2015年6月12日金曜日

宇屋谷と神代神社(1)宇屋谷と宇夜都弁命②

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:898~900頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 宇屋谷と神代神社(1)宇屋谷と宇夜都弁命②

  神名にある「都弁」は、出雲国風土記の飯石郡飯石郷に載る

 神名、伊吡志都弁命とも共通するが「工匠」を意味する。

 『古事記』に「伊斯許理度売命・作鏡連(かがみづくりのむらじ)」、

 『日本書紀』に「石凝姥命」とし、

 その訓を「伊之居梨度咩」とする「ドメ」に同じと考える。

 ここでは女神の意味はない。

 「都弁」はサンスクリット語 tvā- で tvaṣṭr は

 インドラ神の金剛杵を造った工功神である。

 この石凝姥神は「先代旧事本紀本紀」の天孫本紀にも、

 「故地ー真t姥命、鏡作上祖」とあるが、

 鏡作りばかりでなく刀剣の製作も行った。

 『日本書紀』の天石窟の段で同神を鍛冶として

 天香山の金を採ってきて日矛を作らせ、

 また真名鹿の皮を全剝(つつはぎ)にして天羽鞴を作らせたという、

 ふいごの技術を備えた鍛冶であった。

 この「石凝」は宇屋谷と全く縁が無いわけではない。

 というのも、神代神社を守っているのは現在僅か数軒しかないが

 「石郡(いしごおり)家」で、

 石郡・石凝は同祖と考えられるからである。

 そればかりでなく、神庭、その東側の学頭など、

 この周辺は「小島家」が多い。

 この「コジマ」は koti-mat で

 「尖った」 あるいは「「尖った先端のある」で、

 つまり刀剣を祖語としているとみられる。

 宇夜都弁命名は「風-工匠」で鍛冶工、それも刀鍛冶を表わしていると

 理解できるのである。

 宇屋谷から下った所に綿田原との地名があるが、

 これは vāta-tvā で同じく「風-工匠」であろう。

 上庄原内となっている田波も tvā- に依るだろうか、

 風土記にはこの辺りにあったらしい「須須比池」が載るが、

 これはサンスクリット語の śuṣma (荒い息吹き、猛烈、剛勇)、

 śuṣmin (吠え立てる、剛勇の、猛烈な)の転訛によるものであり、

 荘原、庄原名は「宋」で sua 「息をする」、

 つまり息吹きの同類語である。

 「田波」にはもう一つの解釈が可能である。

 つまり、 tapati(te) を原語するとの考え方である。

 その意味は「熱す、暖かくする、焼なんあどで、
 
 tapta は「燃えた、赤熱された」で、

 金属業での「溶解された」の意味を持つ、

 tapta-tāmra は「溶解された銅」である。

 また名詞として「熱、燃焼」を字義とする。

 この tapta が学頭の大黒山の東麓の地名にある「田畑」とみられる。

 田波、田畑の地名からこの地域で銅の精製あるいは鋳造の為の

 「溶解」を行っていたとの推測が成り立つ。

 このように、宇屋谷、西谷、庄原、荘原に掛けては、

 鞴技術を持った鍛冶集団の存在を知らせる資料が多いのである。

 佐支多神社は「剣社」である。

  神代神社の祭神は現在宇夜都弁命、大国主神、品陀別命であるが、

 第三の神名は八幡宮を合祀したことによるものである。

 大国主神は、ここでは八千矛神名に置き換えられるよう。

 神庭から和加布都怒志命が祀られていた今在家まではそう遠くない。

 宇夜都弁命を建御名方神の別称とすることができよう。

 地元の奉祭氏族は、神代神社を「諏訪神社元宮」と通称している。


《参考》

 ARPACHIY
AH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
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2015年6月11日木曜日

宇屋谷と神代神社(1)宇屋谷と宇夜都弁命①

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:895~897頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 宇屋谷と神代神社(1)宇屋谷と宇夜都弁命①

