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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:1192~1210頁
第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰
《伊都と志都》
「伊都」は中国の史書『三国志魏書』和人章に
表れる。
〔末廬国から〕陸上を東南に五百里すすむと、
伊都国に到着する。
官は爾支といい、次を泄謨触と柄渠触という。
人家は千餘戸ある。
代々国王がいて、皆女王国に統属している。
〔帯方〕郡からの使者が往来する時に
常に駐まる所である。
「志都」は『万葉集』の歌に表れる。
生石村村主真人:おひしむらすぐりまひと
の歌一首(巻第三・三五五)
大汝少彦名之 おほなむち すくひこなの
将座 いましけむ
志都乃石室者 しつのいわやは
幾代将経 いくよへにけむ
この二つの用語は全く関係がなさそうにみえるが、
実際は極めて緊密な繋がりを以ており、
イスラエル人と一緒に
「十戒の石板(イスラエル聖櫃)」が
渡来してた史実を物語っているのである。
その舞台は九州筑紫川、今の福岡県である。
本書の第13章 「和人章の国々」
において「伊都国」が
福岡県前原市に固定されていると紹介した。
伊都は『古事記』の神功皇后が
新羅への征戦のため西国に下った時に
「伊斗村」として現れる。
其の政を未だ竟(お)えざりし間に、
其の懷妊産むに臨み、即ち御腹を鎭めんと爲して
石を取り以ちて御裳の腰に纏(ま)きて、
筑紫の國に渡り、其の御子は阿禮坐しき。
故、其の御子の生れし地を號けて宇美と謂うなり。
また其の御裳に纏きし石は
筑紫の國の伊斗(いと)の村に在り。
これは品陀和気命(応神天皇)誕生の秘話である。
石をお腹に纏きつけてするなど信じ難いが、
筑紫國、
特に伊斗村に「石」が係わっている様子が覗われる。
また『日本書紀』は同じ仲哀天皇と神功皇后が
共に筑紫へ下った場面で、
「筑紫の伊覩県主の祖五十迹手」が天皇を迎え、
戦勝を祈願したので、五十迹手を褒めて
「伊蘇志」と言った。
そこで時人が彼の本土を名付けて
「伊蘇国」と言ったとあり、
「伊覩(いと)」というのは「伊蘇(いそ)」が
訛ったものだと述べている。
つまり伊覩を伊蘇とも言ったとの挿話である。
時代は降って平安時代の「和名類聚抄」は
筑紫国に恰土郡を載せ、訓を「イト」としており、
「吾妻鏡」等の史書は一貫して同表記をし、
現在隣りの志摩郡と合併し糸島郡となっている。
恰土は前原市高祖に恰土城址がある通り同市の
中心部が倭人章の頃の主要地とみられている。
倭人章に登場する国名の末廬国は
現在の長崎県・佐賀県にある松浦郡の地名であり、
その祖語がサンスクリット語の「甘い、甘味、蜜」
の字義であること、
「奴国」の「ナ」も同じくサンスクリット語の
「船」を表わす nau、nāvā の音写による
地名であることを既に紹介した。
それでは「イト」は何を示しているのかである。
伊都は漢音で yī-dôu/dū となる。
伊都は漢音で yī-dôu/dū〔ier-to〕 となる。
これはヘブライ語の YD(yad 記念碑)の音写と考える。
「イト」はまた ID(ied 証人、立会人)にも通じる。
つまり伊都はイスラエル人証人たちの停泊地あるいは
居留地だったと考えるのである。
既に述べたようにイスラエル人はインドにおいて
海洋貿易商人の組合に加わり、
彼等と争うのではなく共同して絹の産地セリカ
である極東へやって来たと推測される。
その主要な停泊地の一つがここである。
奴国(福岡市博多区)は
インド商人の停泊地・居留地である。
彼らは住み分けをし大きな混乱を避けたのであろう。
志摩町に可也山がある。
「カヤ」はヘブライ語の KVYL(koyal) で
「玉」の字義ながら「繭」を表わしている。
市名の前原は「蘇民将来とえびす」で紹介した
「馬屋原」と同様で
「白い」の VVYYS(vays)に係わる。
ここが絹貿易の基地であったことを示している。
倭人章が「官は爾支という」と言い、
「代々国主がいる」と言う。
つまり爾支とは国王である。
爾支は漢音で njiai-zhi でその祖語は
ヘブライ語の NGYD(nagiyd 君主、統治者)である。
この用語が「シキ」と転訛し
可也山の近くの地名師吉として遺っている。
近くに ID(ied) の音写名である井田原もあるから、
こきに伊都国の王は城(砦)を構えていたのだろう。
因みに倭人章の次官、
泄謨觚(せつぼくこ)は SVKN(sevkok)で、「代理人」で
柄渠觚(へいきょこ)は KhVK(hakuk 法律の)、
KhK(kok 法律) に係わる職名であろう。
志摩町の引津湾名は
その女性形名 HKYT(hokiyt 法律の)である。
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