2010年11月4日木曜日

スサノオの命の系譜

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録12:17・18頁

「復原推理の手ほどき(1)」

オホクニヌシ┐
┌ヒルコ           ├「 」
イザナギ―┐├アハシマ   ┌タキリヒメ─┘
├┼オオヒルメ─┬┼タキツヒメ
イザナミ─┘├ツキヨミ  │└イチキシマヒメ
└スサノオ──┘
(スサノオ)┐
オホヤマツミ┬アシナヅチ─クシナダヒメ┴──ヤシマジヌミ──┐  
│       (スサノオ)─┐         │
│             ├─オホトシ    │
├──────カムオホチヒメ┴─ウカノミタマ  ├( )
├コノハナサクヤヒメ┐             │
│ニニギノミコト──┘             │
└───────────────コノハナチルヒメ┘
オホクニヌシ┐
├「アヂスキタカネヒコネ」
タキリヒメ─┘
ヤシマジヌミ──┐            アメノツドヘチネ───┐
├(フハノモヂクヌスヌ)─┐           ├
コノハナチルヒメ┘           ├フカフチノミズヤレハナ┘
オカミ─ヒカハヒメ┘

6代あとの大国主と、タキリヒメが結婚したことになっている。

見やすいようにカナ書きとし、尊称は省略する。

よみ方は仮りのもので、原典をあとで引用して補なう。」

『異説・日本古代国家』20神話と歴史のつなぐ人物


「復原推理の手ほどき(2)」

ヤシマジヌミ──┐            アメノツドヘチネ───┐
├(フハノモヂクヌスヌ)─┐           ├
コノハナチルヒメ┘           ├フカフチノミズヤレハナ┘
オカミ─ヒカハヒメ┘
アメノツドヘチネ───┐
├オミズヌ┐
フカフチノミズヤレハナ┘    ├アメノフユギヌ─┐
フテミミ┘        ├オホクニヌシ┐
サシクニオホ─サシクニワカヒメ┘      ├
カムヤタヒメ┘
オホクニヌシ┐
├ヤヘコトシロヌシ
カムヤタヒメ┘
オホクニヌシ┐
├┬アヂスキタカネヒコネ
スサノオ─タキリヒメ─┘└タカヒメ

オホクニヌシ┐
ヤシマムヂ─トリトリ┴トリナルミ─クニオシトミ

どんな考え方をしても、6代も前のおバアさんと結婚することはありえない。

これはあれこれ考えるより、系譜に間違いがあると考えるほかない。

(注)よみは武田祐吉著「古事記」(角川文庫)による。

『異説・日本古代国家』20神話と歴史のつなぐ人物

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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2010年11月3日水曜日

神話と歴史をつなぐ人物

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録12:15・16頁

もう一人のタキリヒメは、

スサノオの命の娘、三女神の長女に当る方である。

古事記  ①多紀理毘売(タキリヒメ)またの名、奥津島(オキツシマ)比売、
②市寸島比売またの名、狭依(サイ)毘売、    ③多岐都比売

書紀本文 ①田心(タコリ)姫、     ②湍津(タキツ)姫、③市杵島姫
以下一書 ①瀛津(オキツ)島姫、    ②湍津(タキツ)姫、③田心(タコリ)姫
①市杵(イチキ)島姫、    ②田心(タコリ)姫、③湍津(タキツ)姫
①瀛津島姫またの名市杵島姫、②瑞津姫、    ③田霧(タキリ)姫

一見しただけで、ずいぶん混乱が激しいことがわかると思う。

しかし、そのうちで、

<多紀理毘売>、<田心姫>、<田霧姫>が「タキリヒメ」であることは、

説明はいらない。

また混乱はあっても三人姉妹であることは厳重に守られている。

そこで応神天皇妃の<高城入姫>を見てみよう。

古事記では、品陀真若王の女、三柱の女王、として

①高木之入日売、②中比売、③弟比売、としてある。

書紀では

①高城入姫、②仲姫、③弟姫である。

この中、仲、弟というのは名前ではない。

<ナカ>は<次女>、<オト>は<末娘>のことである。

ここでもぴったり三人だから、よく合うのであるが、記紀双方とも、

申し合わせたように②③の名前がないのである。

一体応神天皇はどの大帝の后妃の名が不明のままということがあるであろうか?