  だが、既に述懐したようにことはそう簡単ではない。

 出雲内で剣を製造していた可能性もあるのである。

 西谷の入口に近い荘原町に佐支多神社が鎮座し、

 その意味が「剣」であることを紹介したが、

 この周辺にその刀鍛冶がいた痕跡の資料があるのである。

 斐川町神庭のうちで、西谷の東側に宇屋谷がある。

 この里について出雲国風土記出雲郡建部郷に次のようにある。

  先に宇夜の里と号(なず)けし所以(ゆえん)は、

  宇夜都弁命、其の山の峯に天降りましき。

  即ち、彼(そ)の神の社、今に至るまで猶此處に坐す。

  故、宇夜の里といひき。

  この宇夜の里が宇屋谷に相当する。

 そして「彼の神の社」とは、

 同風土記に「神代社」、延喜式神名帳に「神代神社」と載る。

 現在も宇屋谷に鎮座する同名社である。

 「宇夜都弁命」名は同風土記にはここだけで、

 他の史料にも一切みられない孤立した神名である。

 だが、これらの名称は古代の宗教的環境を知る上に

 極めて貴重な資料を提供している。

 そればかりか、この神社の重要さを再確認させる事件が

 荒神谷遺跡の発見であると考える。

 そして同社は諏訪大社(建御名方神)にとっても、

 貴重であることが以後の考察で明らかとなる。

  「字夜」に作るものもあるが、やはり「宇夜」が妥当である。

 同じ島根県江津市の日本海岸沿いに敬川(うやかわ)町があり、

 敬川が流れている。

 敬川は宇夜弁命が足を洗ったのでその名が付けられたという。

 「ウヤ」を「うやまう」の「敬」と使っている。

 「敬」はまた「礼」で「イヤ」の音訓も導き出される。

 しかし、これらはその祖語ではない。

 その祖語はやはりサンスクリット語の uyo-kāra と結句される

 uyo- で、その原語は uāgu で、「風」あるいは「息吹き」を意味し、

 uyo-kāra は「風(息吹き)‐職人」で、「鍛冶屋」を表わしている。

 つまりウヤ uyo- は鞴(ふいご)を表わす。

 Uāgu はドイツ語の wehen (風が吹く)、

 英語の wind (風)と同根の用語である。

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《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
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2015年6月5日金曜日

銅剣と荒神谷遺跡④

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:891~895頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 銅剣と荒神谷遺跡④

