が

 それを示している。

 同社は一般に「さざれ神社」と言うが、

 それは、後のこと、本来は「ホソ石」から

 始まったと考える。

 「ホソ」はヘブライ語の

 「(木、石)に彫刻される」の

 PhSL(phosal)を基にした用語である。

 「さざれ」は後追いの呼称で、

 同社のご神体は「小さな石」と

 伝承されているので

 「繭」を表わしているとも言える。

 三雲の東隣りは高祖地区となるが、

 この「タカソ」は

 「託社(たくこそ)」の転訛とされる。

 同名は「タク神社」の転訛である。

 市内の多久地区に託社神社が鎮座し、

 一般に高祖宮と呼ばれている。

 「タク」は西隣りの二丈町武にも係わる用語で、

 祖語はヘブライ語の TVK(teyk)である。

 字義は現在「書類入れ、ファイル」などとして

 用いられているが、

 ラテン語の 

 thēca(箱、容器)、tecatus(箱に入った)とも

 概念を同じくし、

 ここでも「(書き物を入れた)箱」と解釈でき、

 いわゆる「聖櫃」と理解される。

 三雲の二つの塚が護っていたのは聖櫃なのである。

 周辺の地名板持、蔵持も関連の名称である。

 ここは渡来したイスラエル人たちが

 「イスラエルの聖櫃」を護るために築いた記念碑

 「石の祭壇」の聖地であった。

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