2015年7月27日月曜日

大己貴命と「タカラ」①

 『浦和レッズレディース』 猶本光サポーターズサイト
 『ひねもす至福の時』
 『誕生日の花と花ことば』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『明星院・広島県歴史&地名他』
 『madiのブログ』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ(History)
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:957~959頁

 第15章 大黒柱と大己貴命

 大己貴命と「タカラ」①

  漢書地理志の「燕国」に

 「東方の夷人は天性柔順で、他の地方とは違う。

  孔子が道の行われないことを悼み、海に船を浮かべて、

  東夷の国に住もうとされたのも理由のんあいことではない。

  楽浪の海の中には倭人が百あまりの国に分かれ、

  その歳おりふし貢物を持ち来見するといわれる」とある。

 この条文についても一般に古代の日本のことと理解されているが、

 「倭人」は本書の第10章天毒とセリカなどでみたように

 日本列島にいた人々だけとは鍵らない。

 しかしそこにある「天性柔順」では

 全く「倭」の字義に相当するものである。

 「倭」とは、「従うさま」をいったもので

 「委」は「身をかがめる、身を屈する」で

 「恭順」ないし「柔順」の意味である。

 この「身をかがめた」姿態こそ山椒魚の姿で、

 いわゆる「はいつくばり」の様である。

 それをサンスクリット語で表現したのが「ナムチ」である。

 「大己貴命」名で、大山椒魚を称するものである。

 Nam、namati は

 「~に向って屈む、~にお辞儀をする、沈む、静かになる」で、

 ānamati は

 「屈む、頭を下げた、屈んだ、服従した、従順な」 などの意味となり、

 大己貴命の像に合っている。

 同類語に namuci があるが、

 これはインドラ神に征服された悪魔の名で、

  namuchi-dvis(devasa) はインドラ神の称であるが、

 この namuchi が大己貴命の「ナムチ」になったとはいえない。

  Namuchi が該当すると考える。

  身を屈めて這いつくばる山椒魚はまた「生尾人」である。

 『古事記』の神武東征で、

 次々と神武軍に制服された大和の種族で、

 彼等を「オオ、多」と解釈し、

 登美族の種族だと見解を述べた(第12章)。

 「尾の生えた人」は大山椒魚である。

 その事が小児(童)の様だというのは「河童」の様子に重ねるし、

 シュメル伝説のオアネス(Oanes、Oannes)を想起させる。

 紀元以前に渡来したヤーダヴァ族(ドヴァラカー族)である登美族は、

 その土地の大山椒魚信仰(縄文時代後期晩期からあった)を知り、

 彼等の祖先の像との共一性からその神名を「ナムチ」と

 言い慣らし始めたと推測される。

 水棲動物 yadu は彼等の種族性そのものである。

 大己貴命とは大山椒魚(大黒主)を神格化した名称である。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

東鯷国

 『浦和レッズレディース』 猶本光サポーターズサイト
 『ひねもす至福の時』
 『誕生日の花と花ことば』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『明星院・広島県歴史&地名他』
 『madiのブログ』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ(History)
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:954~957頁