  天穂日命の葦原中国への派遣について、

 『古事記』は

  「思金神及び八百萬の神、議(はか)り白ししく、

  『天菩比神、是れ遣はすべし』とまをしき。

  故天菩比神遣はしつれば、及ち大国主神に媚び附きて、

  三年に至るまで復奏さざりき。」と記す。

 つまり「媚び附いて」、『日本書紀』では「倍婚」というが、

 大国主神に服従してしまい、

 遣使の役目を果たさなかったというのである。

 しかし、素盞鳴尊のの神話上の行状からすれば、

 大国主神の国を制圧して

 自分達が支配者になったまま

 葦原中国(出雲)を天孫に献上しようとしなかったというのが

 本当のところであろう。

 大国主神を奉ずる先住の人々、第12章の「出雲族」で

 述べた意宇(多)氏、つまりヤーダヴァ(ドヴァラカ)族の

 鍛冶集団を征圧したのは建御雷神などではなく、

 天穂日命氏族であったとの理解が生れてくるのである。

 『記・紀』は大国主命の国譲り後に

 新しい統治者を送るのではなく、

 天穂日命にその祭政を任せている。

 ただし、その後裔は崇神天皇の時代の出雲振根の事件を初め、

 繰り返し時の政朝からその服従に疑いを持たれ、

 出雲国造神賀詞にみられるように代が替わるごとに

 服従の誓約を述べなければならないは後になっている。

 不思議なことに天孫族の支配に最も反抗したと語られた

 建御名方神の留まる諏訪の勢力に対しては服従の誓約や

 建御雷神に述べた条件が守られているかなどの尋問は

 その神話上も史料上の記録にも全く見当たらない。

 『古事記』の物語がいかに虚構であるかが解かってくる。

 つまり、天孫族の出雲支配に抵抗したのは天穂日命氏族であり、

 大国主命あるいは建御名方神ではなかったのである。

 延喜式神名帳 因幡国高草郡に

 「天穂日命神社」「天日名鳥命神社」と共に

 「阿太賀都健御熊命神社」が記載されている。

 天日名鳥命は天夷鳥命などとも表記され、

 天穂日命の御子神である。

 健御熊は『日本書紀』に

 「大背飯三熊之大人、別名武三熊之大人」とあり、

 天夷鳥命の別称とされる。

 その神名を修飾する「阿太賀都」はサンスクリット語で理解すると

 adhi-gata でその意味は「得る、獲る、横取」である。

 3年間復命しなかった父の後を追って、

 『日本書紀』は武三熊之大人が派遣されたが父に従って

 復命しなかったと述べている。

  『三国史記』の「新羅本紀第二」の十四代儒礼尼師今の

 十四年に以下のような奇妙な話が記述されている。

 東洋文庫から転載する。

  伊西国(慶北清道郡)が侵略して来て金城を攻めた。

  わが国は〔国民を〕総動員して防いだが、

  撃退することができなかった。

  突然異様な姿の兵隊がやって来た。

  その数は数え切れないほどで、

  彼等は皆竹葉を首飾りにしており、

  わが軍とと共に賊軍を攻撃し、これを討ち破った。
  
  その後、彼等の行先がわからなかった。

  〔ただ、〕人々は竹葉数万枚が

  竹長陵に積み上げてあるのを見て、

  〔これが彼等の耳飾りの竹葉でないかと〕疑った。

  このことによって、

  人々は先王が陰兵をもってこの戦いに援助したのだと思った。

 ここに登場する竹葉は三又戈と同じと考えられ、

 矢ないも矛、剣とみられる。

 天鈿女命が天石屋戸の前で手に持って踊った「小竹葉」である。

 『日本書紀』で素盞鳴尊が韓郷に行ったが、

 そこに留まらず」に舟でこの国へやって来たと

 語られているところをみると、

 この「異様な姿の兵隊」とは素盞鳴尊を奉祭する集団と考えられる。

 竹葉が積み上げられたとは、

 剣などを積み上げたと考える。

 それはまさに「矛を納める」(戦闘を終わらせる)意味である。

 荒神谷遺跡の銅剣がよそから持ち込まれたとするならば、

 それは征圧をし終わった集団の戦勝を祝う祭事と

 考えることができる。

 祭祀用剣であるから刃こぼれなどが無くて当然だろう。

 斐川町の東隣りの宍道町の西端、斐川町境に佐々布地区がある。

 これは「ササハ・竹葉」の字義である。

 その直ぐ東の白石に才という字名がり、

 佐為神社が鎮座する。

 竹葉は「佐為」で「剣」である。

 358本の銅剣が外部からのものとするならば、

 それは出雲国造氏族の所行と考える。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
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2015年6月3日水曜日

銅剣と荒神谷遺跡③

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 牛角と祝祭・その民族系譜:889~891頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 銅剣と荒神谷遺跡③

