2015年10月11日日曜日

伊和神①


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:964~964頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 ≪伊和神≫

   「延喜式」神名帳の播磨国宍粟郡に

 「伊和坐大名持御魂神社名神大」が記載されている。

 また明石郡及び赤穂郡に伊和都比売神社が載る。

 この「伊和」は播磨国特有な神社名である。

 また播磨国風土記には伊和大神が数多く登場し、
 
 その広がりが顕著である。

  伊和とは何を示しているのか。

 神名帳の神社名からすると

 大己貴神をいっているようである。

 だが、第12章大国主神と大物主神などで追及した

 同神には伊和神の影はうかがえなかった。

 伊和大神とはユダヤ教の父神ヤハウェ神である。

 本節から伊和神がヤハウェ神であることを実証する。

 まず、播磨国風土記にみられる伊和大神及び

 伊和名の様子を纏めてみる。

 〇飾磨郡

  (1)英賀里 伊和大神の御子、阿賀比古・阿賀比売二柱の神

  (2)伊和里 右、伊和部と號くるは、

       積幡(しさわ)郡の伊和君等が族、

       到来たりて此に居りき。
     
             故、伊和部と號く。

  (3)貽和(いわ)里

 〇揖保郡

  (1)香山里 伊和大神

  (2)阿豆村 伊和大神

  (3)(伊勢野) 伊和大神の御子、

         伊勢都比古命・伊勢都比売命

  (4)美奈志川 伊和大神の御子、

         伊龍比古と妹と伊龍比売命の二柱の神

 〇宍禾(しさわ)郡

  (1)宍禾と號くる所以は、伊和大神(略)。

  (2)安師里 伊和大神

  (3)石作里 本の名は伊和なり

  (4)阿和賀山 伊和大神の妹、阿和加比売命

  (5)波加村 伊和大神

  (6)伊和村 本の名は神酒(みき)なり

 〇神前(かむさき)郡

  (1)神前とする所以は伊和大神の御子、建敷命、
   
    神前山に存す

  (2)糠岡(ぬかおか) 伊和大神
 
 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年10月9日金曜日

絹と地名分布③


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:386~394頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 絹と地名分布③

