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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
セブンネット
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:1192~1210頁
第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰
《伊都と志都》③
『日本書紀』が
「伊蘇(いそ)国」と「五十迹(いそて)手」を
登場させたことについて述べる。
「イソ」及び「イソテ」は十戒の「十」を表わす
ISR(isher 女性形)と IShRVT(isarut 男性形複数)に
依るが、
また「イソ」市内に富の地名があることからすると、
「富、財産、豊富」の IShR(isher) の字義も
加わっているとみられる。
なお湾名でもある加布里(加布羅)を
「二つの、対の」の意味の KPhVL(kaphul)、
志登も同義の ShTY(shetey) とし、
三雲の双塚に絡めることもできるが、
「延喜式」神名帳筑前国恰土郡に載る志登神社が
鎮座していることからもそれを除けた。
同社の主祭神は豊玉姫神で、
「玉」は「繭」を表し、
「トヨ玉」は「
天の玉<常世の繭>」を意味するもので、
同社はヘブライ人がやって来る以前から
支石墓を造ったインド商人たちの奉祭した祠と
考えられるからである。
地名だけがヘブライ語で遺ったのである。
この場合の「シト」は「絹」を表わす
ZYDD と解釈されていたのかもしれない。
「秦氏と絹産業」で
「寺田」となっていると紹介した用語である。
同名社が現在前原市志登に鎮座している。
そこには支登支石墓群がある。
その隣りの地区名、潤(うるう)と浦志(うらし)は
ヘブライ語の
「(地面、岩に掘った)大きな穴、洞穴」を表わす
BVR(vuor)、BVRVT(vuorot) の音写名で、
ここでは墓苑であることを優先させるべきである。
さて、「和名類聚抄」に「恰土」と同じ表記を
持った地名が筑紫国にもう一か所ある。
それは宗像郡の恰土郷である。
現在その遺称とみられる地名は
同郡内にみられないが、
前原市の恰土(伊都)と同様
にイスラエル人の成した土地で、 YD(yad 記念碑)
あるいは ID(ied 保証人、立会人)を
祖語とした地名と考える。
比定地は津屋崎町の宮地嶽神社の鎮座する
宮司周辺に求めることができる。
その追跡に役立ったのが万葉集の
「オホナムチスクナヒコ」を
歌い込んだ三首であった。
第一の歌はこの節の始めに紹介した。
番号:06/0963(万6-963)
題詞:
冬十一月 大伴坂上郎女發帥家上道超筑前國宗形郡
名兒山之時作歌一首
冬十一月、大伴坂上郎女、
帥(そち)の家より上道(みちだち)して、
筑前国宗形郡名児山を超ゆる時に
作る歌一首
原文:
大汝 小彦名能 神社者 名著始鷄目 名耳乎 名
兒山跡負而 吾戀之 干重之一重裳 奈具<佐>米七國
訓読:
大汝 少彦名の 神こそば 名付けそめけめ
名のみを 名児山と負ひて 我が恋の 千重の一重も
慰めなくに
仮名:
おほなむち すくなひこなの かみこそば
なづけそめけめ なのみを なごやまとおひて
あがこひの ちへのひとへも なぐさめなくに
番号:07/1247(万7-1247)
題詞:(覊旅作)
原文:
大穴道 少御神 作 妹勢能山 見吉
訓読:
大汝少御神の作らしし妹背の山を見らくしよしも
仮名:
おほなむち すくなみかみの つくらしし
いもせのやまを みらくしよしも
第一の歌作者、生石村主真人は天平の頃の人で
美濃国の任地を持った人である。