  ここでは銅剣が外から持ち込まれた可能性を考察するために

 素盞鳴尊の奉祭氏族につおて追求してみたい。

 その氏族集団とは天穂日命の勢力であり、

 その後裔である出雲国造の諸族である。

 ここでは詳しく述べないけれど、

 杵築大社(出雲大社)の主神は大己貴命であるが、

 大己貴命(大国主神)は出雲国造氏族の氏族神ではない。

 その経緯は『記・紀』に明らかである。

 同氏族の氏族神は素盞鳴尊である。

 杵築大社の本殿瑞籬外の真後ろに素鵞社を配置させている。

 拝殿で遥拝する者は、主祭神を拝すると共に、

 素盞鳴尊の別称である素鵞社を遥拝するという

 仕組みになっているのである。

 素鵞あるいは須賀は出雲国風土記に

 「清けし」との伝承によると述べられているが、

 本来は「穂日」を「スイガ」から「スガ」と

 読んだことによると考えられる。

 出雲国造と同じく天穂日命を祖とする武蔵国造の奉祭する

 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町の氷川神社の祭神は須佐之男命、

 稲田姫命、大己貴命で、須佐之男命が筆頭である。

 埼玉県に広がる氷川神社の属社における祭神は須佐之男命で、

 大己貴命まで祀るところはほとんどない。

 さいたま市大宮区の氷川神社を奉祭する神職は角井氏といい、

 古代から連綿として同社の祭祀に当たってきた。

 そして杵築大社の神職は千家氏であるが、

 この「センゲ」名はサンスクリット語の śṝnga の転写で、

 つまり「角」を意味するのである。

 島根県益田市に須子町があるが、これは素鵞あるいは須賀であり、

 その町内に角井(古くは角井郷)がある。

 素盞鳴尊と「角」は離せない関係にある。

 千家氏(出雲国造にして杵築大社の神職)と

 角井氏(武蔵国造の族にして氷川神社の神職)は

 穂日命を祖とする同族であることがこの「角」の解釈で

 よく知ることができる。

 その「角」とは「牛頭」である。

 素盞鳴尊の別称は「牛頭(ごず)天王」である。

 京都市東山区祇園町の八坂神社は素盞鳴尊、櫛稲田媛命を祀り、

 「牛頭天王」でよく知られる。

 同社は京都府綴喜郡田辺町天王高ヶ峰の朱智神社の

 建速須佐之男神を勧請したものと知られる。

 同社の主祭神は迦屚米雷命で、

 この命は息長氏に連なることから

 息長氏の祖神を祀る神社と考えられており、

 「牛頭天王」は崇神天皇以降に興った信仰であろう。

 既にみて来たように牛頭信仰は世界の宗教的流れの中で

 中心的基盤であり、何層にもなって別の種族、

 時代を重ねて注目されてきた。

 天穂日命の後裔である出雲国造一族もその神職の名称から

 牛頭信仰を持っていたことに間違いない。

 ただし、それは「天王」ではなかった筈であるばかりでか、

 出雲においての牛頭信仰の祖でもなかった。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
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2015年5月31日日曜日

銅剣と荒神谷遺跡②

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 牛角と祝祭・その民族系譜:886~889頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 銅剣と荒神谷遺跡②

  この遺跡名を「荒神谷」としたのは、

 埋蔵の近くに三本の松木があり、

 同木を神体とする三宝荒神が地元の人々によって

 祀られていたことにようという。

 「三宝荒神」信仰は仏教が普及して以後の信仰名である。

 「三宝」については「三本の松木」に表わされた

 後出の「三方」ともとれるし、

 「銅剣、銅鐸、銅矛」の三つが底にあるのかもしれない。

 「荒神」についても、出雲の神社の鎮座状況からみると

 素盞鳴尊に別称と判断されるが、

 ここではサンスクリット語の「青銅」を意味する āra-kūta に

 依拠していると考えられるが、

 今のところ何れも確証がない。


 「荒神」を素盞鳴尊と前提する場合には、

 これらの銅剣は出雲以外から持ち込まれた可能性が高くなる。

 その他の場合には出雲郡(斐川町)内における製作の可能性が

 高いと考える。

  素盞鳴尊は、『記・紀』神話においては
 
 天照大神と師弟の関係にあり、

 国土建設の役割を果たした祖神の一に並んでいる。

 だが、出雲にとっては外来の神である。

 『日本書紀』巻第一に「素盞鳴尊の行状は乱暴を極めた」

 とある。

 この乱暴こそ「荒(すさ)む」で「スサ」、

 『古事記』では「須佐」『日本書紀』で「素盞」の神名に

 依拠するところである。

 つまり「荒神」である。

 『日本書紀』は同神が「韓郷(からくに)の島」に行ったが、

 そこに留まらず、舟に乗ってこの国へやって来たと語る。

 その荒む様子は高天原で

 天照大神を困らせる物語として描かれている。

 天鈿女命が活躍する天岩屋戸の場面は、

 その乱暴に困り果てた天照大神が隠れてしまったために

 催された事件であった。

 高天原を追放された素盞鳴尊は寄稲田姫を助けて

 大蛇を退治することになるが、

 その大蛇の尾からは『古事記』の草那芸の太刀、

 『日本書紀』の一書の天叢雲剣を取り上げた。

 この物語は、外から出雲にやって来た同神を奉祭する勢力が、

 蛇神を信仰し、優れた剣を造作できる先住の勢力を征圧して

 彼等の剣を取り上げたという内容となる。

 第12章で島根県東部の意宇郡名は八雲村に蛇山があるように

 サンスクリット語の ahi の転写であることを指摘し、

 同村の日吉に剣神社が鎮座することから

 出雲で作られていたとも述べた。

 このように銅剣の出雲内製作の史料は前記ばかりでなく、

 さらに、後述するようにかなりある。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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2015年5月24日日曜日