  神名帳但馬国の気多郡に「気多神社」があり、

 現在の京都府城崎郡日高町上郷同名社である。

 「日高」は「気高」の訛で、

 橿原市城殿の旧名「喜」が「ヒ」であったことに対応する。

 上郷の「上」も蚕を表わす。

 城崎郡には神名帳に「気比神社」が載り

 豊岡市気比宮代の同名社であろうが、

 同地には現在「絹巻神社」もあり、

 絹産業との縁(ゆか)りをみせている。

  八神は、敦賀市の気比神宮の解説で述べたが、

 「八上」も「八神」と同義である。

 『古事記』の大国主命の妻請い物語の登場する

 八上比売命(やかみひめのみこと)の名になっており、

 やはり「絹虫・蚕」である。

 八上比売命は

 現在鳥取県八頭郡河原町曳田の

 八上比売命沼神社に祀られている。

 旧八上村の地である。
 
 「曳」は「匹ひき」のことで、

 布帛など反物二反を一として数える単位名である。

 同社は神名帳の因幡国八上郡に売沼(ヒメヌ)神社として載る。

 現在の郡名八頭は「八上」と「智頭」の合併したものであるが、

 「ハットウ」で大月氏の翕侯名昑頭と対応し、
 
 これも地名の先祖帰りである。

 売沼神社の呼称「ヒメヌ」は「ヒメヌノ」の意味で

 「売布(ひめふ)」の転訛と考えられる。

  売布神社名の神社が、

 神名帳丹波国熊野郡、竹野郡、但馬国気多郡に載る。

 熊野郡の場合は久美町女布権現山もある。
 
 竹野郡の場合は網野町大津女布谷の「売布神社」である。

 気高郡の「売布神社」は(現)城崎郡日高町国保に鎮座する。

 この「ヒメ」とは絹のことで木密の転訛である。

 「売布ひめふ」は「絹布」のことで、帛(はた)を意味する。

  神名帳摂津国河辺郡にも「売布神社」「高売布神社」と載る。

 前社は兵庫県宝塚市売布山手町にあり、

 池田市綾羽の伊居太神社の西方に位置する。

 後社は三田市酒井に鎮座する。

 そして摂津国東生郡に載る「比売居曽神社名神大」は
 
 〔蚕-繭〕を意味する

 kośa の音写「古佐」の地名を持つのが篠山市である。

 市内には畑宮、奥畑、畑井、畑市、幡路と「ハタ」名が多い。

 畑宮の北隣りには瀬利がある。

 これは瀬理と同じで「石」である繭を表わす。
 
 また「八上」は八上毘売命、八神と同じく「蚕」を表わす。

 同地は京都府の亀岡市へ天引峠を越えて通じ、

 秦氏の関係した養蚕地とみられる。

 最後に姫路市であるが、

 播磨国風土記の飾磨郡「伊和里」に

 「蠶子落ちし處は、即ち日女道丘と號く」とあり、

 「日女道(ひめじ)」が「蠶子(ひめじ)」に

 依るものであると語っている。

 その丘はは現在姫路城天守閣のある姫山であるという。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年10月8日木曜日

絹と地名分布②


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:386~394頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 絹と地名分布②

