2016年4月21日木曜日

《大己貴神と少彦名神》

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 《参考:年表・資料》
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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1149~1154頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《大己貴神と少彦名神》

  御嶽神社の祭神として国常立尊と共に

 大己貴命、少彦名命が奉祭されている。

 「顕玉神と大国主神」ではヤハウェ神が

 大己貴神に習合していることを解いた。

 少彦名命と大己貴命(『日本書紀』の表記)との

 関係については

 第12章 大国主神と大物主神で触れたが、

 『古事記』に少名毘古那神と表記され、

 「大國主の神、出雲の御大(みほ)の

  御前(みさき)に坐(いま)す時に、

  波の穗より天(あめ)の羅摩(かがみ)の

  船に乘りて、

  鵝(ひむし)の皮を内剥(うつはぎ)に

  剥ぎて、衣服(きもの)と爲(し)て、

  歸(よ)り來る神」で

  「大穴牟遲(おおあなむぢ)と

   少名毘古那(すくなびこな)、

   二柱(ふたはしら)の神、

   相い並(とも)に此の國を作り堅めき」

 とある。

 少彦名神は外来の神ながら大己貴神に協力して

 この国の建設に当たったのである。

 その後

 「然て後は、其の少名毘古那神は常世国に

  度りましき」

 と大己貴神の元を去って行ってしまう。

 しかし、大己貴神が独りになったことを

 愁いていると、

 「海を光(てら)して依り来る神」があって、

 『日本書紀』に依ると

 「もし私がいなかったらどうしてお前独りで

  この國を平定することができたか」と、

 その神が語り掛けている。

 これは少彦名神が再来したことを示している。

 同神は大己貴神がその何者であるかを

 問うたのに対し、

 「私はお前の幸魂奇魂なり」と答えている。

 その神は

 「吾をば倭の青垣の東の山の上に

  伊都岐(いつき)奉(まつ)れ」と申された。

 そのため現在桜井市の大神神社において

 少彦名神は

 大物主神、大己貴神と共に奉られている。

 少彦名神の姿態について、

 『古事記』の「鵝の皮を」以下の形容や

 『日本書紀』の大己貴神の頭に噛みつく小男

 などを述べ、「小男」であったとしている。

 これは「少名」が「小子(ちいさこ)」名と

 その印象が重ねられて作られた神話では

 ないかと思われる。

 本来「スクナ」と「小子」は

 全く関係のない神格である。

 小子はアズミ族の奉祭する海津見神のことで

 「海童」「少童」などと表記される神である。

 スクナ神が「少名」と表記されることから、

 双方の混同が行われたのであろう。

 ヘブライ語の NNS[T](nanos[t])が

 「小人、背の低い人」を表わすので

 「ナムチ」に捉えられ影響したものだろうか。

 次に述べるのは

 その二神が同一神であるとの見解である。

 次に述べるのは

 その二神が同一神であるとの見解である。

  『日本書紀』は少彦名神を大己貴神の

 「幸魂寄魂」として、その分身にして

 本来は同一の神格とみられる表現になっている。

 実際両神を合体させた記録がある。

 『播磨國風土記』飾磨郡に

 「筥丘(はこおか)と呼びます故以は、

  大汝少日子根命(おおなむちのみこと)と

  日女道丘神(ひめじおかのかみ)とが、

  契り会われし時に、日女道丘神は、

  この丘に食(け)の物とともに、

  筥の器などの具(そなえ)

  (道具)を備(ととのへ(準備)ました。

    故に筥丘と號けました。」

 とある。

 「大汝少日子根命」名は

 明らかに両神の合体名である。

 また茨城県東茨城郡大洗町磯前町の

 大洗磯前神社と

 同県那珂湊市平磯前の酒列磯前の祭神が、

 現在は大己貴神、少彦名神と別称されているが、

 文徳実録(平安時代の史書)においては

 「大奈母知少奈比古奈命」と記されている。

 さらに「万葉集」にも表れる。

 その三首については

 後述の「伊都と志都」で触れる。

 「オオナムチスクナヒコナ」を

 御嶽神社の古書には連名の記録は無いようだが、

 その背景から類推すると意義が判明してくる。

 「オオナ」は AVN で「岩石、石」を意味する。

 「ムチ」は

  MVTsA(motsa) で「出口、源泉」をいみする。

 御嶽山の笠山を水源とする溝口川の「ミゾ」や

 八海山を水源とする大又川の「又」

 その他三岳村を流れる南俣川の「俣」は

 長野県、岐阜県の両県に亘り

 河川名、山名に用いられており、

 これらは
 
 「水の出口/水口」を表わしていると考える。

 その多くが川名に用いられているのが目立ち

 証左に富んでいる。

 「スクナ」は SGN(segan) の「副官、次官」と

 SKhN(sukheno) の「天幕、幕屋」の

 二つの混合をなす。

 幕屋とは仮庵のことで、

 モーセが伝授された十戒を納めた「契約の箱」を

 シナイからカナアンへの移動の途次、

 安置した天幕のことである。

 ここで素直にヘブライ語の

 「水などを入れる容器/壺」の

  PhK(phak) の音写とみるべきだろう。

 PhKHは「(水が)流れ出る、噴き出る」

 「(泉が)湧き出る」となる。

 壺とは積雲を象徴し、

 そこから水(雨)は流れ出て来るのである。

 本書の第12章 大国主神と大物主神

 櫛𤭖玉神とは穴の開いた二重口縁壺のことであり

 大穴持神(大神神社の祭神)になっていると

 説いたことに通じる。

 これを纏めると「岩-水口-幕屋-壺神」となり、

 『出エジプト記』第17章で語られた

 民に水を恵み、

 律法を授けた幕屋に鎮まっている神となる。

 実際は雲柱となって幕屋を覆い、

 その上に留まっているのだが、

 王滝村溝口川の中流域に大原という地名がある。

 山中の平坦な高原であろうが、
 
 SKhN の同義語 AHR(ohar) が

 影響しているかもしれない。

 「オオナムチスクナヒコナ神」とは

 「岩戸より水を湧れさせる幕屋の壺(雲)神」で

 ヤハウェ神をよく表わしている。

  茨城県の大洗磯前神社の内陸部は

 水戸市になるが、

 この「ミト」は「オオナムチ」名に係わり、

 同社の信仰圏である。

 「オオ AVN」の同義語 TsVR が

 市内の湖名、町名となっている

 千波(せんば)の祖語で、

 本来は「チバ」であっただろう。

 千波町内には千波神社が鎮座し、

 その東隣りの笠原町に水戸神社が祀られている。

 古くから水戸明神と呼ばれていた。

 「水戸」は MVTsA であるから、

 「水門」は相応しい。

 千波湖の西側は常磐町となっている。

 『和名類聚抄』の常石郷に否定され、

 「常石」は別の背景を表わしているが、

 「トキワ」は THVM(tehvm) の音写で

 「地下水」を表し、

 隣りの泉町名がそれを傍証していよう。

 水戸神社の近くを逆川が流れている。

 「サカ」は SKhN と

 同義の SKH(sukah 幕屋、仮庵)の音写とみられ、

 千波湖の周辺は「オオナムチスクナヒコ神」に

 係わりがる。

  なお、「スクナ」を「副官」と理解すれば

 大己貴神を助け建国の業を成した

 職位を表わしていることになり、

 その場合は別の神との概念になる。

  以上のように両神を同一神とする背景が

 御嶽山の状況などから推測される。

 《参考》
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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