2016年4月30日土曜日

《北陸と佐渡の秘密》➀

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1168~1191頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《北陸と佐渡の秘密》

  前節において、

 『ヨシュア記』第22章に語られている

 「ルベンの子孫、ガドの子孫及び

  マナセの部族の半ば」の人々に

 ヨシュアより与えられただろう

 「律法の巻物」が幸手市神明内石塚に

 埋納されているとの見解を述べた。

 その文中でヨシュアより与えられただろう

 「戒め(十戒)の石板」はそこに無いと述べたが、

 この石板も日本へもたらされた、

 秘密裡に埋蔵されているのである。

 その場所が新潟県の佐渡島である。

 佐渡は「サド」というが、これはヘブライ語で

 SYD(sod) の音写名で

 「秘密、内緒」の用語である。

  何故ここに

 秘密の場所が置かれるようになったかは

 「北陸」の背景と

 少彦名信仰をみなければならない。

 北陸地方は、「延喜式」に

 「北陸道、若狭爲近国、越前、加賀、能登、

  越中、右爲中国、越後、佐渡、右爲遠国」

 とあり、

 「北陸道」は現在の福井県、石川県、富山県、

 新潟県を指す。

 この「北陸」は延喜式、和名類聚抄共に訓を

 欠いており、何と言われたのか不明である。

 史書においては、

 『日本書紀』の崇神天皇10年9月の条に

 「大彦命を以て北陸に遣す」、

 景行天皇25年の秋7月の条にも

 「武内宿禰を遣したまひて、

  北陸及び東方の諸国の地形且

  百姓の消息を察しめたまふ」とあるが、

 双方とも後世の知識に依る記述と考えられている。

 これに対し『続日本紀』巻第3、文武天皇の時

 大宝3年(703年)春正月の条に

 「従七位上高向朝臣大足于北陸道」に遣すとあり、

 7世紀末までに東海道、東山道、山陰道、山陽道、

 南海道、西海道と共に

 その地域的概念が固められたとみられる。

 「北陸」の音訓を一般に

 「ホクロク」としているが、

 『日本書紀』の傍証に「クヌカノミチ」。

 平安時代の諸である「西宮記」に「クルカノミチ」

 あるいは「キタノミチ」、

 「北山抄には「久流加之道」と訓まれている。

 文武天皇の時に北陸道と決めたものの、

 平安時代の識者たちはその地域の伝承などから

 固有の呼び方をしていたのである。

 このことからも北陸道が「北の陸の道」を

 旨とした呼称でないことが察せられる。

 上記七道名はそれぞれその縁れが明白であるが、

 「北陸」だけが曖昧である。

 「西宮記」は「キタノミチ」と「キタ」という。

 これは「北」に通じるが、

 実際は別の由来があると考える。

 「絹と地名分布」で紹介したように「キタ」

 は養蚕業に係わる名称でサンスクリット語の

 「昆虫」を意味する kita が祖語で因幡國の

 気多郡(現鳥取県日高郡)を興りとして、

 但馬国気多郡(現兵庫県城崎郡日高町)、

 福井市北之庄、

 石川県羽咋市寺家町の気多神社、

 同小松市額見町の気多御子神社、

 同七尾市藤橋町の気多本宮神社、

 富山県高岡市伏木の気多神社、

 同新湊市三日曽根の気多社、

 新潟県上越市五智の居多神社(古くは気多神社)、

 と山陰から北陸の各地に亘ってある。

 「気多」が「日高」に改称されていることから、

 「気多」が「昆虫」である「蚕、カイコ」を

 意味していることは明白である。

 「ヒタカ」は同じくサンスクリット語の

 kitaka の音写で kita と同義であるからである。

 『日本書紀』の崇神天皇が大彦命を遣わした件で、

 『古事記』は北陸を「高志道」と表記している。

 「高志」は「越」にしてサンスクリット語の

 「絹」を表わす kausey あるいは「繭」を表す

 kośa に依ることは述べてきたところであり、

 「越道」は「絹の道」であり、

 「キタノミチ」である。

  気田神社の祭神は大己貴命である。
 
 北陸地方では

 同神と共に少彦名神を祀る神社が多い。

 神社本庁の「全国神社名鑑」をみると、

 「スクナヒコ神」を神社名とする祠は

 福井県十二社、石川県二九社、富山県十二社、

 新潟県三社と五七社に及ぶ、

 それは

 少彦名神に対する信仰の厚さを示すものである。

 特に多いのは石川県であるが、

 この加賀、能登の地域は

 イスラエル人の活発に活動した地域である。

 金沢市諸江町にも少彦名神社が鎮座する。

 「モロエ」はヘブライ語の MLKh(molah)の

 音写で「船乗り、船員」を意味する。

 『記・紀』において

 少彦名神が海から寄りて来る姿は 、

 同神が船乗りであることを示している。

 その同類語に NVT(nut) があり、

 これが「能登」の祖語で

 「船の舵手、槓取り」を意味する。

 またの同類語に「

 水をかくこと、(櫂で)船を漕ぐこと」を意味する