  石川県はかっての越(こし)の国で、

 奈良県明日香村越で説明したように

 サンスクリット語の kosa に依拠した呼称で、

 北陸の越においても養蚕が盛んであったことを示している。

 越国には秦氏の足跡が濃厚である。

  福井県敦賀市にある気比神宮の「気比(けひ)」は

 「カイコ」の「カイ」と同義同根である。

 同社と関係のある敦賀半島の常宮(じょうみや)の常宮神社、

 西方の三方五湖の水月湖を包む常神半島の名称の元である

 三方町常神の常神神社は「常世虫(とこよむし)」を

 常神として奉祀しているものである。

 新撰字鏡、名義抄に

 蠋(しょく)を「トコヨムシ」としており、

 字義は蚕である。

 気比神宮の祭神に八百万神(やおよろずしん)坐す。

 この祭神が「絹蚕」を意味するのである。

 神宮の西方三島町に現在正八神社が鎮座する。

 神名帳の天八百萬比畔神社に比定できるが、

 「八神」は絹虫の意味である。

 「八」は京都市太秦の蜂岡の「ハチ」であり、神は木密である。

 八百万神の「八」も同様で「絹」、
 
 百万神は「百万虫」で、これは漢字で蚕を表わす

 「竅:ケフ」の「八・百・万」に依っている。

 「淮南子」天文訓に「卵生する者は八竅なり」とある。

 よって、八百万神は「絹/蚕」ということになり、

 「気比」と同義となる。

  気比神宮の気比を地名としているのが、

 福井県丹生郡朝日町に気比神社を祀る気比庄であるが、

 同地の南佐々生には「佐々牟志神社」があり、
 
 これは蚕を表わす蠶を崩したものである。

 蠶を和名類聚抄が「加比古」、名義抄が「かいこ」とする。

 因みに蚕は本来「みみず」の意味である。棕日雙

  気比庄の東側隣接地が鯖江市で、

 「サバ」は蚕の「さなぎ」を表わす。

 大月氏の雙靡(そうひ)と同根の名称である。

 市の中心鯖江の地に柳町があるが、

 柳は楊(よう)で「さなぎ」を表わす。

 「蛹(よう)」の転訛ある。
 
 蛹は「説文」に「繭虫」とある。

 柳町の隣り横江町もこれに依るものであろう。
 
  鯖江市の北側は福井市となるが、

 ここは「北の庄」の地である。

 「北」は足羽川の北側にあるからというのが通説であるが、

 南の庄という呼称は無いのでそれは妥当しない。

 その地域に堅達町、北野町、上北野、志比、四ツ井、四ツ居の

 地名があることから、昆虫ではあるが

 蚕を表わす kita, kita-ja に依るものと考える。

 志比以下は気比の訛であろう。

 同地が足羽郡として成立する以前は

 「キタヤ北野」であったとみられる。

  板井郡金津町の北、北野も同様の地名である。

  福井県の東北に位置する勝山市にも

 北野津又、北郷町と蚕に由来する地名があり、
 
 永平寺町の志比と上志比村の志比は気比の訛ったものである。

 勝山市勝山には白山神社が鎮座している。

 勝山名は岡山県にも同名の町があるが、

 これも本来は「螣山」で「はくいむし」である

 蚕を表わす山名である。

 その山名が北山であり白山である。

 白山は「しらやま」を元名と考える。

 「しら」は広島県の世羅と同じく

 サンスクリット語の śaila、sila (石)であり、

 繭玉の比喩名である。

 柳田邦夫が江戸時代になって「おしらさま」という

 蚕の呼称を紹介しているが、それと一致する。
 
 当神社について

 朝鮮半島の白頭山信仰が持ち込まれたとの見解もみられるが、

 それは蛇足であり、

 同神社の起源は古代の絹産業にかけた信仰に始まっているのである。

  武生市京町に総社大神宮が鎮座している。

 総社は岡山県でみたように神蛇である総蛇(蚕)のことである。

 同社の西方の大虫神社のある大虫町と養蚕業に係わる信仰がみられる。

 武生は竹生であり、

 朝日町の佐々牟志神社のある佐々生の佐々を竹としたもので

 敦賀市の笙の川の笙とも同義である。

 そして原語は蠶で「朁」のみを取った名称である。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年10月7日水曜日

絹と地名分布①


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:386~396頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 絹と地名分布①

  休蜜が本当に「亀カメ」になったのかとの疑問も湧くだろうが、

 実際はそれどころではない。

 亀は元より「神」ともなっている。

 事実「カイコ」は神格化され篤く祀られているのである。

 以下は秦氏の勢力が及んだ所だけではないけれど、

 その絹に係わる用語が

 どのように及んでいるのかを示す地名などの展開である。

  広島県の東端に神石郡があり、

 現在も神石町など三町に含まれている。

 和名類聚抄に備後国神石郡と載るので吉備国のうちである。

 この郡内にかって亀石村があった。

 それが現在の神石町である。

 また同郡内に来見(くるみ)村があった。

 この村名はサンスクリット語の虫を表す kṛmi によるもので、

 木蜜 kiumi の祖語であり、

 亀・神が虫を表わしていることが解る。

 石は同県内の世羅郡の名になっている

 サンスクリット語の śaila (石)を取り入れたもので
 
 繭玉の比喩名なのであり、神石(亀石)は「蚕の繭」を意味する。

 第10章の「天毒とセリカ」で説明した用語である。

  『古事記』で大国主命の后となる須勢理毘売命(すせりひめみこと)

 は sur-śaila の転移で

 「白い石」または「輝く石」で繭玉を名としたものである。

  神石郡は備後国、つまり吉備国内に位置するが、

 『古事記』孝霊天皇の条に天皇の御子として

 「比古伊勢理毘古命(ひこいせりひこみこと)、

 亦の名は大吉備津日古命」とあり、

 『日本書紀』では

 「彦五十狭芹彦命、亦の名吉備津彦命」としている。
 
 伊佐勢理はサンスクリット語で

 isa-śaila 「繭支配者」の意味である。
 
  吉備は休蜜と近似する。

 「吉備」は第13章の「男王卑弥弓呼と孝霊天皇」で

 みたように「熱高炉」を表わすが、

 吉備国とは、また「養蚕国」を表わす。

 現在の岡山県総社市名、津山市の総社にある

 総社宮の「総合する」の意味で捉えられているが、

 そうでは全くなく、

 「説文」に総は「神蛇なり」と説くように蚕を表わす。

 総社は総蛇の転移である。

 その津山市がかって属していた勝田郡の

 勝は本来「螣(とう)」で「はくいむし」

 つまりこれも蚕を表わす。

 勝田郡と並ぶ苫(とま)田郡の

 「苫」は編んで固めたものの意味で、

 ここでは繭と理解できる。

 また大月氏の都密にも通ずる。

 苫田郡の北方に鳥取県の気高郡が日本海沿いにあるが、

 かっての気田郡で、「気多」は蚕の意味の kīta に依る。

 郡名の「気高」あるいは町名の「日高」は

 サンスクリット語の kita と全く同義で「昆虫、虫」を表わす。

  kītaka の音写であり、

 「キタ」が「蚕」であることの証左となっている。

 「延喜式」神名帳気高郡に幡井神社が載る。

 現在の青谷町絹見がその所在地である。

 板井神社も同様に載るが、

 双方とも patta によるもので同義である。

  この気多より大穴持命を勧請したというのが

 石川県羽咋市の気多神社で、

 「ハクイ」は、はくいむしの「螣」である。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年10月6日火曜日

