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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:1168~1191頁
第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰
《北陸と佐渡の秘密》
前節において、
『ヨシュア記』第22章に語られている
「ルベンの子孫、ガドの子孫及び
マナセの部族の半ば」の人々に
ヨシュアより与えられただろう
「律法の巻物」が幸手市神明内石塚に
埋納されているとの見解を述べた。
その文中でヨシュアより与えられただろう
「戒め(十戒)の石板」はそこに無いと述べたが、
この石板も日本へもたらされた、
秘密裡に埋蔵されているのである。
その場所が新潟県の佐渡島である。
佐渡は「サド」というが、これはヘブライ語で
SYD(sod) の音写名で
「秘密、内緒」の用語である。
何故ここに
秘密の場所が置かれるようになったかは
「北陸」の背景と
少彦名信仰をみなければならない。
北陸地方は、「延喜式」に
「北陸道、若狭爲近国、越前、加賀、能登、
越中、右爲中国、越後、佐渡、右爲遠国」
とあり、
「北陸道」は現在の福井県、石川県、富山県、
新潟県を指す。
この「北陸」は延喜式、和名類聚抄共に訓を
欠いており、何と言われたのか不明である。
史書においては、
『日本書紀』の崇神天皇10年9月の条に
「大彦命を以て北陸に遣す」、
景行天皇25年の秋7月の条にも
「武内宿禰を遣したまひて、
北陸及び東方の諸国の地形且
百姓の消息を察しめたまふ」とあるが、
双方とも後世の知識に依る記述と考えられている。
これに対し『続日本紀』巻第3、文武天皇の時
大宝3年(703年)春正月の条に
「従七位上高向朝臣大足于北陸道」に遣すとあり、
7世紀末までに東海道、東山道、山陰道、山陽道、
南海道、西海道と共に
その地域的概念が固められたとみられる。
「北陸」の音訓を一般に
「ホクロク」としているが、
『日本書紀』の傍証に「クヌカノミチ」。
平安時代の諸である「西宮記」に「クルカノミチ」
あるいは「キタノミチ」、
「北山抄には「久流加之道」と訓まれている。
文武天皇の時に北陸道と決めたものの、
平安時代の識者たちはその地域の伝承などから
固有の呼び方をしていたのである。
このことからも北陸道が「北の陸の道」を
旨とした呼称でないことが察せられる。
上記七道名はそれぞれその縁れが明白であるが、
「北陸」だけが曖昧である。
「西宮記」は「キタノミチ」と「キタ」という。
これは「北」に通じるが、
実際は別の由来があると考える。
「絹と地名分布」で紹介したように「キタ」
は養蚕業に係わる名称でサンスクリット語の
「昆虫」を意味する kita が祖語で因幡國の
気多郡(現鳥取県日高郡)を興りとして、
但馬国気多郡(現兵庫県城崎郡日高町)、
福井市北之庄、
石川県羽咋市寺家町の気多神社、
同小松市額見町の気多御子神社、
同七尾市藤橋町の気多本宮神社、
富山県高岡市伏木の気多神社、
同新湊市三日曽根の気多社、
新潟県上越市五智の居多神社(古くは気多神社)、
と山陰から北陸の各地に亘ってある。
「気多」が「日高」に改称されていることから、
「気多」が「昆虫」である「蚕、カイコ」を
意味していることは明白である。
「ヒタカ」は同じくサンスクリット語の
kitaka の音写で kita と同義であるからである。
『日本書紀』の崇神天皇が大彦命を遣わした件で、
『古事記』は北陸を「高志道」と表記している。
「高志」は「越」にしてサンスクリット語の
「絹」を表わす kausey あるいは「繭」を表す
kośa に依ることは述べてきたところであり、
「越道」は「絹の道」であり、
「キタノミチ」である。
気田神社の祭神は大己貴命である。
北陸地方では
同神と共に少彦名神を祀る神社が多い。
神社本庁の「全国神社名鑑」をみると、
「スクナヒコ神」を神社名とする祠は
福井県十二社、石川県二九社、富山県十二社、
新潟県三社と五七社に及ぶ、
それは
少彦名神に対する信仰の厚さを示すものである。
特に多いのは石川県であるが、
この加賀、能登の地域は
イスラエル人の活発に活動した地域である。
金沢市諸江町にも少彦名神社が鎮座する。
「モロエ」はヘブライ語の MLKh(molah)の
音写で「船乗り、船員」を意味する。
『記・紀』において
少彦名神が海から寄りて来る姿は 、
同神が船乗りであることを示している。