 ヘブライ語、KhTYRH(khatiyrah)があり、

 これが「キタロク」で

 「北陸」の祖語とみられるのである。

 「北陸」は「船乗り」である少彦名神を以って

 生まれた地方名と考える。

 鹿島郡鹿西町金丸に能登比古神社が鎮座するが、

 「ノトヒコ」も少彦名神を言ったものである。

 鎮座地名「金丸」の「カネマル」は

 KhNYH-MLKh(kaneyh-molah)で

 「船乗りの宿営地」であり、

 少彦名神の一時的奉祀地であったことを

 物語っている。

 宿営地(野営地)とは奇妙な解釈であるが

 理由がある。

 その理由は、同地に鎮座し「延喜式」神名帳にも

 載る宿那彦神像石神社が明らかにしてくれる。

 「像石(かたいし)」が

 重要な謎解きの要点である。

 「像石」名を持つ神社がもう一つ神名帳の

 能登國に載る。

 羽咋郡の大穴持像石神社で、現在羽咋市寺家に

 同名で気多神社の東方200㍍に鎮座している。

 祭神は大己貴神と少彦名神である。

 「大己貴神と少彦名神」で

 両神が一体である様子をみた。

 ここにおいてもそれは同様と考えられる。

 また現在七尾市黒崎に

 宿那彦神像石神社が鎮座している。

 「延喜式」神名帳に載る同名社について

 二社が論者となっているようだが、

 実態は以下のようなことである。

 つまり能登の羽咋市黒崎へと

 奉祭地を遷して行ったのである。

 いかなる理由に依り、

 そうしなければならなかったかは

 ここでは問わない。

 「金丸」とは少彦名神である

 「船乗りの宿営地」であるから、

 三か所とも一時的に本殿が置かれたに

 過ぎないと考える。

 本殿が移転したことは

 ご神体の移動を意味するが、

 そのご神体が「像石」である。

 その「像石」こそヨシュアに授けられた

 「十戒の石板」のことであり、

 ここに渡来したイスラエルの人々が

 最も重宝とした「証し」で、

 「契約の箱」に納められ、

 保たれていたものであるが、

 その「カタ」とは「字、文字、筆跡」の

 KhTV(khetau)であり、文法的に解釈すれば

 KhTVV(khatuu) で「カタ石」は

 「文字で書かれている-石」となり、

 神が十戒を書いて

 モーセに渡した石板を表わしている。

 それはしかも「二枚一組」である。

 羽咋市の大穴持神像石神社の鎮座地名

 「寺家」は「ジゲ」でヘブライ語の

 「一対、二つ一組」を意味する

  ZVG の音写である。

 同社は一般に

 「オナッサマ」と親しまれているが、

 これは「お石様」の意味である。

 「オナ」は AVN(石)である。

 鹿西町金丸の南隣に当たる曽根、

 羽咋市の下曽根の「ソネ」はヘブライ語の

 ShNY(sheney) の音写で、

 ZVG と同義の用語であるばかりか、

 その隣り大町の「ダイ」も DV(dad)の音写で

 上記二語と全く同義の用語で

 二枚の石板に係わる。

 また七尾市名は現在「ナナオ」であるが、

 古くは「シテオ」であった筈である。

 市内に「下(シタ)町」があり、

 近くに藤原四手緒神社名がある。

 「シテオ」はヘブライ語の ShTY-AVN の音写で

 ShTY(shetey) は接頭語も「二つの」で、

 AVN は「石」であるから、

 同語は「二枚の石」の意味であり、

 「七尾」は本来「二枚の(十戒の)石板」である。

 寺家、曽根、大

 (に「おさえ石」であり、「十戒の石板」を

  護っていた磐座をしめしているものである。)

  羽咋市の大穴持像石神社には境内に石柵に

 囲まれた

 長さ90センチメートル、幅60センチメートル、

 地上に見える部分24センチメートルの

 「地霊石」ないし「地震圧え石」と呼ばれる

 「霊石」がある。

 鹿西町の宿那彦神像石神社には

 「總丈一尺七十余の薄緑石の真石」が

 ご神体として伝えられている。

 また七尾市の同名社でも

 「縦七尺二寸、下幅三尺八寸、上幅二尺五寸」の
 
 「像石」を少彦名神のご神霊として祀っている。

 同像石は同社が昭和23年まで鎮座していた

 海が見える薬師の森に鎮まっていたが、

 昭和39年の国道開設のため東南に120㍍も

 移され祠に納められている。

 これらの霊石は実のところご神体(像石)

 そのものではない。

 イスラエルの人々の習慣からすると、

 GVLL(golel)と呼ばれる墓所の入口に置かれた

 丸石に当たるもので、正に「おさえ石」であり、

 「十戒の石板」を護っていた

 磐座を示しているものである。

2016年4月26日火曜日

《幸手の秘密》④

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 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜::1155~1167頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