銅剣と荒神谷遺跡①

 『浦和レッズレディース』
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 牛角と祝祭・その民族系譜:883~886頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 銅剣と荒神谷遺跡①

  建御名方神の父神は『古事記』の挿話によると八千矛神である。

 八千矛神とは剣神であるから、その御子建御名方神も剣神であると

 考えるのは自然である。

 出雲風土記の出雲郡美談(みたみ)郷の条に

 「天の下造らしし大神の御子、和加布都怒志命」、

 秋鹿郡大野郷にも同名の命名が記載されているが、

 この和加布都怒志命は同風土記に登場する

 大国主神の御子のうち唯一剣に係わる尊名で、

 これは建御名方神の別称と推察される。

 美談郷は現在の平田市美談町で同市の南端出雲市との市境で

 斐伊川を挟んで斐川町に接する。

 同町にある縣(あがた)神社境内に和加布都怒志神社は鎮座しているが、

 かっては斐川町今在家の国長(川の対岸の地名)に

 あったと伝えられている。 

 延喜式神名帳出雲郡に「縣神社、同社和加布都怒志神社」とある。

 その川沿いの南側鳥井には風土記に「鳥屋社」及び延喜式神名帳に

 「鳥屋神社」と載る建御名方神を祀る神社がある。

 斐川町内にはJRの荏原駅の南西の額頭内とその西方の神庭に

 諏訪神社が鎮座するが、この二社は承久の乱(1221年)後、

 信州から守護として赴いた桑原氏が勧請したものとみられるが、

 その北側の恵原町内に鎮座する「佐支多神社」にも

 建御名方神は祀られている。

 同社は風土記で「佐支多神社」と載る古社である。

 この「サキタ」はサンスクリット語 śakti を祖語として

 「剣」を表わす用語である。

 第11章の「埼玉・鹿島:剣持神の国」で「前玉神社」の「サキタマ」を

 śakti-mat(剣持)と紹介した同語である。

 同社の鎮座する字名を「前原」といい、「前」は śak- に対応する。

 「前」は埼玉県の「埼(さい)」と転訛したように

 「西(さい)」となっている。

 つまり「西谷(さいだに)」の「西」は śakti にあるということになる。

  西谷には大量の銅剣が発掘された荒神谷遺跡がある。

 「サイダニ」は江戸時代に「才谷輪」と表記されたこともあり、

 単なる西(にし)の谷の意味ではなく他の由来を含んでいる。

 その理由が「剣」で西谷は「剣谷」である。

 ただし、ここに銅剣を埋蔵したから「剣谷」になったのか、

 他に理由があるのか答は簡単ではない。

  荒神谷遺跡には斐川町神庭西谷である。

 1984年の発掘調査かで58本の銅剣が谷奥の傾斜地に刃を上に

 向けられて埋蔵されていた。

 それまでは日本全国で発見されていた銅剣数が

 300本程度であったので、その数の多さが驚きであった。

 翌年の1985年の調査で、その地点から僅か7メートル離れた

 同じ斜面から銅鐸6個と銅矛16本が出土し、

 さらに驚きを拡大させた。

 銅剣は全て中細形で弥生次代中期後半代に

 製作されたものと考えられている。

 しかし、これが重要な点であるが、

 どこで製作されたか、またいつ埋納されたかについては

 まだ確定的な判断が専門家によっても出されていない。

 製作地や製作者については、その原料の研究が大事である。

 銅の産地は島根県内もある。

 斐川町の近くでは平田市の唐川川を遡った鍔渕、

 八束郡東出雲町の内馬にある宝満山付近、

 この山は八雲村との境界にあり、

 同村の岩坂秋家にある田村神社名の「タムラ」は

 サンスクリット語の銅を意味する tāmara に依るものだろうと

 第12章の「大穴持命と出雲」で述べた。

 また美保関町森山伊屋谷、石見銀山のある太田市大森町からも

 銅は産出された。

 これらの産地の銅か錫など周辺流域のものが銅剣などと

 同一であれば製作地は出雲に絞られることとなる。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年5月22日金曜日