その同類語に NVT(nut) があり、
これが「能登」の祖語で
「船の舵手、槓取り」を意味する。
またの同類語に「
水をかくこと、(櫂で)船を漕ぐこと」を意味する
ヘブライ語、KhTYRH(khatiyrah)があり、
これが「キタロク」で
「北陸」の祖語とみられるのである。
「北陸」は「船乗り」である少彦名神を以って
生まれた地方名と考える。
鹿島郡鹿西町金丸に能登比古神社が鎮座するが、
「ノトヒコ」も少彦名神を言ったものである。
鎮座地名「金丸」の「カネマル」は
KhNYH-MLKh(kaneyh-molah)で
「船乗りの宿営地」であり、
少彦名神の一時的奉祀地であったことを
物語っている。
宿営地(野営地)とは奇妙な解釈であるが
理由がある。
その理由は、同地に鎮座し「延喜式」神名帳にも
載る宿那彦神像石神社が明らかにしてくれる。
「像石(かたいし)」が
重要な謎解きの要点である。
「像石」名を持つ神社がもう一つ神名帳の
能登國に載る。
羽咋郡の大穴持像石神社で、現在羽咋市寺家に
同名で気多神社の東方200㍍に鎮座している。
祭神は大己貴神と少彦名神である。
「大己貴神と少彦名神」で
両神が一体である様子をみた。
ここにおいてもそれは同様と考えられる。
また現在七尾市黒崎に
宿那彦神像石神社が鎮座している。
「延喜式」神名帳に載る同名社について
二社が論者となっているようだが、
実態は以下のようなことである。
つまり能登の羽咋市黒崎へと
奉祭地を遷して行ったのである。
いかなる理由に依り、
そうしなければならなかったかは
ここでは問わない。
「金丸」とは少彦名神である
「船乗りの宿営地」であるから、
三か所とも一時的に本殿が置かれたに
過ぎないと考える。
本殿が移転したことは
ご神体の移動を意味するが、
そのご神体が「像石」である。
その「像石」こそヨシュアに授けられた
「十戒の石板」のことであり、
ここに渡来したイスラエルの人々が
最も重宝とした「証し」で、
「契約の箱」に納められ、
保たれていたものであるが、
その「カタ」とは「字、文字、筆跡」の
KhTV(khetau)であり、文法的に解釈すれば
KhTVV(khatuu) で「カタ石」は
「文字で書かれている-石」となり、
神が十戒を書いて
モーセに渡した石板を表わしている。
それはしかも「二枚一組」である。
羽咋市の大穴持神像石神社の鎮座地名
「寺家」は「ジゲ」でヘブライ語の
「一対、二つ一組」を意味する
ZVG の音写である。
同社は一般に
「オナッサマ」と親しまれているが、
これは「お石様」の意味である。
「オナ」は AVN(石)である。
鹿西町金丸の南隣に当たる曽根、
羽咋市の下曽根の「ソネ」はヘブライ語の
ShNY(sheney) の音写で、
ZVG と同義の用語であるばかりか、
その隣り大町の「ダイ」も DV(dad)の音写で
上記二語と全く同義の用語で
二枚の石板に係わる。
また七尾市名は現在「ナナオ」であるが、
古くは「シテオ」であった筈である。
市内に「下(シタ)町」があり、
近くに藤原四手緒神社名がある。
「シテオ」はヘブライ語の ShTY-AVN の音写で
ShTY(shetey) は接頭語も「二つの」で、
AVN は「石」であるから、
同語は「二枚の石」の意味であり、
「七尾」は本来「二枚の(十戒の)石板」である。
寺家、曽根、大
(に「おさえ石」であり、「十戒の石板」を
護っていた磐座をしめしているものである。)
羽咋市の大穴持像石神社には境内に石柵に
囲まれた
長さ90センチメートル、幅60センチメートル、
地上に見える部分24センチメートルの
「地霊石」ないし「地震圧え石」と呼ばれる
「霊石」がある。
鹿西町の宿那彦神像石神社には
「總丈一尺七十余の薄緑石の真石」が
ご神体として伝えられている。
また七尾市の同名社でも
「縦七尺二寸、下幅三尺八寸、上幅二尺五寸」の
「像石」を少彦名神のご神霊として祀っている。
同像石は同社が昭和23年まで鎮座していた
海が見える薬師の森に鎮まっていたが、
昭和39年の国道開設のため東南に120㍍も
移され祠に納められている。
これらの霊石は実のところご神体(像石)
そのものではない。
イスラエルの人々の習慣からすると、
GVLL(golel)と呼ばれる墓所の入口に置かれた
丸石に当たるもので、正に「おさえ石」であり、
「十戒の石板」を護っていた
磐座を示しているものである。
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