  さて、神社名について説明する。

 同地には先に述べたように全く神社としての

 建屋も鳥居のようなものも無い。

 単なる石塚の様相を呈している。

 その姿は『出エジプト記』第20章に述べられた
 
 「石の祭壇」の姿である。

 自然石の積み重ねで、

 中に講社記念の石などがはめ込まれている。

 その神社名について

 八海山神社とする資料もあるが、

 御嶽信仰に依り取り入れられた名称で、

 本来は「八海」だけの方がよさそうである。

 何故ならば、

 著者(小嶋秋彦)が同神社を拝観し、

 ある氏子の方を訪ねた時、

 その方は神社名を「ハッカム」と言って

 すぐに「ハッカイ」と言い直した。

 「ハッカム」はヘブライ語の 

  Kh(H)KhM(智恵者) であり、

 田宮の DIH と同類でヤハウェ神の尊称である。

 実に2000年の時を超えてこの地の人々は

 その意味が解らなくなっているかもしれないが、

 ヘブライ語を口上に乗せているのである。

 ある老人は「石塚」のことを

 「オウガとかオウガルという」

 と著者(小嶋秋彦)に言った。

 この祖語もヘブライ語の AVN-GL そのままで

 「石(岩)-塚(積み重ね、山)」である。

 正しくここではヘブライ語が生きていて、

 周辺には、その石塚の管財人、監視人また

 「(神の)岩の家」と名乗っている人々がいる。

 この石塚は八海(智恵者)神社にして、

 明らかにイスラエルの神の「隠れ場」にして

 「律法の巻物『旧約聖書』」が

 埋納されている祭壇である。

 ここまでイスラエル人の定着を書き連ねて、
 
 各地で

 巻物や幕屋への信仰を潜在させている地域を

 紹介してきたが、

 ここ程に「律法の巻物」を埋蔵しているとの

 遺産が覗える地方はない。

  それでは、

 「隠れ場」として秘密を護っている地に

 「サッテ」

 「キダチ」

 「シヘウチ」

 「ハッカム」

 「オウガル」

 「キッバ」などの

 秘密を明かす名称が

 何故与えられているのだろう。

 著者(小嶋秋彦)が八海神社の周囲の方と

 話したのは全部で20分弱であった。

 ほとんどの人は口堅く、

 「サッテ」の名の如く語ろうとしなかった。

 しかし、

 石塚の祭壇を見つめ周囲を少々回るうちに

 全てを理解できるような資料を得たのである。

 その状況は自己自身の能力ではなく、

 神に導かれているとの思いさえした。

 つまり、

 神はこの隠れ場をいつか

 「目が見えるもの」

 「耳が聞えるもの」を使わせて

 秘密を公にすることを望んでいたのである。

 そのため上記のような名称を

 ここに遺しておいたのである。

 それは、

 『イザヤ書(第2)』第41章の詩編に

 語られているように

 「海沿いの国々」「島々」に

 再び神の栄光を語り告げ、

 第49章6

  主は言われる、

  「私はあなたをもろもろの国人の光となして、

   わが救いを地の果まで至らせよう」

 とする神の意志である。

 神はいまイスラエルの神の日本における

 復興を望んでいるように思う。

 本書がイスラエルの人々(ガド族)の秘密を

 公表するのは、

 その意向に適っていると考えるからでもある。

 この分節「幸手の秘密」の草稿を

 纏め上げ得たのはいる。

 クリスマスの宵(12月24日)のことであり、

 天の配剤をそこにも感じている。

  幸手とは、イスラエルの人々(ガド族)の

 隠れ場(至聖所)を長い間秘密裡に

 護り続けてきた聖地なのである。

 《参考》
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2016年4月25日月曜日

《幸手の秘密》③

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 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

