2016年5月28日土曜日

《因幡と「陶器師」土師氏》

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1229~1236頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《因幡と「陶器師」土師氏》

  「安来:十戒神社と祈り」で「因幡の白兎」

 の兎(うさぎ)は、秦氏の絹製品を取扱う者の

 取締り(監督 HSGKH/hazhgokle)のことであるとの

 見解を述べた、また

 「久伊豆神社とお獅子様」で「ハジ」は

 ヘブライ語の「野うさぎ」を表わす 

  HAZ(hoz)の音写であることも述べた。

 その「ハジ」に対し、

 「土師」の漢字が当てられているが、

 その理由を考察する。

  ガド族名のGadの祖は「栄光、幸運」を表わす

 GDVLHに近似した用語は KDR(kadōr) があり、

 これが「陶器師」を意味している。

 「土師」とはこの KDR(陶器師) のことである。

  イザヤ書第41章25に次のようにある。

  わたしはひとりを起こして北からこさせ、

  わが名を呼ぶ者を東からこさせる。

  彼はもろもろのつかさを踏みつけて

  しっくいのようにし、
  
  陶器師が粘土を踏むようにする。

 この「陶器師」はヤハウェ神の代名詞となる。

 イザヤ書第64章8ではそれを述べる。

  されど主よ、あなたはわれわれの父です。

  われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。

  ヘブライ語で粘土を TsYTs(tit) というが、

 「へな土」の意味で、砂や水を混ぜた土である。

 創造期第2章7は

 「主なる神は土のちりで人を造り、

  命の息をその鼻に吹きいれた。

  そこで人は生きた者となった。」と述べ、
 
 人を土から造ったと述べている。

 TsYTsは日本語に

 「つち・土」として移入されているのであって、

 「土師」とは「粘土師」にして「陶器師」である。

 また、この用語は「チチ」としても取り入れられ、

 『旧約聖書』における人間の始まりの

 アダムに対応した父の表現とみることができる。

 浅草の今戸では
  
 江戸時代においても盛んに瓦を焼く煙が立っていた。

 土師氏の伝統が面々と続いているのである。

 埼玉県の西端にある秩父郡、市の

 「チチ-父」は、

 その音写と意訳を並列させた地名である。

 その元となっているのが秩父神社で、

 祭神八意思兼神や下春命が持ってきた名称である。

  「ハジ」に「土師」の表記がされているのは

 このような背景理由があり、

 「土師氏」はガド族である秦氏の別称である。

 埼玉県岩槻市の久伊豆神社の創建伝承や

 東京都台東区の浅草神社などに伝わる土師氏は

 既にみたように明らかに秦氏に係わっている。

  この土師氏は、

 大和朝廷の時代に陵墓や土器製作に働いた

 「ハニ(土部)氏」とは

 区別されなければならないだろう。

  鳥取県岩吉には伊和神社が鎮座している。
 
 「延喜式」神名帳の因幡国高草郡に

 同名で記載されている。

 伊和神は祠の背後の石室に依る名称とされているが、

 ヤハウェ神であった可能性がある。

 ヘブライ語の TsVR(tsvar)という

 「大きな岩、岩盤」の意味と同時に

 「岩なる神」を表わす用語があるからである。

 「石坐」あるいは「磐坐」は神の象徴である。

  TsVR-YSRAL は「イスラエルの神」を言い、

 ヤハウェ神を表す。

 エルサレムもモリヤ山の磐坐は

 アブラハムがその子イサクを

 犠牲に献げようとした聖所である。

 伊和神社の石室はそのような磐坐である。

 その南、徳尾には、同じく神名帳の高草郡に

 記載されている野見宿禰神社が鎮座する。

 祭神大野見宿禰命は、

 同社では土師氏の祖神として奉祭したと伝えている。

 つまり、土師氏がこの因幡国にいたことになる。

 この名称をヘブライ語で解明すると、

 「大」は GDVL(gadol) ガド族の由、

 「野見」は「ノミ」で NAMN(namin)「財産管理人」、

 「宿禰」は「スクネ」で 

   SGN(segan) 「代理(者)、副官、次官」で

 「代官」を表し

 「ガド族の財産管理人の代官」となり、

 「安来:十戒神社と祈り」で述べた

 「ウサギ」HSGKH(hazhgokh)