 第15章 大黒柱と大己貴命

 東鯷国

  山椒魚の別称を地名とした地域が東海地方以西の日本に多い。

 棲息分布地域にそれは重なっている。

 「睪」は三重県多気郡、島根県の簸川郡多伎町、佐賀県の多久市など、

 「鍜」は「えび」と訓むが宮崎県のえびの市の祖語である。

 「鯢」は「げい」で広島県の西部を「芸(げい)州」といった。

 山椒魚は外鰓(がいさい)のある両棲類だが、

 この「鰓」は「顎」のことで「あご、あぎ、あぎと」である。

 芸州は後に「安芸(あぎ)」と呼ばれるようになったが、

 その名は顎である。

 安芸は広島県ばかりでない。

 三重県、高知県、大分県(安岐)にある。

 特に「大分」は「顎田」 を「碩田」と表記した地名で

 祖語は「あぎと」にある。

 大山椒魚は一般にハンザキといわれ、

 地方によってはハザコ、アンコ、ハジッコイ、ハジコイ、ハゼッコイ、

 ハダカス、ハジカミなどと呼ばれた。

 ハンザキは佐賀県神埼郡(神崎郡)、

 大分市から国東半島への海岸沿いにある神崎など。

 ハザ、ハジは地方によって訛るが、

 岡山県の高梁市や奈良県桜井市の初瀬(長谷)はその名称である。

 大神神社の近くにその地名はあるのである。
 
 「黒」は三重県安芸郡河芸の黒田、松阪市の黒田町、大黒田町など。

 このように東海(岐阜県、三重県) 、近畿、中国、九州に

 それらは集中している。

 それにしても広い範囲にその名称があることは

 それだけ山椒魚に対する信仰があったという証である。

 それらの地域はまた「山椒魚国」であった。

  「山椒魚国」の存在を証明している史料が中国の史書にある。

 それが「東鯷国」である。

 漢書「地理志」の呉国の条の最後に

 「会稽郡の海上には東鯷国があり、

  20数国あまりに分かれ、

  その歳おりふし貢物を持って来見するといわれる。」

 その東鯷国が一般に日本のことと考えられている。

 漢書「地理志」は

 前漢の終末紀元2年に成ったと伝えられているので、

 日本についての、

 本書が「山海経」の天毒、姑射を日本に関係する地名と

 解釈することを除けば最古の記録となる。

 一般に

 東鯷国は日本のことと認められているという点においてである。

 「漢伊奴国王」の印璽(金印)を受けた

 倭の伊奴国の後漢への遣使が紀元57年のことであるから、

 それより少なくとも55年以上前から

 東鯷国の情報は漢へ伝わっていたことになる。

  「東鯷」とは何かを確認する。

 これを「東方の鯷」とまず解釈される。

 「鯷」は「おおなまず」の意味である。

 大漢和辞典には

 「鯷、ティ、ダイ、シ、ジ、おおなまず、鮧、鮷に同じ」とある。

 「鮷」は「ティ、ダイ、おおなまず、〔説文、通訓定事〕、

  鮷字亦作㈡鮷、鯷、䱱㈠」とある。

 「䱱」こそ「山椒魚」を表わし、

 「鯷」の実際は䱱である大山椒魚をいっているものと

 解釈されるのである。

 「䱱、ティ、ダイ、さんしょううほ、或は鮷につくる」と記す。

 大漢和辞典は、「玉篇」に

 「䱱魚、四足、其音如嬰兒、食之無癡疾。 顯示全文…」

 「睪沅注」に「䱱、即兒魚、字亦鮷、此作䱱、俗世」、

 「集韻」に「䱱一曰、魚黒色」、

 「山海経中山経」に

 「休水出焉、其中多䱱魚、狀如𥂕蜼而長距、足白而、

  食者無蠱疾、可以禦兵。」との

 参考を挙げているが、

 「集韻」が山椒魚を「黒色」というと言っている。

 䱱の由来は「䱱魚」であると前述した

 「爾雅」の「聲如小兒啼」に対応する。

 また「鯢」も「兒魚」でその「小兒」に対応する。

 この様に漢の時代紀元前後の頃、

 東方に「山椒魚の国」があることを史書は認めているのである。

 大国主神の祖像を「大黒主」とし、

 大山椒魚であるとの見解が独りよがりでないことを

 これで確認してもらえるだろう。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年7月22日水曜日

大黒柱③

 『浦和レッズレディース』『レッズランド』 猶本光サポーターズサイト
 『ひねもす至福の時』
 『誕生日の花と花ことば』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『明星院・広島県歴史&地名他』
 『madiのブログ』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ(History)
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:952~953頁

