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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
セブンネット
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:1237~1251頁
第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰
《八潮市立資料館:藤波邸の「牛角兜」》
本間氏の本貫依知郷には以上のような来歴がある。
第11章の「相模:ドゥルガー・プージャーの里」で
伊勢原市の大山の阿夫利神社は
「ハフリ」がその祖語で havri の h が無音化して
avri になったと述べたが、
ギリシャ(イオニア)から影響された結果である。
相模にはサカ族などの入植があったのである。
厚木市には船子、水引の地名や
金田、松枝両地区に船喜多神社が
鎮座するのをみると、
やはり大型の船で来着したものとみられる。
海老名市名はその「船」が祖語である。
ドイツ語の kahn 、その古形 kähne が同祖語で
英語の cabin(船室) に通じる。
ギリシャ語の
επι-νηγος(船上にある)はより近い。
海老名市南部の本郷は
horn(角)に由来すると考える。
本郷、杉久保、河内「(上下)の地域は
戦国、江戸期には
思間、思馬、遠間と表記されたが
この「オンマ」は「ホンマ」と同義である。
ここにも阿夫利神社の訓と同じ現象がある。
「ホンマ」は河内及び社家名に係わる。
「シャカ」はペルシャ語として紹介した
shaka(角) であり、
「コーチ」は
サンスクリット語の kūta(角)の転訛である。
そして、「ホンマ」は
ドイツ語の Helem、
英語の helm(現在はhelmet)と同根で
「帽子、兜」を表わす用語である。
金田の相模川を挟んだ向かいに
海老名市の上郷がある。
「カミ」は
ドイツ語の Kappe、
ラテン語の cappe、
英語の capで、
「帽子、兜」を表わす用語であるかもしれない。
本間、恩間は「兜」と理解される。
厚木市の「アツキ」は
ギリシャ語の Αττικη あるいは
Αττικς の音写である。
ギリシャのアテネ市を中心とする地域名で、
英語で Attica という。
その字義はアテネ神の尊崇をを表わしている。
厚木の場合もその本義は同じで
軍船の守護神に対する崇拝を地名としたものである。
上郷には「延喜式」神名帳に記載されている
有鹿神社が鎮座するが、
この「有鹿」も Αττικηが祖語である。
アテネ女神は戦いの神で
常に兜を付けている神である。
古代ギリシャ時代に製作されたアテネには
必ず兜が冠されている。
その有鹿神社が鎮座する上郷の「カミ」が
「兜」であっても不思議はない。
因みにヘブライ語の「帽子、兜」を表わす用語は
KhVBI(kebe)である。
本間氏はその後安房の里見氏の傘下に移り、
君津市の小櫃に知行地を得て在住していた
なぜ安房に移ったかは史料にみえないが、
推測すると、
日蓮をいたく信仰するようになった同家が
同上人の故郷(安房郡天津小湊町の誕生寺)が
そこにあることに依るのではないだろうか。
里見氏は
豊臣秀吉の小田原城攻め遅参を理由に
崩壊させられるが、
本間氏は江戸幕府の時代になって小櫃から
八潮市後谷に移り、土着したという。
そこで小櫃姓に改姓したという。
「小櫃」は
イスラエル人の信仰に係わる「箱」を意味する
KPhSH が原語であったが、
それはまた久伊豆神社が鎮座していたと推測できる。
本間氏が氏族の象徴と大切に保持していた
「牛角兜」は小櫃郷の近くの久留里が
また牛角(水牛の牡牛)を
大切にする地であったことから
より重要視されたと考える。
そのため柳之宮の神社の鎮座する地域を
「西袋」と称したと推測される。
西袋の地名は新編武蔵風土記稿は綾瀬川が
西方に大きく曲がり、その地が袋のように
なっていたことに依ると述べられているが、
川の対岸にも現在東京都足立区桑袋となっている
「桑‐袋」が西袋の小字として載っているので、
それは余り妥当性がない。
西袋、桑袋、そして草加市手代(てしろ)は
その祖語を同じくするだろう。
つまり、
久留里市場の旧家名「須藤」や孫代と同様
「セイタイ」で、ヘブライ語の
SVR-TAV(se牡牛-tai水牛)、「水牛の牡牛」で
「」を表す用語である。
「袋」は「脹(ふくら)」であった。
それは藤波邸の「牛角兜」を示唆するものである。
サカ族(ゲルマン族)の牛角は、
ここに
ヘブライ人の月神(sin)信仰と共鳴していると考える。
とはいえ、それは神体でなく、
あくまでも私邸の安置物の限りである。
さらにこの牛角には第三の共鳴物がみえている。
つまり、氷川神社の影である。
同社は大宮市の本社を中心に西角井家などを
神職とする出雲国造家と同祖で天穂日命を
祖神としている。
「牛角兜」はこれら三つの「牛角」と
ギリシャのアテネ女神の兜が
習合して姿座しているのである。
牛角兜の角の部分の正面には、
階段のような刻みが三十三段
(右の角は 五分の四の長さの部分で切断されている)
に彫られている。
第4章の「ゲルマン」で、
その原語がシュメルの galm-am(階段-野牛)で
あると述べた実像を見事に表している。
牛角は天への階段なのである。
メソポタミアの新石器時代のムレイヒト遺跡や
アナトリアのチャタル・フユク遺跡、
アッシリアのアルパチア遺跡の碗に
牛頭が揚げられたり、
描かれた理由がよく理解できる。
ヤコブが夢にみた「天への門」も階段であった。
ジグラットはシュメル語で、
hur-sag-galm-ma(大きな階段の山)と表現されていた。
階段は古代の信仰において
重要な意義があったのである。
その伝統を継承する日本の神社は
必ず本殿に上がるための階段が設けられている。
藤波邸の牛角兜は、
そのような人類一万年の宗教的重みを表現し、
また
「ゲルマン」の何かを表明している逸品である。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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