2016年4月23日土曜日

《幸手の秘密》➀

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1155~1167頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《幸手の秘密》

  木曽御嶽山の三笠山の「ミカサ」は

 ヘブライ語 MKSH が原語で

 「隠れ場、避け所」の意味であることを述べたが

 その字義と全く同じ名称を市名としているのが

 埼玉県の幸手市である。

 幸手は江戸時代に「薩手」とも書かれ、

 「サッテ」が「幸いな手」の通りでないことを

 示している。

 同語の原語もヘブライ語の

 ST(setr 隠れ場、隠れ家)で、

 その音声は

 市内の橋名となっている「志手」に近い。

 市の西側に接して鷺宮町(雷電宮)、

 久喜市(KhRKh 巻物)、

 栗橋町(KVLVT-HShM 神の声)と

 北葛飾郡内のヤハウェ神信仰の土地に連なる。

 「幸手」は戦国時代からみられる地名で

 「武蔵田園簿」には「田宮町薩手共云」とあり、

 中世末期から用いられいたとされる

 田宮荘に属していた。

 その田宮荘は現在の

 幸手市、春日部市、鷺宮町、栗橋町、杉戸町の

 範囲とみられている。

 「田宮」名は現在幸手市幸手中に鎮座する
 
 雷電宮の別称に由来し、

 現在でもこの地区を田宮と言う。

 同社の草創期など詳しい歴史は解らないが、

 古代に開基されたと伝えられている。

 雷電宮というからには鷺宮神社や

 板倉の雷電神社と同じ背景をも持っていると

 推測される。

 そこで田宮の「田」の持っている字義が

 問題になるが、

 これはヘブライ語の DIH(deiah) の転訛で

 「知恵、知性」を意味する。

 何故この語かは、同地域のすぐ北に

 権現堂地区があり、

 そこに大日神社が鎮座するからである。

 「大日」も「ダイヒ」で DIH(deiah) の

 音写である。

 同名社が幸手市の南隣り杉戸町の堤根に鎮座し、

 その鳥居の扁額に「大⦿宮」と画いてあり、

 「乳の神」といってお米を上げて乳飲子を持つ

 親が父の出るようお願したという神社である。

 この「チチ」、実は DIH と全く同義の

 DIT(dait) の転訛である。

 乳の神となっているが

 本来は智恵の神なのである。

 この関係から「田宮」が「DIH(知恵)の宮」と

 解釈される。

 智恵はヤハウェ神や

 その信仰者に係わる名称である。

 この田宮の境内、

 本殿の左奥に小高い岩塚がある。

 直径が15㍍、高さ7、8㍍の、

 現在では

 コンクリートブロックで崩れるのを防いでいるが、

 本来は自然石だけで積み上げられた

 円錐形の岩塚である。

 その頂上に

 「御嶽山」と彫った石碑が建てられている。

 近辺の人の話では嘉永年間(1848~1854年)に

 造成されたという。

 となれば、この石塚(岩塚)は

 江戸時代に御嶽教の講社に依って

 造成されただろうがと察しはつくが、

 それ以前にも

 同様の石塚があったかどうか不明である。

 しかし、

 周辺に80軒からなる「石塚」姓の方々が

 住んでいることからすると、

 江戸時代末期の開設とは到底思えない。

 御嶽信仰が前面に立つ以前にも

 岩塚に対する信仰があったのである。

 ここに考慮されるべきが

 「サッテ(幸手)」と「田(智恵)」である。

 「サッテ」は

 ここの古型の岩塚から
 
 起こったものと考えられるのである。

 岩塚がヘブライの民にとっての祭壇にして

 記念碑であるということを

 考慮しなければならない。

  「『旧約聖書』のガド族」で述べたように、

 ヘブライの人々が、ヨシュアに率いられて

 死海の北ヨルダン川の東岸から

 カナンの地へ渡った後、

 「ルベンの子孫、ガドの子孫及び

  マナセの部族の半ばがカナンの地のほとりに

  来た時、そのところで、ヨルダン川の岸辺に
 
  一つの祭壇を築いた」

 (ヨシュア記第22章10)。

 それは大きくて遠くから見える祭壇で

 あった(10)という。

 この祭壇の姿形については

 特に説明はされていないが、

 『出エジプト記』

 第21章25、26に述べられているような

 「石の祭壇」であったと考える。

 ヤハウェ神は

 モーセに十戒の伝授を行った後に言う。

  あなたが、もし私に石の祭壇を造るならば、

  切り石で築いてはならない。

  あなたが、もし鑿をそれに当てるならば、

  それを汚すからである。

  あなたは階段に依って、

  私の祭壇に登ってはならない。

  あなたの隠し所が、

  その上にあらわれることのないように

  するのである。
 
  ここにいう「あなたの隠し所」は

 人の体があらわになり裸の部分が

 神に晒されることを禁じた条句で、
 
 「サッテ」とは関係ない。

 石の祭壇に神が宿るのである。

 『創世記』第28章に語られたように

 ヤコブが石を枕にして寝たところ、

 夢に一つの梯子が地に立っていて

 神の使いたちが

 それを上り下りしていたのをみ、

 これは「神の家」で

 「天の門」だと悟ったように、

 石は神が宿る家なのである。

 TsVR-IShRAL(イスラエルの石)は

 「イスラエル人の神」を表わす通用語である。

 そのような信仰観念で雷電宮の古型の石塚は

 築かれていたと推測される。

  『ヨシュア記』第22章が語る祭壇は、

 ガド族などの子孫と他の支族との間で

 彼らがイスラエルの神と関係あることを

 証すための証拠として築いたのであった。

 だから、後世そのような祭壇をみた

 ユダヤ人たちが、
 
 これがイスラエルの神の僕たちが築いたことを

 証すための祭壇にして記念碑(塔)なのである。

 「記念碑とは GL-ID(gal-Ied)」のことで、

 「証拠の(石を積み上げた)塚」の字義である。

 生憎ガド族等はアッシリアの捕囚により

 そのヨルダン川の沿岸ギリアド(GL-ID)を

 去らなければならなかった。

 そして、極東の島々(『イザヤ書』第41章)に

 麗しの地(鷺宮町葛梅など)を得たが

 ガド族の子供たちは石の祭壇をここに築き上げ、

 これを「証しの祭壇」として

 隠し守り通したのである。

 正に「隠れ場」なのであり、

 これが「サッテ」の由来である。

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