 「監督、取締」に相当することになる。

 稲葉郷は

 同社の東方、千代川を超えた約5㎞の地点にある。

 そこからさらに南方、鳥取市の香取には

 「延喜式」神名帳の法美郡に載る意上奴神社が鎮座する。

 神名帳はその訓を「イフミ」としており、

 YKB(ヤコブ)の転訛とみられる。

 同じく法美郡に載る服部神社は

 鳥取市服部に鎮座するが、秦氏に係わる神社である。

  和名類聚抄の因幡国には

 土師郷が二ケ所記載されている。

 八上郡土師郷と智頭郡土師郷で、

 双方とも上記の諸社の南方に位置する。

 前者は現在の八頭郡郡家町に

 土師百井の地名があるように

 私都川、八東川の沿岸地帯とみられている。

 その西側は河原町で

 八上比売や須勢理比売伝承のある

 八上売沼神社が鎮座しており、

 土師氏(秦氏)の養蚕業の中心地であったとみられる。

 「郡家」と「河原」は祖語を同じくし、

 ヘブライ語の「波」を意味する 

  KhVVALYE(khvalye) の音写である。

 同地は川が合流する地点で

 水理が大事であった様子が覗われる。
 
 因みに鳥取市の千代川の河口辺にある賀露町名も

 これと同義のヘブライ語 GL(gal)の音写である。

 後者の土師氏は現在の八頭郡智頭町に当たり、

 兵庫県へはより近くで、

 播磨国一の宮伊和神社の鎮座する宍粟郡一宮とは

 そう遠くない。

 その地理的環境からも秦氏と土師は

 親しい関係にあり、

 因幡(稲羽)は「伊奈波」にして「稲禾」で

 秦氏の一族であると考えられるのである。

 「郡家」は現在「コウゲ」と呼ばれている。

 この呼称はヘブライ語の KVGL(kogl:玉)の音写で、

 鳥取市南部に古郡家の地名がある。

 その南は越路で、そこから大路川が流れ出し、

 古郡家の北に大路地区が広がり、

 大路山東西に大路神社が鎮座している。

 「大路」は兵庫県明石市の太寺あるいは大道と同様

 ガド族の「あかし、誓い」を表す 

 IDVT(ied)の音写であり、ここに秦氏(ガド族)の

 波及があったことを示し、服部神社(服部)と共に

 生糸の生産、加工が行われていた証しである。

 因幡国の国庁が置かれる以前の稲羽郷には
 
 秦氏の生糸など絹製品を取扱う者の

 取締(監督、代官)が置かれていたのであり、

 「ハジ」氏ここに始まったと考えられる。

  稲羽の白兎の物語に表されるように、

 その須勢理比売が大国主命の后となったように、

 土師氏(秦氏)と出雲族(登美族)は

 提携関係を強めたのである。

 その証拠が、安来市の聖地で、

 土師氏は出雲族とみなされるようになったのである。

 野見宿禰の伝承を

 『日本書紀』は垂仁天皇の時代に載せているので、

 あるいは海洋交易商人として

 秦氏は1、2世紀のうちに出雲や因幡に渡来し

 拠点を築き始めたとも推測される。

 垂仁天皇の治世は

 4世紀の中頃と想定されるからである。

 弓月君が百済から渡来したのは応神天皇の御代で、

 その後のことである。

 「垂仁天皇紀」32年は、

 野見宿禰が日葉酢媛命の薨去に伴い、

 出雲国から土部百人を召し出して埴輪を作り、

 その墓に立て

 殉死が禁止されることとなったとの伝承を述べ、

 ここに「土部職」に任ぜられ、

 本姓を改めて土部臣となり、

 これが土部連らが天皇の喪葬を主にする縁であり、

 野見宿禰が土部連らの始祖であると述べている。

 「ハジ」氏が

 「土師」氏と表記されるようになった由縁である。

  因みに『創世記』第4章に現れる

 アダム ADM(Adam)は 「人間、人類」の意味で、

 彼は「土、土地、大地、地球」を表わす

 ADMH(adamah) から造られたというのが説話である。

 ヘブライ語の「陶器師、陶工」である

 KDR(kadar) 及び YYTsR(yotsr) は

 因幡国に地名として移入されていて、

 土師の背景を明らかにしている。

 和名類聚抄の邑美郡の古市郷はその転訛である。

 現在の鳥取市の古市がその遺称地で、

 その南の吉成に古市神社が鎮座する。

 因幡志が

 「姓氏録所謂古市の村主という