  しかし、そこには疑問がある。

 雷電宮と神社(教会、集合所)の形式を採った

 田宮は巻物の隠れ場としては

 危険かということである。

 実際その奥宮ともいえる石塚が

 幸手市内にあるのである。

 その石塚は市内神明内に鎮座する

 八海(山)神社で」ある。

 実際の巻物の隠れ場はこちらの石塚である。

 八海山は御嶽山三岳の一山の名称である。

 同石塚の頂にも、

 「御嶽山神社」、

 「八海山神社」、

 「三笠山神社」と

 木曽の御嶽三岳の名称を刻んだ

 石碑が建てられている。

 これは明治14年に

 信奉者の一人が石塚を修復した時の

 記念碑である。

 直径15㍍、高さ5㍍、程の円錐丘である。

 ここには全く神社としての建屋は無く、

 積み石の丘に樹木が生え覆っているに過ぎない。

 周囲は田圃が開かれているが、

 古い時代には森に囲まれたていただろう。

 何故ここが

 本当の「サッテ(隠れ場)」であるかは

 以下の理由に依り明らかである。
 
  同社の東側の地区を木立(きだち)というが、

 これはヘブライ語の KDSh(kodesh) の音写で

 「聖、神聖」ながら「神聖な場所」で

 「至聖所」に関係し、神殿の奥で「契約の箱」

 などが安置されていた貴所の名称である。

 同社の鎮座地名神明内も木立と同様

 戦国期の史料にみえる古い地名で

 御嶽教の普及以前からの地名である。

 神明内は戦国当時には

 「志辺内」と表記されていた。

 江戸時代の「武蔵田園簿」には「しへ内村」、

 「元禄郷帳」に「志辺内村」とある。

 現在「シンメイウチ」と言うので

 古くは「シヘウチ」であったとすること

 ができる。

 この字義は、

  「シヘ」がヘブライ語の SPhR(sipher)の転訛で

  SPhR-TVRH(律法の巻物)というように

 「巻物」であるが『旧約聖書』を表し、

 「ウチ」は鷺宮町の上内の「内」と同じく

 ATR(autar) の音写で

 「(場所が)局限される、位置が定められる」

 の字義で、

 「シヘウチ」は「定位置の巻物」あるいは

 「巻物の定位置」で、

 ここ以外へは巻物を最早動かさないとの意志が

 伝わってくる地名である。

 神明内の小字名は、前・後・北・台とあるが、

 「台」は神社周辺を言うもので、

 ヘブライ語の DVYR(deviyr) の遺称であろう。

 「本殿」あるいは「至聖所」の字義で、

 「神殿の最奥にあって最も神聖な場所」

 を意味する。

 この呼称からも

 神明内にある石塚は奥宮としての印象である。

 その西隣りの吉羽(よしば)(上下)名の小字名には

 「かつも原」があり、

 吉羽が本来「キツバ」であったことを

 覗わせている。

 ヘブライ語の「(地中に)埋める、埋葬する」、
 
 時には「墓」とも変化する

  KBR の音写とみられる。

  石塚の中に

 何かを埋蔵しているとの意味がそこにある。

 吉羽の西隣りが幸手地区となる。

2016年4月24日日曜日

《幸手の秘密》②

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 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

  しかし、

 「サッテ」には別の秘密も隠されている。

 ヨルダン川のほとりに築かれた祭壇が

 ガド族の子孫などが

 燔祭や犠牲及び酬思祭を行うことでないことを

 認め納得した他の支族たちは、

 ヨシュアから

 「主の僕(しもべ)モーセが

  あなたがたは命じた戒めと律法とを慎んで行い

  あなたがたの神、主を愛し、

  その全ての道を歩み、その命令を守って

  主に付き従い、心を尽くし、精神を尽くして、

  主に仕えなさい」といい、許しを与えた。

 この章句では何も記述されていないが、

 「戒め」である十戒を刻んだ石板と

 「律法」である聖書をの「巻物」が

 祭壇に納めるため与えられたと考えられる。

 「十戒」の石板の最初のものは、

 イスラエルの人々が金の子牛像を作って
 
 神としたため、怒ったモーセが

 それを投げつけ砕いてしまったが、

 神はモーセに二枚の石板を作らせ、

 それにまた十戒を彫り込んで渡した。

 その二枚の石板は「契約の箱」に納められ、

 仮庵の至聖所に安置され、

 後にダビデの子孫などに与えた石板は

 同じく二枚でモーセの手に成った石板と

 同じように複製されたものであっただろう。

 「律法の巻物」は羊皮紙などに

 書かれたものであっただろう。

 紀元前8世紀に

 アッシリアへの捕囚となった人々は秘かに

 これらを帯びて長い旅を続けていたものだと

 考える。

 そして、安住の地と定めた幸手の地に

 彼らは「巻物の隠し場」である祭壇を

 築いたのである。

 「サッテ」とは、

 この「巻物の隠し場」をも言っているのである。

 二枚の石板がこの地に来た人々には

 護られていなかったことは後述により判明する。

 その巻物が実際ヨシュアから

 与えられたものか、どうかは疑わしい。

 しかし、それに代わる役目を果たしてきた

 彼らにとって最も貴重な巻物の隠し場である。

  20世紀後半にイスラエルの死海の沿岸の

 涸れ谷のムランで壺に入れられた

 ヘブライ語の諸書が発見されたが、

 それらは羊皮紙あるいは銅板に印刻されていた。

 湿気の多い日本で3千年以上昔に製作された

 ものが無事に保管され得ているか疑問であるが、

 日本へ渡って来たイスラエルの人々が

 最も重宝した巻物が納められているはずである。


2016年4月23日土曜日

《幸手の秘密》➀

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 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《幸手の秘密》

