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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:1237~1251頁
第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰
《八潮市立資料館:藤波邸の「牛角兜」》
一私家の系譜で恐縮だが同家は江戸時代の中頃まで
小櫃家といい、
それも江戸期の初期本間姓から改姓した家系である。
その本間氏については現在の当主が
「八潮市史研究」に掲載して
明らかにしているところに依れば、
鎌倉時代の御家人本間氏が本貫であるという。
その祖は本間能忠で、
「群書類従」にその系譜が載るが、
現在の神奈川県海老名市に当たる
相模国高座郡海老名郷の住人
海老名源八李定の次男であるという。
厚木市金田に本間屋敷の字名があり、
そこの妙継寺はその屋敷跡と伝えられている。
本間氏は佐渡の守護代を勤めることがあった。
「北陸と佐渡の秘密」で登場した
鎌倉時代の守護本間氏である。
本間能忠の能久などである。
文永8年(1271年)と推定される
日蓮の佐渡送りにも関係し、
日蓮は送られる直前
本間屋敷預かりの身になったらしい。
日蓮書状に
「此れ十二辰時勘気、武蔵守殿(大和宣時)
御あつかりにて、十三日丑時にかまくらをいて〃、
佐土の国になかされ候か、たうしハほんまのえちと
申しところに、
のちの六郎左衛門尉殿代官右馬太郎と申者
あつかり候か、いま四五日ハあるへけに候」
(本満寺文書/神奈川県史資)とみえる。
「のちの六郎左衛門」が
本間六郎左衛門重達とされる。
「のち」は「当主」の意味で
サンスクリット語の
nātha(主人、支配者)が用いられていると考える。
この書状でも解る通り、本間屋敷は「えち」にあった。
「えち」は鎌倉時代から戦国期にかけての郷名で
依智郷と表記され、現在の依知である。
厚木市の相模川と中津川(及び小鮎川)が合流する
金田以北上依知の両河の間を称していった郷名である。
本間氏の母体海老名氏は、平安期から中世に現在の
埼玉県児玉郡美里町を中心に活動した
武蔵七党のうちの横山党の出であり、
康平年間(1056-65年)に相模守としてこの地に来た
源田郎親季を祖とする。
さらに横山党の祖は武蔵権介として下向した
小野義隆(義孝)である。
この小野氏は村山源氏の出と諸家系図纂は言うが、
厚木市に小野があり小野神社が鎮座することから、
その祖はこの地域に縁りのあった種族と考えられる。
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