 第15章 大黒柱と大己貴命

 大黒柱③

  縄文時代から日本の国土の人々は

 大山椒魚あるいは小さいものにしてもその他の山椒魚を

 信仰の対象として大事にしていたと思われる。

 その証拠が曲玉(勾玉)である。
 
 山椒魚は両棲類のもの清い水のる滝つぼなどの石の下で

 水中の穴に左右対になった卵嚢を生むが、

 その形がバナナの房のように曲がっていて勾玉と同型である。

 長さは種類によって違うが、2~15センチメートル程度である。

 卵嚢には150~300の卵が包まれている。

 まさに「曲がった卵(玉子)」である。

 勾玉は縄文時代の後期晩期の遺跡から出土しているので、

 その信仰がその頃から認識され始めたとかんがえられる。

 大神神社の禁足地である大宮谷や山ノ神祭祀遺跡初め三輪山周辺で

 出土した子持勾玉も山椒魚の卵嚢を祖型としたもので、

 墳墓に納められたものは再生への願いを込めたものと推測される。

 再生後の長寿を祈ったであろう。

 子持勾玉が特に大神神社に特徴的なのは大国主神が「大黒」であり、

 大山椒魚を祖像としているからである。

 特に大神神社の禁足地から集中して出土しており大宮谷も

 大黒谷であっただろうと推考したのはこの状況判断にもよる。

 これを「ダイコク谷」と現在呼んでいる。

 次に述べるように山椒魚は「ハザ」とも呼ばれており

 三輪山をその南東巻くように流れる初瀬川は

 この「ハザ」を祖語としており、

 同山周囲はその信仰を表わす地名が散在する。

  大黒主神である大国主神は縄文時代の後期から
 
 日本国土で神格化され尊崇された。

 現在大国主神は、

 日本の最初に建てられた宮柱で「大黒柱」であったのである。

 (山椒魚、特に大山椒魚は現在その棲息地が狭められている。

  日本の自然環境の保護のため、

  単なる天然記念物としてばかりでなく、

  「国獣」として、自然の中で生きられるように

  自然環境を変えていくべきで、

  日本の環境のシンボルとすべき対象である。)

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

大黒柱②

 『浦和レッズレディース』 『レッズランド』猶本光サポーターズサイト
 『ひねもす至福の時』
 『誕生日の花と花ことば』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『明星院・広島県歴史&地名他』
 『madiのブログ』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ(History)
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:947~952頁