  木曽御嶽山の三笠山の「ミカサ」は

 ヘブライ語 MKSH が原語で

 「隠れ場、避け所」の意味であることを述べたが

 その字義と全く同じ名称を市名としているのが

 埼玉県の幸手市である。

 幸手は江戸時代に「薩手」とも書かれ、

 「サッテ」が「幸いな手」の通りでないことを

 示している。

 同語の原語もヘブライ語の

 ST(setr 隠れ場、隠れ家)で、

 その音声は

 市内の橋名となっている「志手」に近い。

 市の西側に接して鷺宮町(雷電宮)、

 久喜市(KhRKh 巻物)、

 栗橋町(KVLVT-HShM 神の声)と

 北葛飾郡内のヤハウェ神信仰の土地に連なる。

 「幸手」は戦国時代からみられる地名で

 「武蔵田園簿」には「田宮町薩手共云」とあり、

 中世末期から用いられいたとされる

 田宮荘に属していた。

 その田宮荘は現在の

 幸手市、春日部市、鷺宮町、栗橋町、杉戸町の

 範囲とみられている。

 「田宮」名は現在幸手市幸手中に鎮座する
 
 雷電宮の別称に由来し、

 現在でもこの地区を田宮と言う。

 同社の草創期など詳しい歴史は解らないが、

 古代に開基されたと伝えられている。

 雷電宮というからには鷺宮神社や

 板倉の雷電神社と同じ背景をも持っていると

 推測される。

 そこで田宮の「田」の持っている字義が

 問題になるが、

 これはヘブライ語の DIH(deiah) の転訛で

 「知恵、知性」を意味する。

 何故この語かは、同地域のすぐ北に

 権現堂地区があり、

 そこに大日神社が鎮座するからである。

 「大日」も「ダイヒ」で DIH(deiah) の

 音写である。

 同名社が幸手市の南隣り杉戸町の堤根に鎮座し、

 その鳥居の扁額に「大⦿宮」と画いてあり、

 「乳の神」といってお米を上げて乳飲子を持つ

 親が父の出るようお願したという神社である。

 この「チチ」、実は DIH と全く同義の

 DIT(dait) の転訛である。

 乳の神となっているが

 本来は智恵の神なのである。

 この関係から「田宮」が「DIH(知恵)の宮」と

 解釈される。

 智恵はヤハウェ神や

 その信仰者に係わる名称である。

 この田宮の境内、

 本殿の左奥に小高い岩塚がある。

 直径が15㍍、高さ7、8㍍の、

 現在では

 コンクリートブロックで崩れるのを防いでいるが、

 本来は自然石だけで積み上げられた

 円錐形の岩塚である。

 その頂上に

 「御嶽山」と彫った石碑が建てられている。

 近辺の人の話では嘉永年間(1848~1854年)に

 造成されたという。

 となれば、この石塚(岩塚)は

 江戸時代に御嶽教の講社に依って

 造成されただろうがと察しはつくが、

 それ以前にも

 同様の石塚があったかどうか不明である。

 しかし、

 周辺に80軒からなる「石塚」姓の方々が

 住んでいることからすると、

 江戸時代末期の開設とは到底思えない。

 御嶽信仰が前面に立つ以前にも

 岩塚に対する信仰があったのである。

 ここに考慮されるべきが

 「サッテ(幸手)」と「田(智恵)」である。

 「サッテ」は

 ここの古型の岩塚から
 
 起こったものと考えられるのである。

 岩塚がヘブライの民にとっての祭壇にして

 記念碑であるということを

 考慮しなければならない。

  「『旧約聖書』のガド族」で述べたように、

 ヘブライの人々が、ヨシュアに率いられて

 死海の北ヨルダン川の東岸から

 カナンの地へ渡った後、

 「ルベンの子孫、ガドの子孫及び

  マナセの部族の半ばがカナンの地のほとりに

  来た時、そのところで、ヨルダン川の岸辺に
 
  一つの祭壇を築いた」

 (ヨシュア記第22章10)。

 それは大きくて遠くから見える祭壇で

 あった(10)という。

 この祭壇の姿形については

 特に説明はされていないが、

 『出エジプト記』

 第21章25、26に述べられているような

 「石の祭壇」であったと考える。

 ヤハウェ神は

 モーセに十戒の伝授を行った後に言う。

  あなたが、もし私に石の祭壇を造るならば、

  切り石で築いてはならない。

  あなたが、もし鑿をそれに当てるならば、

  それを汚すからである。

  あなたは階段に依って、

  私の祭壇に登ってはならない。

  あなたの隠し所が、

  その上にあらわれることのないように

  するのである。
 
  ここにいう「あなたの隠し所」は

 人の体があらわになり裸の部分が

 神に晒されることを禁じた条句で、
 
 「サッテ」とは関係ない。

 石の祭壇に神が宿るのである。

 『創世記』第28章に語られたように

 ヤコブが石を枕にして寝たところ、

 夢に一つの梯子が地に立っていて

 神の使いたちが

 それを上り下りしていたのをみ、

 これは「神の家」で