これは②③のうち一人でも明記したら、たちまち、

スサノオの命の三女神だとわかるために、

どうしても名前を書くわけにいかなかった、と思いたくなる書き方である。

『異説・日本古代国家』20神話と歴史のつなぐ人物

しかし、<タキリヒメ>の名と、三姉妹という二点では一致している。

仮に<スサノオの命>と<品陀真若王>が同一人だとすれば、

これまで神話の世界の存在とされていたスサノオの命は実在者、

品陀真若王の別名だという大変すばらしいことになる。

この仮定が正しければ必ず他の証拠が見つかるはずである。

天皇の本系でないために<品陀真若王の系譜>は簡単なものしかない。

そこで先ず記載の多い<スサノオの命の系譜>から見ていこう。

どういうものか、この命を祖とする大国主命一族の記事は、

日本書紀には少く、古事記には詳しい。

系譜もまた古事記には詳細に出ている。

その系譜にざっと目を通して面白いことに気がついた。

それは、命が、大山津見の神の娘「神大市比売」と結婚していることである。

大山津見の娘は天孫降臨の主人公、ニニギの命とも結婚している。

有名な「木花佐久夜毘売(コノハナサクヤ)」である。

これは現代人の常識なら、

スサノオの命と、ニニギの命は義兄弟ということになる。

スサノオの命と天照大神との間に生れた

天忍穂耳(アメのオシホミミ)の命の子が

ニニギの命であるから、二人は祖父と孫でもある。

それが同じ姉妹と結婚したのであるから、

当然互いに行き来がありそうなものなのに、

この二人は出雲族と天孫族とに分れてしまい、

時代も隔絶して、全く無関係なのである。

どうやらここでも分裂現象が起こっているような予感がする。

『異説・日本古代国家』20神話と歴史のつなぐ人物

『参考』

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2010年11月2日火曜日

品陀真若は大黒天で大国主でスサノオ?!

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録12:14頁

しかし、それが何故?、品陀真若に使われたのだろう?。

この答は高木入比売と中比売、弟比売という彼の3人の娘が、

応神天皇の后妃になったことで推理できる。

この結婚は女王の夫として応神天皇が、

品陀真若のもっていた政権を受け継いだことを示している。

それは間違いなく「国譲り」だから、

品陀真若は大国主なのである。

すると大国主=品陀真若でなければ

マハーカーラではないから、大黒天ではなく、

従ってダイコクサンと呼ばれることもない。

真若は「皮纏ふ」だけでなく、

大黒天の意味も複合して持っていたことは間違いない。

またスサノオの命の娘・多紀理(タキリ)毘売も

大国主の命の后である。

高城入姫、高木之入比売もタキリヒメと読めるから、

当て字が違うだけである。

これは偶然なのか?。

他に理由があるのだろうか?。

この疑問には、

加治木義博著『異説・日本古代国家』が正しく答えている。

この本は会員の皆様はもちろん、会員以外の多くの愛読者の皆様や、

若い学者の方々から実に多数のご注文を戴いているが、

何分30年以上前の出版で、

すでに絶版になっていて、いまだに再版できないでいるので、

せめて、この部分だけでも、ここで再録してご覧に入れたい。

すでにご所持の少数の皆様にはご退屈かも知れないが、

こうした事情をご高察の上、少しだけご辛抱をお願いしたい。

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2010年11月1日月曜日

大黒天・マハーカーラも「マワカ」の語源か?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録12:13頁

真若の語源候補はもう1つある。

それは鉏友が吉備子でエビスのモデルであり、

「大国(だいこく)」すなわち

卑弥呼政権の倭国連邦を譲った側だからである。

その当事者の大国主の命は、

古来「ダイコク」と呼ばれて、

インドのマハー・カーラ=大黒天

(シバの一名で世界の主宰者)と同一視されている。

(後世に最澄が比叡山に祀ったのは中国仏教からの再輸入である)