 第15章 大黒柱と大己貴命

 大黒柱②

  「柱を建てる職匠」神、建御名方神の

  māna に「建物、住宅、祭壇」の意味がある。

 祭壇を主殿とする神社である杵築大社の心の御柱は俗称ではなく、

 まさに「大黒柱」である。

 その主神が大国主神である。

 本書は第12章「大黒主神」において

 「大国」は「大黒」であることを主張した。

 大神神社の磐座神社、拝殿のある所の名称が「大黒谷」であり、

 それに連なる禁足地の大宮谷も大黒谷であった可能性があると述べた。

 また「黒」に関係して現在の大阪湾である墨江の「茅淳海」、

 そして「大国主を奉祭する氏族④都農神社」でその祭神が大己貴命、

 「都農」が「チヌ」で「黒」であること、

 「日向風土記」逸文で「黒頭」がみえることを紹介した。

 大国主神が杵築大社の祭神でるからには

 「心の御柱」が「大黒柱」であって何の不思議もなく、

 その名称の発祥がここにあると考えてもよいのである。

  千家尊統は

 「祭神は大国主神であるが、

  大国を『ダイコク』とも読むところから、

  仏教のダイコク天に中世から習合されて考えられ、

  頭巾をいただき、右手に小槌、左手に嚢を背負い、

  米俵の上に乗る福神の姿を、人に這うのである。」

 と述べている。

 確かにそれは古代末から中世にかけての史実であったかもしれない。

 大漢和辞典は、大黒天(大黒神)について

 「①三宝(仏法僧)を愛し、五衆を護り、飲食を充饒するという神、

  始めは仏法を護り戦闘神也、後には主福の神となり、

  厨房に安置す。大黒天」として mahā-kāla の移入を述べ、

 「②七福神の一、我国では神仏習合の結果、

  大国主と紹介するのは大黒の音が大国主神の大国に通じた

  大国主神の別名大己貴命の字大己貴
 
  ダイコキが大黒に近いので誤用したもの」と解釈している。

 これら一般に認められている通説は

 「大国」が「大黒」になったというものである。

 本書は古代の太初において

 「大黒」が「大国」になったと説明しているのである。

 そして「大黒柱」は「大国主神の柱」であるといいたいのである。

 大国主神が多芸志の小浜に鎮座するために建てた

 天の御倉の宮柱こそ「大国柱」の始まりである。

 そして、

 大国主神は日本の歴史上最も早く、広く大衆から支持され信奉された

 「神格」を備えた神名なのであり、

 最初に家で国体、国家の中心となり支えとなった神なのである。

 次にその理由を明らかにする。

  第12章の「大国主神」などで、同神が「大黒」であり、

 「睪」であると述べ、出雲国風土記に載る。

 現在の

 八束郡東出雲町出雲郷の阿太加夜神社の祭神阿太加夜多久比売命、

 斐川郡多伎町多伎の多伎神社、口田儀の多伎芸神社の祭神も

 「多久神」の比売神であり、

 「多久神」は大国主神のことであると説明した。

 これまで、大物主神は devasa の音写でインドラ神であり、

 その神がもつ竜神、剣持神、牡牛の神などと

 その形容される多くの神像を提供してきたが、

 大国主神については一切それらしい肖像を提起してこなかった。

 ここで初めて開示することとなる。

 大国主神である「大黒主神」の祖像は「大山椒魚」である。

 「多久」と訓む「繹魚」は「爾雅」によると「鯢(げい)魚」で

 「山椒魚」を意味する。

 その注に

 「今鯢魚似鮎、四脚、前似[猿(袁→彌)]猴、後似狗、

  聲如小兒啼、大者長八九尺。」とある。

 サンショウウオには二種類ある。
 
 体長大きくても15~20センチメートルのものと大山椒魚である。

 「繹魚」の「大者謂之鰕」、「鰕、繹魚」とする。

 「繹」の訓名について

 大漢和辞典は「セキ、シャク、エキ、ヤ「とく」とも「睪声」と記す。

 「睪」は「エキ、ヤク、デフ、ネフ」と共に

 「タク、ヂャク(正誤)」と記しており、

 これまで「睪」字を用いてきた理由はここにある。

 つまり「睪」は山椒魚であり、その大なるものを「鰕」というが、

 それが「大山椒魚」である。

  小型の山椒魚魚の種類は棲息地域によって分散している。

 本州に特徴的な種類は「黒サンショウウオ」である。

 全体的にその背の色は暗褐色(黒)である。

 また、古来「黒焼」ともいわれ、

 干物にされるか焼かれて精力剤あるいは子供の病の薬として用いられた。

 イモリとその形がよく似ており「イモリの黒焼」といわれたものには

 山椒魚が含まれているに違いない。

 「黒」とは山椒魚であり、「大黒」とは「大山椒魚」である。

 大山椒魚は前記の「爾雅」の説明にあるように体長が8、9尺という。

 これは中国の尺度であるが、日本で確認されているものでは、

 大きなもので160~180センチメートルに成長する。

 彼等は清水がある峡谷にしか棲息しない。

 そぢて驚くべきことに、

 その寿命は80年~100年を超す場合もあるという。

 古代における人の一生は50年程度だったと推測されている。

 その時代に100年を生きる動物はそれだけで「神」として

 尊崇される意義が十分あったはずである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年7月15日水曜日

大黒柱①

 『浦和レッズレディース』 猶本光サポーターズサイト
 『ひねもす至福の時』
 『誕生日の花と花ことば』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『明星院・広島県歴史&地名他』
 『madiのブログ』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ(History)
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:944~947頁