 「天の門」だと悟ったように、

 石は神が宿る家なのである。

 TsVR-IShRAL(イスラエルの石)は

 「イスラエル人の神」を表わす通用語である。

 そのような信仰観念で雷電宮の古型の石塚は

 築かれていたと推測される。

  『ヨシュア記』第22章が語る祭壇は、

 ガド族などの子孫と他の支族との間で

 彼らがイスラエルの神と関係あることを

 証すための証拠として築いたのであった。

 だから、後世そのような祭壇をみた

 ユダヤ人たちが、
 
 これがイスラエルの神の僕たちが築いたことを

 証すための祭壇にして記念碑(塔)なのである。

 「記念碑とは GL-ID(gal-Ied)」のことで、

 「証拠の(石を積み上げた)塚」の字義である。

 生憎ガド族等はアッシリアの捕囚により

 そのヨルダン川の沿岸ギリアド(GL-ID)を

 去らなければならなかった。

 そして、極東の島々(『イザヤ書』第41章)に

 麗しの地(鷺宮町葛梅など)を得たが

 ガド族の子供たちは石の祭壇をここに築き上げ、

 これを「証しの祭壇」として

 隠し守り通したのである。

 正に「隠れ場」なのであり、

 これが「サッテ」の由来である。

2016年4月21日木曜日

《大己貴神と少彦名神》

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 《参考:年表・資料》
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1149~1154頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《大己貴神と少彦名神》

  御嶽神社の祭神として国常立尊と共に

 大己貴命、少彦名命が奉祭されている。

 「顕玉神と大国主神」ではヤハウェ神が

 大己貴神に習合していることを解いた。

 少彦名命と大己貴命(『日本書紀』の表記)との

 関係については

 第12章 大国主神と大物主神で触れたが、

 『古事記』に少名毘古那神と表記され、

 「大國主の神、出雲の御大(みほ)の

  御前(みさき)に坐(いま)す時に、

  波の穗より天(あめ)の羅摩(かがみ)の

  船に乘りて、

  鵝(ひむし)の皮を内剥(うつはぎ)に

  剥ぎて、衣服(きもの)と爲(し)て、

  歸(よ)り來る神」で

  「大穴牟遲(おおあなむぢ)と

   少名毘古那(すくなびこな)、

   二柱(ふたはしら)の神、

   相い並(とも)に此の國を作り堅めき」

 とある。

 少彦名神は外来の神ながら大己貴神に協力して

 この国の建設に当たったのである。

 その後

 「然て後は、其の少名毘古那神は常世国に

  度りましき」

 と大己貴神の元を去って行ってしまう。

 しかし、大己貴神が独りになったことを

 愁いていると、

 「海を光(てら)して依り来る神」があって、

 『日本書紀』に依ると

 「もし私がいなかったらどうしてお前独りで

  この國を平定することができたか」と、

 その神が語り掛けている。

 これは少彦名神が再来したことを示している。

 同神は大己貴神がその何者であるかを

 問うたのに対し、

 「私はお前の幸魂奇魂なり」と答えている。

 その神は

 「吾をば倭の青垣の東の山の上に

  伊都岐(いつき)奉(まつ)れ」と申された。

 そのため現在桜井市の大神神社において

 少彦名神は

 大物主神、大己貴神と共に奉られている。

 少彦名神の姿態について、

 『古事記』の「鵝の皮を」以下の形容や

 『日本書紀』の大己貴神の頭に噛みつく小男

 などを述べ、「小男」であったとしている。

 これは「少名」が「小子(ちいさこ)」名と

 その印象が重ねられて作られた神話では

 ないかと思われる。

 本来「スクナ」と「小子」は

 全く関係のない神格である。

 小子はアズミ族の奉祭する海津見神のことで

 「海童」「少童」などと表記される神である。

 スクナ神が「少名」と表記されることから、

 双方の混同が行われたのであろう。

 ヘブライ語の NNS[T](nanos[t])が

 「小人、背の低い人」を表わすので

 「ナムチ」に捉えられ影響したものだろうか。

 次に述べるのは

 その二神が同一神であるとの見解である。

 次に述べるのは

 その二神が同一神であるとの見解である。

  『日本書紀』は少彦名神を大己貴神の

 「幸魂寄魂」として、その分身にして

 本来は同一の神格とみられる表現になっている。

 実際両神を合体させた記録がある。

 『播磨國風土記』飾磨郡に

 「筥丘(はこおか)と呼びます故以は、

  大汝少日子根命(おおなむちのみこと)と

  日女道丘神(ひめじおかのかみ)とが、

  契り会われし時に、日女道丘神は、

  この丘に食(け)の物とともに、

  筥の器などの具(そなえ)