『古事記』の御名方神

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ(History)
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:880~883頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 『古事記』の御名方神

  建御名方神が史料に登場する『古事記』を第一とする。

 そこでは同神は大国主神の御子として物語られる。

 その部分を日本古典文学大系から転載する。

  (大国主神が)是(ここ)に亦白しけらく、

 「亦我が子、建御名方神有り、此れを除きて無し。とまをしき。

  如此白す間に、其の建御名方神、千引(ちびき)の石(いわ)を

  手末(たなすゑ)に擎(ささ)げて来て、

 「誰ぞ我が国に来て、忍び忍びに如此物言ふ。
 
  然らば力競べ為(せ)む。

  故、我先に其の御手を取らむ。」と言ひき。

 故、其の御手を取らしむれば、

 即ち立氷(たちひ)に取り成し、

 亦剣刃(つるぎば)に取り成しつ。

 故爾に懼(おそ)りて退(しぞ)き居(を)りき。

 爾に其の建御名方神の手を取らむと

 乞ひ帰して取りたまへば、若葦を取るが如(ごと)、

 つかみ批(ひし)ぎて投げ離ちたまへば、

 即ち逃げ去(い)にき。故、追ひ往きて、

 科野(しなのの)国の州羽(すは)の海に迫め到りて、

 殺さむとしたまひし時、建御名方神白しけらく、

 「恐(かしこ)し。

  我(あ)をな殺したまひそ。

  此の地(ところ)を除(お)きては、

  他処(あだしところ)に行かじ。

  亦我が父、大国主神の命(みこと)に違(たが)はじ。

  八重事代主神の言(こと)に違はじ。

  此の葦原中国は天つ神の御子の命の

  隨(まにま)に献(たてまつ)らむ。」とまをしき。

  この神話のために山陰地方から東北地方の日本海側の

 神社の信仰と歴史を覆い隠したり、

 故意に曲げたりして解からなくした面がある。

 以下の考察はそのような隠された部分を明らかにする。

 ここで、建御名方神は大国主神の御子として物語られる。

 しかし、

 『古事記』はその誕生について直接的には何も説明していない。

 上記の挿話は突如として語られている感じがある。

 大国主神のもう一人の御子とされる

 事代主神については別のところで、

 母の名を神屋盾比売命と記している。

 「先代旧事本紀」の地神本紀に

 「次に高志沼河姫を娶りて一男を生む。

  児建御名方神、信濃国諏方郡諏方神社に坐す」とあり、

 その母が高志の沼河姫であることが示唆される。

 古事記では大国主神の別称である八千矛神と

 「高志国の沼河比売」との妻婚いの歌と、

 その嫡后須勢理比売の嫉妬の歌謡が長く記載されている。

 ここで重要なのは、その父名が「八千矛神」であることである。

 実際同神名を主祭神とする八剣神社(諏訪市小和田宿)が

 諏訪大社上社本宮の地に鎮座している。

 高志沼河姫神は、新潟県西頚城郡内であった

 糸魚川市一之宮に奴奈川神社が鎮座するように

 姫川に産するヒスイ(硬玉)を採っていた

 この地方の支配的氏族の姫と考えられているが、

 諏訪地方では茅野市本町鬼場の御産石神社に祀られている。

 「諏訪神社明細帳」は同神が

 高志国から鹿に乗って大門峠を越えて来たと語っている。

 八剣神社は諏訪湖が冬に結氷し、前面に張りめぐらされると、

 その水圧で氷が盛上るように裂け氷脈ができる「御神渡り」を

 神の表徴として拝観する神事を掌っている神社として知られる。

 先に転載した建御名方神と御雷神の決闘(力競べ)の場面で

 後者が手を掴むとその手が「即ち立氷に取り成し」とあるのは

 『古事記』の著者がこの「御神渡り」を

 知っていたからではないかと推測させる。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
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