歌の主旨は
「大汝少彦名神のおられたという志都の石室は
幾代経たのであろうか」である。
作者が実際にその「志都の石室」を
眼前にしていたのかどうか
注意書きがないので解らない。
しかし、ここに確認できる要点は志都の石室
(多くの訳本が岩屋としている)に
大汝少彦名神が祭祀されていたということである。
そして、第二の大伴坂上郎女の歌が筑前国宗像郡で
歌われ、そこに大汝少彦名神の「神社」が
あると言っていることに注目しなければならない。
名児山は『続風土記』に現在の玄海町田島の西方で
津屋崎町の勝浦から田島へ越えて行く嶺といい、
現在も対馬見山と連なる山名である。
古代には遠賀郡方面から大宰府へ抜ける
主要な街道に当たっていた。
「大汝少彦名神の神社」は第一の歌からすると
「志都の石室」を意味する。
宗像郡の名児山の周辺に
その神社(石室)があったことになる。
大汝少彦名神は既に解明したように
イスラエルの神である。
自ずと恰土郡と結び付けられる。
そこで捜し得たものが福間町手光の
「手光波切不動古墳」と大汝少彦名神を祖型として
生まれたものである。
さらに、福間町手光の
呼ばれている巨石遺構である。
これはまた「大志登古墳」とかっては呼ばれていた。
「大志登」は「志都」に通じる。
現在その石室には波切不動尊が祀られているので
名称を換えたのであろうが、同じように不動尊を
同じく古墳と云われている石室に祀っているのが
宮地嶽神社の奥之院で、
双方とも現在は神社ではなく寺院である。
「波切」とは「志摩のダンダラボーシ」で
説明した三重県志摩郡大王町の波切、波切神社名で、
モーセに率いられたイスラエルの民が
海を渡る術を失っている時、神が海を開いて、
つまり、海を切り開いて人々をシナイ半島方面へ
渡らせたとの『出エジプト記』の故事に因んだ
ヤハウェ神を称した名称である。
また、
「不動」とは「鷲宮神社と板倉の雷電神社」で述べた
「上内(動かざる雲)」に係わるが、後述の
「少彦名神と山田、大和、倭、日本」でも述べる
少彦名神を指す別称でもあり、仏教的名称となった
「不動尊」は
大汝少彦名神を祖型として生まれたものである。
さらに、
福間町手光の大志登古墳の「志登」は
前原市の「志登」で「大」が付されている名称は、
前原市の志登から
ここ「大志登」へ何かが移って来た、
あるいは移されて来たとの開示である。
「志都の石室」とは、大志登古墳と云われている
石室と宮地岳神社の奥之院の石室双方を
指していると考える。
石室が一つでなく二つ一組の構えであることは
幸手市、佐渡島そして前原市三雲の構成と
共一である。
この二つの巨石で造られた石室は本来古墳ではない。
双方とも国内有数の巨石遺構で恰土郷にいた
イスラエル人たちの「石の祭壇」にして
「十戒の石板」を納めた聖櫃を安置するための
「隠れ場」であったのである。
宮地嶽奥之院の石室には三十数個の巨石が
積み上げられており、石室の奥行が二二㍍もあり、
古墳の納棺室とは思えない。
町名津屋崎の「津」は TsVR (大きな岩)の音写で
「津屋」は「岩屋」にして「岩室」である。
宮地岳神社の祭神は
勝村大明神(藤高麿)、勝頼大明神(藤助麿)といい、
神功皇后の韓半島への遠征の
功があったと伝えられている。
その「勝」とはヘブライ語の KhDR(kheder)のことで
「部屋、室」の字義で
「石室」に従った名称と考える。
「勝」を名称とする現在の勝浦は、
かって「桂」とも表記され、
そこに桂岳神社が鎮座している。
「カツラ」は明らかに KhDR にして、
「岳」とあるからには宮地岳を指している。
宮地及びその鎮座地名宮司は「クウジ」にして
ヘブライ語の KhZH(khezeh 契約、契約書)の音写で
「十戒」を示す。