  (道具)を備(ととのへ(準備)ました。

    故に筥丘と號けました。」

 とある。

 「大汝少日子根命」名は

 明らかに両神の合体名である。

 また茨城県東茨城郡大洗町磯前町の

 大洗磯前神社と

 同県那珂湊市平磯前の酒列磯前の祭神が、

 現在は大己貴神、少彦名神と別称されているが、

 文徳実録(平安時代の史書)においては

 「大奈母知少奈比古奈命」と記されている。

 さらに「万葉集」にも表れる。

 その三首については

 後述の「伊都と志都」で触れる。

 「オオナムチスクナヒコナ」を

 御嶽神社の古書には連名の記録は無いようだが、

 その背景から類推すると意義が判明してくる。

 「オオナ」は AVN で「岩石、石」を意味する。

 「ムチ」は

  MVTsA(motsa) で「出口、源泉」をいみする。

 御嶽山の笠山を水源とする溝口川の「ミゾ」や

 八海山を水源とする大又川の「又」

 その他三岳村を流れる南俣川の「俣」は

 長野県、岐阜県の両県に亘り

 河川名、山名に用いられており、

 これらは
 
 「水の出口/水口」を表わしていると考える。

 その多くが川名に用いられているのが目立ち

 証左に富んでいる。

 「スクナ」は SGN(segan) の「副官、次官」と

 SKhN(sukheno) の「天幕、幕屋」の

 二つの混合をなす。

 幕屋とは仮庵のことで、

 モーセが伝授された十戒を納めた「契約の箱」を

 シナイからカナアンへの移動の途次、

 安置した天幕のことである。

 ここで素直にヘブライ語の

 「水などを入れる容器/壺」の

  PhK(phak) の音写とみるべきだろう。

 PhKHは「(水が)流れ出る、噴き出る」

 「(泉が)湧き出る」となる。

 壺とは積雲を象徴し、

 そこから水(雨)は流れ出て来るのである。

 本書の第12章 大国主神と大物主神

 櫛𤭖玉神とは穴の開いた二重口縁壺のことであり

 大穴持神(大神神社の祭神)になっていると

 説いたことに通じる。

 これを纏めると「岩-水口-幕屋-壺神」となり、

 『出エジプト記』第17章で語られた

 民に水を恵み、

 律法を授けた幕屋に鎮まっている神となる。

 実際は雲柱となって幕屋を覆い、

 その上に留まっているのだが、

 王滝村溝口川の中流域に大原という地名がある。

 山中の平坦な高原であろうが、
 
 SKhN の同義語 AHR(ohar) が

 影響しているかもしれない。

 「オオナムチスクナヒコナ神」とは

 「岩戸より水を湧れさせる幕屋の壺(雲)神」で

 ヤハウェ神をよく表わしている。

  茨城県の大洗磯前神社の内陸部は

 水戸市になるが、

 この「ミト」は「オオナムチ」名に係わり、

 同社の信仰圏である。

 「オオ AVN」の同義語 TsVR が

 市内の湖名、町名となっている

 千波(せんば)の祖語で、

 本来は「チバ」であっただろう。

 千波町内には千波神社が鎮座し、

 その東隣りの笠原町に水戸神社が祀られている。

 古くから水戸明神と呼ばれていた。

 「水戸」は MVTsA であるから、

 「水門」は相応しい。

 千波湖の西側は常磐町となっている。

 『和名類聚抄』の常石郷に否定され、

 「常石」は別の背景を表わしているが、

 「トキワ」は THVM(tehvm) の音写で

 「地下水」を表し、

 隣りの泉町名がそれを傍証していよう。

 水戸神社の近くを逆川が流れている。

 「サカ」は SKhN と

 同義の SKH(sukah 幕屋、仮庵)の音写とみられ、

 千波湖の周辺は「オオナムチスクナヒコ神」に

 係わりがる。

  なお、「スクナ」を「副官」と理解すれば

 大己貴神を助け建国の業を成した

 職位を表わしていることになり、

 その場合は別の神との概念になる。

  以上のように両神を同一神とする背景が

 御嶽山の状況などから推測される。

 《参考》
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2016年4月20日水曜日

《国常立神・ヤハウェ神・エア(エンキ)神》


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 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1144~1148頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰
  