 第15章 大黒柱と大己貴命

 大黒柱

  前章で「柱を建てる」のが建御名方神の字義であり、

 大国主神の国譲りに登場する水戸神の本義であることを紹介したが、

 その大国主神国譲りを了承した際に述べた言葉に次の様にある。

 前節で転載した節句のすぐ前で

  此の葦原中国は、命の隋に既に獻らむ。

  唯僕が住所をば、天っ神の御子の天津日継知らしめす
 
  登陀流天の御巣如して、

  底津石根に宮柱布斗斯理、

  高天の原に氷木多迦斯理て治め賜はば、

  僕は百足らず八十垧手に隠りて侍ひなむ。

  この部分について、日本古典文学全集は次の様に現代語訳している。

  この葦原中国は天っ神の御世のままにすっかり差しあげましょう。

  ただ私の住まいをば天っ神の御子神聖な皇位におつきになる

  光り輝く壮大な御殿のように、地底の岩盤に宮柱を太く立て、

  高天原に千木を高くそびえさせてお造り下さるならば、

  私は(百足む)多くの道の曲がり角を経て行く遠い所に

  隠れておりましょう。

  このように述べたのは、

 大黒主神が根の国の須佐之男命を訪ねた時

 「その我が女須世理毘売を嫡妻と為て、宇迦能山の山本に、

  底津石根に宮柱布刀斯理、高天の原に氷橡多迦斯理て居れ」

 といわれていたからである。

 水戸神が建てただろう「天の御舎」は

 「底津石根に宮柱布年(刀)斯理、高天原に氷木多迦斯理て」

 建てられた。

 まず最初に宮柱が太く立てられたのである。

 「柱」は伊邪那岐命と伊邪那美命の神婚に当っても

 「其の島に天降り坐して、天の御柱を見立て、

  八尋殿を見立てたまひき。」とあるように

 諾册二神においても重要である。

 また水戸神の孫櫛八玉神が大国主神の膳夫となりて奉祀するに際し

 「鎌海布の柄を鎌りて、燧臼に作り、

  海蒪(こも)の柄を以ちて燧杵に作りて、火を鎌り出て」とあるように

 その本来の像は燧杵である鐟木にあると考えられる。

 諾册二神の「天の御柱」はまた「天之御中主神」と称揚されていると考える。

 同神は『古事記』の天神の第一で高天原の主宰神とみられている。

 それは八尋、つまり広大な殿(屋敷)の宮柱である。

  この「柱」は、杵築大社では「心御柱(しんのみはしら)」であり、

 「宇豆柱」もその宮柱に入るだろう。

 前掲「出雲大社」において千家尊統は

 「大社造の本源たる出雲大社の心の御柱は

  その巨大性が注目されるのであり、

  要たる「ダイコク様」の俗称も生ずる由縁である。」と述べている。

 「ダイコク様」について考えてみる。

  大辞泉は「大黒柱」として

 「①民家の土間と床との境の中央に立てる特に太い柱、

  また建物の中央に最初に建てる柱、亭主柱、

  ②家や国の中心となってそれを支える人」とする。

 広辞苑は「大黒柱、大極柱」として」

 「①家の中央にあって最初に建てる柱、建物柱、

  ②民家の土間と床上部との境にある特に太い柱、亭主柱、

  ③転じて家や団体の中心となり支えとなっている人」とする。

 いずれにしても第一に家の中央に最初に立てられる太い柱で、

 第二に家や団体を中心となって支える人の二つの意味がある。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年7月14日火曜日

御名方神と御柱(4)水戸神②

 『浦和レッズレディース』 猶本光サポーターズサイト
 『ひねもす至福の時』
 『誕生日の花と花ことば』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『明星院・広島県歴史&地名他』
 『madiのブログ』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ(History)
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:941~943頁