宮地岳の北の山名でもある在自は和名類聚抄に
荒自郷と宗像郡の郷名として、
あるいは万葉集(巻七)に有干潟として載っている。
「アルジ」は
ARGE(aorgez 箱) の音写で聖櫃を表わす。
その北の須多田は佐渡の祖語として紹介した
SVD(sodo 秘密)の同類語
SVDVT(sodot 秘密、内緒) の音写である。
奴山の酒多神社、勝浦の酒田神社は SVD に従う。
奴山は怒山とも表記され、
ここに縫殿神社が鎮座している。
「タイド―」はヘブライ語の
NVTRYNV(novtarian)の転訛で、
現代的には「公証人」だが、ID(証人、立会人)に通じ
恰土の祖語と字義を同じくする。
同地区内の大都加神社(大塚大明神)や大石も
宮地岳神社の奥之院、手光波切不動尊窟への
信仰が係わっている。
このように
二つの石室は万葉集の生石村主真人の歌にある
「大汝少彦名のいましけむ志都の岩室」である。
大伴坂上郎女の前載歌(06/962)
番号:06/962
題詞:
天平二年庚午勅遣<擢>駿馬使大伴道足宿祢時歌一首
原文:
奥山之 磐尓蘿生 恐毛 問賜鴨 念不堪國
訓読:
奥山の岩に苔生し畏くも問ひたまふかも
思ひあへなくに
仮名:
おくやまの いはにこけむし かしこくも
とひたまふかも おもひあへなくに
左注:
右 勅使大伴道足宿祢饗于帥家
此日會集衆諸相誘驛使葛井連廣成言須作歌詞
登時廣成應聲即吟此歌
も志都の石室を想って歌ったものであろう。
万葉集第三の歌は奈良県吉野町河原屋は
大名持神社が鎮座し、
そこに妹山と吉野川を挟んだ向かいの
飯貝に背山があり、
ここでの歌と考えられるもするが、
巻七の歌の前掲二首は
「志賀の海人」に題材を取ったもので、
福岡市東区の志賀島辺り漁人の歌であるから
玄界灘を歌の舞台とした状況から
津矢崎の感慨かもしれない。
妹背ないし妹勢は一般に「イモセ」と訓まれ、
夫と妻、兄と妹など「二人一組」を
表現した用語であるから、ここでも、
「妹勢能山」を
「二つ一組の山」と解釈した方が無難である。
砺波に吉野町の河原屋には
津風呂(地名)川が流れているが、
これは TsVR の音写で「岩川」であり、
「ツマ・妻」にも通じる。
大志登石室、宮地岳奥之院に安置されていた
「イスラエルの聖櫃」はここでも安全でなかった。
また、移動を余儀なくされたのである。
そのためイスラエルの人々は去ってしまい。
平安時代まで恰土郷名は保たれていたものの
住む人々が入れ替わり消滅してしまたのであろう。
イスラエルの聖櫃が遷されて行ったのは
3世紀のことと考える。
その後どのようにして石川県羽咋市寺家の
大穴持神像石神社にいたったのであろうか。
島根県大田市静間町の日本海岸の静ヶ窟があり、
静間神社が鎮座している。
祭神が少彦名神である。
ここに一時奉祭され、
また遷って行ったのかもしれない。
大汝少彦名神となったヤハゥエ神信仰が
筑紫国にみられることで前原市の恰土(伊都)が
イスラエルの人々の
神宝(イスラエルの聖櫃など)が渡来し、
後に津屋崎町の恰土郷、大志登石室などへ
遷されたとの解釈が成り立つ。
そこに造成された石の祭壇(記念碑)の石室を
万葉集は「志都の石室」と歌ったのである。
イスラエルの聖櫃の日本への渡来の時代は、
秦氏の帰化するずっと前であろう。
魏書が書かれたのが紀元300年頃であるから、
それ以前に伊都は成立していたことは明らかで、
遅くとも3世紀前半までであろう。
伊都はイスラエル人の
日本列島進出のための基地であったと考える。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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