 《国常立神・ヤハウェ神・エア(エンキ)神》

  さて、御嶽神社の祭神について具体的に考えてみたい。

 角川日本地名大辞典が纏めた時代区分的名称によると

 その実態が判ってくる。

 
 室町期       王御嶽座大権現

 室町末期~江戸初期 御嶽座王大権現・岩戸大権現

 江戸中期      御嶽山座王権現

 明治3年      御嶽岩戸神社

 
  ここで判ることは、

 まず「岩戸」と「王」が併用されることが

 無かった事実である。

 この点からも「王」は前節で解いたように

 岩(AVN)とすることができる。

 次に何れの時期もその祭神を

 「大権現」と称していることである。

 権現はサンスクリット語の avatana の意訳で

 「神が顕在すること」、

 平易に言えば「神がこの世に表れること」である。

 ここの「大」は単に「大きい」の表意ではない。

 「ダイ」には

 ヤハウェ神の字義が込められているのである。

 同神の名を直接に呼ばないための呼称 DI(dai) が

 その原語である。

 DIは「智恵者」に係わるヘブライ語の同義語

 DIH(知恵、知性)から誕れた尊称である。

 この用語は「因幡と陶器師土師氏」で触れた

 鳥取県の大山の「ダイ」でもある。

 漢字の「大」はガド族を表わす「大きい」でもあるが、

 「ダイ山」はまた「ヤハウェ神の山」でもある。

 現在まで大神山神社と称して

 大智明権現、大山権現と称されてきた神名は

 ヤハウェ神の神髄が十分に表明されている。

 祭神を大己貴神としている点でも御嶽神社と共通している。

 なお、同節において「大きな岩、岩」を表す

 TsVR:ツル が「岩なる神」の主旨でも使われ、

 TsVR-YSRAL(岩-イスラエル)は「イスラエルの神」の

 意味で知られていることを紹介した。

 前節、本節はそれを明確に表徴する内容である。

  御嶽山の祭神は国常立(くにのとこたち)尊、

 大己貴(おおなむち)命、少彦名命三神である。

 国常立尊は『日本書紀』の表記に依るもので、

 巻第一の神代紀に最初に挙げられた神名である。

 「故、曰く、開闢の初めに洲壤(くにつち)浮き漂うこと

  譬(たと)えば游(あそ)ぶ魚の水の上に浮べるが

  猶(ごと)し。 

  時に、天地の中に一つ物生(な)れり。 

  状(かたち)葦牙(あしかび)の如(ごと)し。

  便(すなわ)ち神と化爲(な)る。

  國常立尊(くにのとこたちのみこと)と號(もう)す。

  【至りて貴きを尊と曰い、

  それより餘(あまり)を命と曰う。

  並びに美(み)舉(こ)等(と)と訓(よ)む。

  下(しも)皆(みな)此(これ)に效(なら)え】」

 またその一書は

 「一書に曰(いわ)く、

  天地(あめつち)初めて判(わか)るるときに、

  一物(ひとつもの)虚(きょ)の中に在り。

  状貌(かたち)言い難し。

  其の中に自ずと化生(なりいず)る神有り。

  國常立尊(くにのとこたちのみこと)と號し、

  亦は國底立尊(くにのそこたちのみこと)と曰う。」

 とある。

 『古事記』は

 「葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物に

  因(よ)りて成りし神の名は、

  宇摩志阿斯訶備比古遲(うましあしかびひこぢ)の神

  【此の神の名は音を以ちてす】。

  次に天之常立(あめのとこたち)の神

  【常を訓みて登(と)許(こ)と云い、

  立を訓みて多(た)知(ち)と云う】。」を挙げ、

 「次に成りし神の名は、

  國之常立(くにのとこたち)の神

  【常・立を訓むことまた上の如し】。」と

 神名を記している。

 その神格について『日本古典文学大系』は

 「国土の根源神」と注記している。

  現在国常立尊は王滝頂上の奥宮に祀られている。

 祭祀の開始が、江戸時代の教派神道の同神を尊崇する

 御嶽教の隆盛に依るものなのか、

 それ以前から奉賀されていたのか実のところ不明だが、

 その神の性格からするとかなり古い時代から奥宮に

 祀られていたと考えられる。

 なぜならば同神の背景がここに解いてきた

 大権現(ヤハウェ神)を彷彿させるからである。

 「常立」を『日本書紀』は、

 「底立」と言うとも述べているが、

 「トコタチ」はヘブライ語の TKhTYT(takhetit)であり、

 「底」を表わすからである。

 その概念は上記の「滝」の祖語で地下水を意味する

 THVM が

 「地中の深い所、深淵」をも意味することに対応し、

 「トコタチ」は御嶽信仰に適っているのである。

 さらに近似語 TKTYV(tuketiu) は「指令、命令」の字義で

 十戒の律法な対応するのである。

 このように常立尊は

 「地下水、深淵」と「戒律」を背景に持っている。

 後者については

 三浦山、三間山、呂などの山名、地名を挙げ述べた。

  ヤハウェ神が

 地下水の神であることは十分に理解されただろう。

 そこで再確認しておきたいのは、

 本書第5章 『旧約聖書』「創世記」で

 ヤハウェ神の祖像がメソポタミアのエア ea 神であろうと

 述べておいたことである。

 エア神はシュメルの最初の町エリドゥの祭神で

 地下の真水の神と理解されている。

 エア神の別称をシュメル語でエンキ神という。

 En-ki は「神-地」・「地神」で、

 地下から真水を湧かせるに適する呼称である。

 またヤハウェ神を表記するのに YY(yeya) があり、

 ea と同音であることを指摘しておいた。

 『出エジプト記』

 第17章の挿話と御嶽信仰に係わる諸情勢と

 国常立尊の本性、さらに次節に述べる

 「オオナムチ」の背景からすると、

 ヤハウェ神の祖像が

 メソポタミアのエア神にあることを彷彿させている。

 《参考》
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
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