 第14章 牛頭と鹿頭

 御名方神と御柱(4)水戸神②

  この水戸神が祀られているのが長野県の水内郡にある。

 「水内」は和名類聚抄の流布本に「美之知」の訓を付して、

 延喜式神名帳にも「ミノチ」訓じており、 minoti の音写である。

 というのも

 前出の神名帳に載る伊豆毛神社の神名に数説あることを紹介し、

 その中で出雲建子命がその本来の祭神の可能性が高いと述べておいたが、

 「水内」名の解釈から判断したものである。

 「建子」は「建家」ないし「建戸」で「建子屋」は大工を意味し、

 出雲建子命とは建御名方神の別称、水戸かみでもある。

 『日本書紀』持統天皇5年8月23日条

 「辛酉、遣㈡使者㈠祭竜田風神、信濃須波水内等神㈠」とある

 「水内等神」は「ミナト神」で諏訪大社の建御名方神のことであり、

 「水内などの神」の解釈は当たらない。

 神名帳の水内郡の南方の更級郡記載の「當信神社」があるが、

 訓を付してうない。

 国史大系は「多岐志奈」を参考としている。

 同社は現在上水内郡信濃新町信級に鎮座し、 

 大年神と建御名方神を祭神としている。

 その近くを流れる川も「たぎしな川」と呼ばれているが、

 同名は「多芸志」を移入したものと考えられ、

 出雲からの遷宮とみられる。

  諏訪大社の神系洩矢神の系譜にも

 不思議なことに建設業者の信仰が寄せられている。

 洩矢神の御子神は守田神というが、守宅神とも表記され、

 水内郡には延喜式神名帳にも記載された

 守田神社(長野市長沼)が鎮座する。

 またその御子神である千鹿頭神の系譜に連なる千勝神社のうち

 茨城県下妻市堀篭の千勝神社(祭神猿田彦命)は

 昭和の時代ではあるが東京深川の建設業者の信仰を受け、

 同社系は偏在も関東の建設業者から尊崇されている。

  建御名方神の祖像は縄文時代に始まる柱建て信仰を継承した

 「木霊」に対する信仰でもあろう。

 「動かざるもの」は木の最も特徴的な性格である。

 鳥取県気高郡気高町の、出雲国引き神話と同じ名を持つ

 八束水(やつかみ)地区に鎮座する姫路神社の境内摂社には

 「水戸神、樹木大明神」が坐る。
 
 石川県加賀市三木町の御木神社(現祭神大御食津神)、

 富山県婦負郡婦中町田屋の杉原神社(祭神木祖神)は

 その木霊に対する信仰の社であろう。

 速秋津比古命を祀る神社が

 石川県鹿島郡鳥屋町瀬戸の瀬戸比古神社である。

 同社も延喜式神名帳能登国羽咋郡に記載されている。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年7月11日土曜日

御名方神と御柱(4)水戸神①

 『浦和レッズレディース』 猶本光サポーターズサイト
 『ひねもす至福の時』
 『誕生日の花と花ことば』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『明星院・広島県歴史&地名他』
 『madiのブログ』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ(History)
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:937~941頁

 第14章 牛頭と鹿頭

 御名方神と御柱(4)水戸神①

  大国主神が国譲りした後について『古事記』は次の様に記す。

 日本古典文学大系から転載する。

  出雲国の多芸志の小浜に、天の御舍を造りて、水戸神の孫、

  櫛八玉神、膳夫と為りて、天の御饗を獻りし時に、祷き白して、

  櫛八玉神、鵜に化りて、海の底に入り、底の波邇を咋ひ出でて、

  天の八十毘良迦を作りて、海布の柄を鎌りて、燧臼に作り、

  海蓴の柄を以ちて燧杵に作りて、火を鑽り出でて云ひしく(略)