秦氏と絹産業


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:383~386頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 秦氏と絹産業

  天満宮のある北野には

 平安時代菅原道真が祀られる以前から天神を祀った神社があった。

 そこに以前から天神を祀った神社があった。

 そこに牛にまつわる伝承があるのは

 大酒神社の牛祭りの牛と理由を同じくする。

  北野は単なる北の野の意味ではないであろう。

 本来は「キタヤ」で秦氏の桑園が広がって
 
 養蚕業が行われていたと推測される。

 キタヤはサンスクリット語の kitaja で絹糸を表す。
 
 神名帳葛野郡に載る

 「木嶋坐天照御魂神社並名神大」は

 右京区太秦森ヶ東町にある養蚕神社、通称蚕の宮で、
 
 この地域で養蚕が盛んに行われたことを物語る。

 大酒神社のある現在地名蜂岡の「ハチ」も

 ハク patta を由来とする。

 城陽市久世の富野(との)「トミ」を基とする

 月氏の翕侯名都蜜と同じく dāma (糸、繊維) によるものである。

 京都市西京区の西隣には亀岡市で、

 「亀」は城のある亀山による呼称であるが、
 
 その原義は大月氏の五翕侯の一つ休蜜 kiumi と

 同じく虫である蚕を意味する。

 市内に繭を意味する kośa による古世町もある。

 亀岡市は丹波国桑田郡に属しているた。

 『日本書紀』雄略天皇紀の16年秋11月にある。

 「詔して、桑の栽培に適した国県に桑を植えさせた。

  また秦の民を割り当て移して、庸調を献じさせた」

 とある件に関連するとみられる。

 市内の矢田(やだ)町は那須与一堂があることから

 「矢」字が使われているが、本来は「シダ」であろう。

 隣の余部町に広く志田(しだ)があることから推測され、
 
 それは茨田神社の「シダ」を転訛させたものであり、

 『日本書紀』のいう

 秦氏を分散させたうちの一か所と考えられる。

 丹波の丹は丹物と字義を同じくするもので、

 サンスクリット語の「糸、繊維」を表す tan/tantu 、
 
 動詞を tan 「繊維を廣く、伸ばす」に由来する用語である。

 その丹羽国で延喜式神名帳に載る矢田神社は、

 與謝郡に「矢田部神社」(野田川町石川)、

 ここには「大虫神社名神大」「小虫神社名神大」があり、
 
 虫は蚕を表す。

 丹波郡に矢田神社(中郡峰山町矢田)、

 熊野郡にも矢田神社とある。

 熊野郡の矢田神社の所在地は久美浜町海上で、

 久美も「木蜜」に対応する名称で、

 郡名「熊野」も「久美」であり、

 蚕を意味していることになる。

  桑田郡には

 「桑田神社」「小川月神社名神大」「松尾神社」とあり、

 秦氏との関係を覗わせている。
 
 言うまでもなく「桑田」は「桑畑」のことである。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年10月4日日曜日

牟佐と太秦②


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:376~383頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 牟佐と太秦②