  百済より出たる苗字なり」と述べているが、

 その伝承は弓月君の出自伝承に結びつく、

 YYTsR(yotsir) は「ヨシ:吉」と音写され、

 それを地名に取り入れた地域が周囲に広がっている。

 吉成、吉方、徳吉、岩吉がそれで、

 「吉」は「陶工」にして

 古市と同様土師氏の存在を証している。

 吉方は室町時代からの史料にあり、

 和名類聚抄の古市郷の一部であっただろう。

 叶地区に鎮座する甕宮神社は

 ここに陶工がいたことを示唆している。

 伊和神社の鎮座する「岩吉」は明治14年に

 岩座村と吉山村が合併して成立した地名だが、

 不思議なことに「延喜式」神名帳の

 八上郡に記載されている都波只知上神社の二座の

 「ツハキチ」となっている。

 同社は現在の八頭郡河原町佐貫に

 同名で鎮座している。

 「都波」は上記伊和神社紹介した際に述べた

 「岩なる神」を表わすヘブライ語の 

 TsVR の音写である。

 同社は伊和神社の下社に対する「上神社」である。

 その鎮座地佐貫は和名類聚抄に

 「讃岐」とも表記されたが、

 これはサンスクリット語の śalika(岩、石)の転訛で

 TsVR に相応する。

 同地区鎮座する白須神社名は

 サンスクリット語の sur-śali で「白い石」にして

 「須勢理」である。

 神社名「須」はヘブライ語で同じく「岩」を表わす

 SLI(selai)のLIを無音化するヘブライ語的発声に

 従ったものであろう。

 これらが「繭」を表わしていることは何度か述べた。

 「延喜式」神名帳に都波只知上神社と並んで

 載っている都波奈弥神社二座は「石(岩)の糸」で

 「繭糸」を表わしている。

 現在八頭郡河原町和奈見に同名で鎮座している。

 「都波」はTsVR、「奈弥」は、

 これもヘブライ語の NYMH(nemi)で「糸」を表わす。

 このような状況から八上売沼神社の鎮座を合わせ、
 
 河原町のこの地域が

 秦氏の養蚕業の地であることを示す。

 同地に徳吉の地名もあり、

 鳥取市の岩吉の東南を指す地名と同じくし、

 双方の深い関係を明らかにしている。

 因みに倉吉市上神及び東伯郡北条町下神の

 「神」は「ツワ」と呼ばれているが、

 TsVRがその祖語である。

 その町名の「北」は、

 町内に「土下」地区があるように

 ヘブライ語の KDR(kodor) に依拠している。

 また倉吉の「倉:クラ」は

 「離散したユダヤ人の居留地」の意味である

 GVLH(golah) を音写した「呉(くれ)」と同じであり、

 「吉」は YVTsR であるから、

 「クラヨシ」は「ユダヤ人の陶工」の意味となる。

 終章で触れる波波伎神社はここに鎮座する。

 郡家町で奈良時代の須恵器を焼いた窯跡が

 20か所程度発掘され、

 ここが土器の大生産地であったことが

 証明されている。

 その地域は和名類聚抄の

 八上郡土師郷の北に当たる地域で、

 この地域に現在は宮谷の加茂神社に合祀されている

 白兎大明神が祀られていたことなどから、

 土師氏(秦氏)の技術が奈良時代にまで

 引継がれていたものとみられる。

 それらの陶工を纏めて取締っていたのも

 稲村郷の国府であっただろうし、

 国府が置かれる以前は秦氏の「ウサギ(代官)」が

 掌握していたとみられる。

 『日本書紀』の雄略天皇17年3月に

 「土師連の支配する丹波但馬因幡等の私民部を

  朝廷に貢納し贄土師部とした」とあり、

 秦氏(土師氏)独自の支配は雄略天皇の時代で

 区切られたと推測される。

 奈良時代の8世紀には因幡国の豪族として

 伊福吉部氏ないし伊福部氏が知られている。

 これらの氏族名はヘブライ語の

 「窯で焼く」意味を持つ AFYH(afih焼くこと)、

 AFH(afe焼く)、YAFH(yafe焼く)に依拠しており、

 土師氏の別称と考えられる。

 《参考》
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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