それが何故?問題か?。

それはこのインド神名が、

やはりマハカラ、

すなわちマハカで、古代人ならもちろん、

戦前の日本人でも「マワカ」と発音する名をもっているからなのだ。

「マワカ」は、

その語源が大国主一族を意味する「マハカ」だった可能性が少くない。

しかし

「まさか、インドの神名が、

古代にそんな使い方をされたとは、信じられない」

という人もあると思う。

でも垂仁天皇の后妃の父は、

美知能宇斯ン=ビチュヌウ神という

シンドゥ教の最高神の名を現実に名乗っており、

『古事記』は、さらにそれを

「天の御中主(ミチュウヌシ)」と当て字して、

開巻第一の創世記に、

宇宙に先ず出現した最高神の位置に据えている。

オオクニヌシは確かに倭国(オオクニ)の主であり、

当時の日本列島最大の大国・倭人連邦の支配者だったから、

大国主と呼ばれるのは当然で、

その大国(だいこく)と通音の大黒天に擬しても少しも不当ではないから、

マハカを、その一族の王の代名詞に使っていても不思議ではない。

『参考』

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2010年10月31日日曜日

神武記が再確認させた言語復原史学の真価

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録12:12頁

こうみてくると、

私たちの言語復原史学が、いかに史学の基盤にしっかり根をおろした、

正しく不動の史実復元システムだったかが、改めて強く再確認できる。

この神武記の例は地名が史実を写した記録だという主張だけだが、

その地名・国名を配列した天皇や豪族の「名乗り」は、

その史実を写した記録の複合物なのだから、

その「名乗り」中の地名や職名と、その増減や変化が、

そのまま歴史記録として読み取れるのである。

だからこそ地名が分布を広げ、それが大きさを変えていく過程が、

その勢力の消長を記録している。

それと『記・紀』その他の史料を比較対照して、分析し総合すれば、

その消長の原因結果がわかる。

それを『記・紀』ほかの文献が書く内容の信頼度を測定する物差しにし、

骨格として、前ページのような文献批判を繰り返しながら、

その原因を探ってその経過と答を知れば、

それらの名詞が体験した真実の歴史を、

高い精度で復元できるのである。

また様々な名詞は、言語としての国籍をもっている。

私たちは在来の

史学、

言語学、

民俗学、

民族学、

考古学、

神話学などの学者が、

日本語だと信じて疑わなかった名詞や言語が、

ギリシャ語、

パーリ語、

マレー語、

中国語、

アイヌ語などだったことも突き止めた。

だからそれが意味する内容はさらに史実を精密に復元して、

謎を知識に変えてくれるのである。

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2010年10月30日土曜日

神武東征記事中にある「古代の言語復原史学」?!

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録12:11頁

船が白肩の津に着いた時、楯をもって降りたのでそこを楯津という。

兄の五瀬の命が手に矢が刺さったので、

その血を洗ったから血沼(ちぬ)海という。

しかし命は亡くなった、

その時、命が男(お)たけびして死んだので、

そこを男(お)の水門(みなと)という。

敵が鳴り鏑(かぶら)で射返したので、

それが落ちた所を河夫羅前(かぶらぎき)という。

敵の死骸を斬り散らしたので宇陀の血原という。

といった調子で地名が、

そこで起こった事件の生きた証人だという立証法になっている。

この筆法は地名を歴史の復元に使うという点では、

私たちの言語復原史学の大先輩だといわねばならない。

しかし、そんな事件があったから、

こんな名が生まれたのだというが、

白肩は枚方以外には該当地がなく、

そこと盾津とは大き離れている。

チヌの海の名も倭王・珍と淡路島の津名のほうが

語源だと確認済みである。

河夫羅前(かぶらぎき)に至っては古来、該当する地名もない。

こうしたことは、地名の由来が史実に由来していると主張して、

だからこの記事は史実なんだと信じさせる目的で書かれたものだが、

昔の人なら知らず現在の私たちの知性をだますことはできない。

だがこれは、

千数百年前に遺跡や地名や伝承が

文化財として史実の立証に役立つということを知っていた

私たちの先祖の、

高い文化を記録していることを見逃してはいけない。

それが不純な目的のためにコジツケに終わるしかなかっただけなのである。

『参考』

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2010年10月29日金曜日

『記・紀』編纂の目的が凝集している神武天皇記

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録12:10頁

ところが『記・紀』はそれらを、

1度きりの神武東征だったとしている。

それは何故か?。

紀元前660年という太古に建国して以来一度も革命などなかった。

我が国は神仏に加護された東海の聖地。

万世一系をつらぬいてきた聖人君子国であると強調することで、

中国の征服欲をスポイルしようというのが、

天武天皇らの『記・紀』編纂の主目的だったからである。

彼らが正統の皇族であり、主権者だというのは国内向けの主張で、

これは弘文天皇(伊賀大友皇子)を倒して

政権を取った現実が周知のものである以上、

実力が決定することであり、

いくら血統を主張しても何にもならない。

だからこちらは副目的でしかなかったのだ。

そのために神武天皇の記事は、

いかに南九州から奈良まで、

一挙に大移動して首都を確保したかというスタイルに仕上げられた。

前段は東征コースの地名の羅列が芯になっている。

高千穂の宮。

豊国宇沙。

竺紫岡田の宮。

阿岐多祁理の宮。

吉備高島の宮。

速吸門。

浪速の渡。

白肩の津。

楯津。

日下。

血沼の海。

紀国男の水門。

熊野村。

葦原中国。

吉野河。

阿陀。

しかしそれだけでは史書の体裁をなさないので、

要所要所の地名に由来を書き加えてある。

それは今、

私たちが地名を「史実の証拠」として使うのと

同じ発想に基づいている。

ところがよく見ると、

神武天皇記の全文がそれだけで終わっているといっていい。

『参考』

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