  呉国については、

 漢大陸の南部孫権が覇権を建てた呉(ご)のこととする

 見解や高句麗のこととする見解があるが、

 これは双方とも妥当ではない。

 それは、『日本書紀』仁徳天皇紀56年条の一節に

 で明らかである。

 「冬10月に呉国・高麗国が揃って朝貢した」とある。
 
 呉国と高麗(高句麗)とが別国であり、

 漢大陸の呉国が高句麗と相談して揃って

 (一緒に)渡来するとは余程のことがない限り考えられない。

 同雄略天皇紀の20年冬の条に

 「高麗の王が、大いに軍兵を発して、百済を攻撃し滅ぼした。

  兵糧は、すでに無くなって、深く憂いに泣いた」、

 21年春の条に

 「百済国は、属党がすでに亡び、倉下に集まって憂えていたが、

  実に天皇のお力によって、またその国を造ったと言った」とある。

 呉とはこの百済国内にあった倉下のことで

 GVLH (離散したヘブライ人の居留地)の漢字音である。

 弓月君のいた土地と考える。

  さて、日本へ渡来した月氏族を

  なぜ「ハタ」氏と呼ぶかであるが、

 すでに「月氏とシルクロード」で述べたように

 大月氏は絹の専門家集団である。

 ハタは大月氏の五翁侯のうちの一つ

  肸頓翕侯(きつとんきゅうこう)の

 祖語であるサンスクリット語の絹を意味する

 patta に由来するものである。

 この語は衣を意味するもので織物をも含んでいることになる。

 原義が「薄いもの」の意で、板にも適用される。

 ヘブライ語の KhVT(khut) は「糸、紐」を表す。

 この二語はサンスクリットごの patta を原語とし、

 その語も実は、古代の絹産業発生の地、

 四川省の和人(倭人)が「蚕」を表す用字として用いた

 「八はち」が祖語である。 

  先に挙げた雄略天皇紀15年条の続きは次のように記す。

  「そこで、秦造酒は、それを大変気に病んで、

      天皇のお供えしていた。

   天皇は、秦造酒は寵愛され、詔して秦の民を集めて、

   秦酒公に賜った。

   そこで公は180種を率いて、

   庸調の絹、縑(かとりきぬ)を奉献して朝廷に充積した。
  
   よって姓を賜って禹豆麻佐というのである。

   いずれも充積の貌(かたち)である。

   〔中央公論社:日本の名著『日本書紀』に依る〕

  秦氏が絹産業の専門家集団である真骨頂である。

 ここで検討したいのは禹豆麻佐、京都市左京区の地名

 太秦についてであるが、

 この『日本書紀』の「充積の貌(かたち)である」とする
 
 地名譚はおもしろいが、そのまま認め難い。

 そこで考えられるのが「北の牟佐」である。

 牟佐はこれまで説いてきた大和国の牟佐で、
 
 その本義はヘブライ語の「絹」を表す MHShY(meshe)である。

 禹豆(うず)はサンスクリット語の

 uttra の転訛で「北の」意味である。

 山城国名に出てきた歌荒樔田の歌(宇多)とは同義である。

 このように「ウヅマサ」は「北の牟佐」の意味である。

 太秦は、

 大和国の南の牟佐に対する北の牟佐、北の秦人なのである。

 「ハタ」氏がその漢字表記に「秦」が用いられた理由は、

 彼等が月神崇拝者であることによる。
 
 アブラム(アブラハム)の一族がカルディアのウル(メソポタミア)で

 奉じていた月神名がセム語で sin 神であり、

 その神名と同音の秦〔qin〕を当てたものと考えられる。

 また、太秦と表記された理由は「ウヅマサ」が大和の牟佐から
 
 新しく開墾された土地、「大牟佐」である。

 「太秦」は「オウシン」と漢音訓ではなり

 「オウシ」に別の意義がある。

 その説明は後に詳しく触れる。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

 

 

 

2015年9月20日日曜日

牟佐と太秦①


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:376~383頁

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

 牟佐と太秦①

  「延喜式」神名帳大和國高市郡に
 
  「牟佐(むさ)坐神社大」が載る。

 この神社について本居宣長以来

 (現)橿原市見瀬の同名の神社比定してきた。

 「ムサ」の地名は『日本書紀』の

 垂仁天皇紀に身狭桃花鳥坂、雄略天皇紀に牟佐村主(すぐり)、

 欽明天皇紀の大身狭屯倉など、

 これまで身狭、牟狭、武遮、三瀬(江戸期)と表記されてきたが、

 具体的な地名の存在を明らかにするのは

 『日本書紀』の雄略天皇紀の

 「8年春2月身狭村主(むさのすぐり)青、

  檜前民使博徳(ひのくまたみのつかいはいとく)を

  呉国に遣わし」

 と述べるに始まる。

  この遣使たちは14年に帰国する。

 「14年の春正月の丙寅朔戌寅に、
 
  身狭村主青らが、呉国の使者とともに、

  呉の献上した手伎ある、漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)