  「多芸志の小浜」について現在の出雲市武志町に比定する意見がある。

 吉田東伍「大日本地名辞書」は

 「武志に膳夫明神存し、杵築にも水戸社あり、

  その水戸神の裔を財氏と称し、世々別火の家なり」と記す。

 太田亮「姓氏家系大辞典」は財氏について

 「水戸神裔、出雲大社の社家にして、

  応安3(1370)年8月28日の連署に『別火、財貞吉』見ゆ。

 水戸神の孫、櫛八玉神の後裔と伝えらる。

 杵築に水戸社存す。」と記している。

 杵築大社の「水戸社」は現在「湊社」と表記されている。

 境外摂社である同社について

 第82代出雲国造千家尊統は「出雲大社」の中で

 「祭神、櫛八玉神で大社社家上官の別火氏の祖先神」といい、

 その神事である身逃神事(神幸祭)に関して

 「この身逃げ神事を奉仕するのが本来別火氏であった」と述べている。

 財氏はまさに吉田大洋「謎の出雲帝国」で紹介された

 「富上宮出雲臣財富雄」氏と関係する一族であろう。

 「財」は勾玉をいうものであることは紹介済みである(第12章)。

 この『古事記』が述べるところは、

 出雲大社を国譲りの直後は富氏(登美族)の一族である

 財氏と同族の別火家がその奉祭に当っていたが、

 後に天穂日命の一族出雲国造家が大和の神武天皇の王朝から

 奉祭を担うよう託されたという史実であろう。

 別火家名は「火を分ける家」の意味で、

 八雲村の熊野神社で火護の神事に奉仕していた一族とも考えられる。

 つまり熊野神社は富氏族の奉祭する神社で、

 その祭神櫛御毛野神を富氏が祖神としていたとみられ、

 出雲井神社や富神社で祀る久那斗神(穴掘神)と

 既述した理由はそこにある。

  これらの状況を背景に持つ「水戸神」もまた

 富族(登美族)に係る神名である。

 同神名は『古事記』の
 
 伊邪那岐命と伊邪那美命の国生みの段に続く

 神誕みの段にその両神の御子神として

 「水戸神、名は速秋津日子神、

  次に妹速秋津比売神を生みき。」とある。

 続けて『古事記』はこの二柱の秋津神から

 沫那芸(あわなぎ)神など八神を生んだことを記すが、

 その神名は「河海に因る」名称である。

 水戸神は単に「湊」の神であろうか。

 その秘密は「秋津」にあるが、

 これもシュメル、いやそれより古く

 人類の灌漑を始めたころに遡って解釈しなければならない。

 メソポタミアのサマッラ遺跡の新石器時代の遺構で

 人類の初めての灌漑施設が見つかっている。

 チグリス川の水を制することは

 小麦などの生産を増大させる重要な技術であった。

 その様子は第2章メソポタミアと牡牛で述べた。

 灌漑技術は建設技術であった。

 その点で「水戸神」が建設神である始まりである。

 そして「ノアの方(箱)舟」の様に

 建築は常に水と向き合ったものであった。

 この「箱」を意味する用語が、

  ギリシャ語で αρχι、

  ラテン語で arca、arceu 、

  ドイツ語で arche 、

  英語で ark であり、

 この箱を作る者(建築師)が

  αρχιτεκτων(ギリシャ語)、

  architeta(ラテン語)、

  Architekt(ドイツ語)、

  archtekt(英語)である。

 これらが「秋津」の祖語であり、

 その本来の字義が「建築師」であるから

 「建物を建てる職匠」である建御名方神と同義と考えられる。

 つまり「水戸:ミナト」とは minati の音写であることとなる。

 水戸神を建御名方神の別称とすることもできる。

 多芸志の小浜に「天の御舎」を建てたのもこの水戸神であろう。

 Māna の字義の中には「建物、住宅」と共に「祭壇」の意味がある。


《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