  および、衣縫の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)らを率いて

  住吉津に碇泊した。」

 そして3月に
 
 「呉人を檜隈野に置いた。そこで呉原と名付けた。」とある。
 
 呉原は現在の明日香村栗原のことである。

 漢織は「木綿織物」、呉織は「絹織物」と考えられる。

  呉人とは百済の倉下にいたヘブライ人で移転してきいた

 月氏族がいた所の住民である。

 「呉」である「クレ」の字義は「離散したヘブライ人の居留地」で

 ヘブライ語の(Heb.),גָלַה,GVLH,golah は

 「捕囚(ディアスポラ)、(祖国からの追放)」をも意味する。

 その原語の(Heb.),גָלֶ,GVLH,gole は

 「流浪者、祖国を追われた人」である。

 『日本書紀』の「呉」は韓半島におけるヘブライ人の居留地で

 「倉下」とも表記された。
 
 そして「呉人」とはヘブライ人を表す。

 後に同じく呉国から渡来し檜隈の於美阿志神社に祀られている
 
 阿美使主の一族は倭漢(やまとのあや)氏といわれるように

 漢(あや)氏で呉人ではない。

 栗原には「延喜式」神名帳に記す呉津彦神社が鎮座している。

 この呉津彦神と同じ祭神を祀る神社が

 同じ明日香村越(こし)にある

 許世都比古(こせつひこ)命神社(神名帳記載)で見瀬町の

 すぐ南に当たる。

 越および許世はサンスクリット語の kośa で繭を表す。

 応神天皇の時に百済より渡来した弓月君が最初に置かれた

 掖上の地にある巨瀬(古瀬)も同義である。

  日本書紀の雄略天皇紀には

  ※十五年、秦民、分散臣連等、各隨欲駈使、勿委秦造。

   由是秦造酒、甚以爲憂而仕於天皇。

   天皇愛寵之、詔聚秦民、賜於秦酒公。

   公、仍領率百八十種勝、奉獻庸調絹縑、充積朝庭、

   因賜姓曰禹豆麻佐。

   一云「禹豆母利麻佐」皆盈積之貌也

 「15年に秦の民を臣連らに分散して、

  それぞれ思うままに駆使させ、

  秦造に委ねしめなかった」とあることからすると、

 この時秦の民はこの地域に

 分散して居住させられていたのである。

 その状況が掖上から離れた見瀬町周辺にみられる。

 御所市内にあった西寺田多田の地域も

 その一つと思われるが、  

 掖上内にも東寺田の地があり、

 その北側に現在一(かず)町となっている。

 かっての常門村に稲代坐神社がある。

 この神社も神名帳に載る古社であるが、

 その版本により「稌代坐神社」と表記されていて

 正式な社号は確定されていない。

 しかし、

 当社は大社に列しており優遇された由縁を持つ神社である。
 
 町名は昭和32年の改称によるものであるが、
 
 この地名は「地名の先祖返り」の一例と考える。

 その例を挙げると佐賀県の河上神社のある大和町や

 熊本県の三加和町である。

 「一(かず)」はカドで葛と同音である。

 常門はソロモンの転訛である。

 また一町には三神社が現在あるが

 「三」は見瀬、牟佐に通ずる。

 畝傍山の東方に城殿町がある。

 この地名は江戸期に木殿と改名させられたが、

 それ以前は史料の上では

 平安期から喜殿と表記された荘園名であったりした。

 その訓音についてであるが、

 元初は「ヒデ」ないし「ヒダ」と考える。

 漢大陸から漢字を取り入れた当時

 「喜」は「ヒ」に近い発音であったとみられる。
 
 現在の中国語においても「喜Xi」であり、

 ヒマヤラ山脈名は喜馬拉雅と表記されている。

 また同町の東側に飛弾町があり、

 祖語を同じくするものとみられる。

 その祖語はダビデである。

  畝傍山の北西に寺田町がまたあり、

 その西に雲梯町があるが、百済国の弓月君がいたとみられる

 城内に雲梯県が新羅の時代から現在まで続いてあり、

 その名称に係わる地名である。

 天理市内にも喜殿町があり、そこに八坂神社が鎮座している。

 田原本町の橿原に近いところに秦庄がある。

 以上の状況でも明らかなように
 
 見瀬である牟佐はヘブライに係わる用語である。

 これは、また

 「絹」を意味するヘブライ語
 
 (Heb.),מֶסהֶ,MHShY,meshe の音写である。

 つまり、隣り合う町名「見瀬」と「越」は

 それぞれヘブライ語とサンスクリット語による同義で

 「絹」を表すのである。

 さらに MHShY と百済とは極めて重要な縁があるが後述する。
 
 メッシュは古代ローマにおいてはユダヤ人の代名詞であった。

 御所市、橿原市、明日香村などに

 点在する秦氏の居住地を牟佐と称したのである。

 
 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