2015年6月3日水曜日

銅剣と荒神谷遺跡③

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 《参考:年表・資料》
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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:889~891頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 銅剣と荒神谷遺跡③

  ここでは銅剣が外から持ち込まれた可能性を考察するために

 素盞鳴尊の奉祭氏族につおて追求してみたい。

 その氏族集団とは天穂日命の勢力であり、

 その後裔である出雲国造の諸族である。

 ここでは詳しく述べないけれど、

 杵築大社(出雲大社)の主神は大己貴命であるが、

 大己貴命(大国主神)は出雲国造氏族の氏族神ではない。

 その経緯は『記・紀』に明らかである。

 同氏族の氏族神は素盞鳴尊である。

 杵築大社の本殿瑞籬外の真後ろに素鵞社を配置させている。

 拝殿で遥拝する者は、主祭神を拝すると共に、

 素盞鳴尊の別称である素鵞社を遥拝するという

 仕組みになっているのである。

 素鵞あるいは須賀は出雲国風土記に

 「清けし」との伝承によると述べられているが、

 本来は「穂日」を「スイガ」から「スガ」と

 読んだことによると考えられる。

 出雲国造と同じく天穂日命を祖とする武蔵国造の奉祭する

 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町の氷川神社の祭神は須佐之男命、

 稲田姫命、大己貴命で、須佐之男命が筆頭である。

 埼玉県に広がる氷川神社の属社における祭神は須佐之男命で、

 大己貴命まで祀るところはほとんどない。

 さいたま市大宮区の氷川神社を奉祭する神職は角井氏といい、

 古代から連綿として同社の祭祀に当たってきた。

 そして杵築大社の神職は千家氏であるが、

 この「センゲ」名はサンスクリット語の śṝnga の転写で、

 つまり「角」を意味するのである。

 島根県益田市に須子町があるが、これは素鵞あるいは須賀であり、

 その町内に角井(古くは角井郷)がある。

 素盞鳴尊と「角」は離せない関係にある。

 千家氏(出雲国造にして杵築大社の神職)と

 角井氏(武蔵国造の族にして氷川神社の神職)は

 穂日命を祖とする同族であることがこの「角」の解釈で

 よく知ることができる。

 その「角」とは「牛頭」である。

 素盞鳴尊の別称は「牛頭(ごず)天王」である。

 京都市東山区祇園町の八坂神社は素盞鳴尊、櫛稲田媛命を祀り、

 「牛頭天王」でよく知られる。

 同社は京都府綴喜郡田辺町天王高ヶ峰の朱智神社の

 建速須佐之男神を勧請したものと知られる。

 同社の主祭神は迦屚米雷命で、

 この命は息長氏に連なることから

 息長氏の祖神を祀る神社と考えられており、

 「牛頭天王」は崇神天皇以降に興った信仰であろう。

 既にみて来たように牛頭信仰は世界の宗教的流れの中で

 中心的基盤であり、何層にもなって別の種族、

 時代を重ねて注目されてきた。

 天穂日命の後裔である出雲国造一族もその神職の名称から

 牛頭信仰を持っていたことに間違いない。

 ただし、それは「天王」ではなかった筈であるばかりでか、

 出雲においての牛頭信仰の祖でもなかった。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ


2015年5月31日日曜日

銅剣と荒神谷遺跡②

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:886~889頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 銅剣と荒神谷遺跡②

  この遺跡名を「荒神谷」としたのは、

 埋蔵の近くに三本の松木があり、

 同木を神体とする三宝荒神が地元の人々によって

 祀られていたことにようという。

 「三宝荒神」信仰は仏教が普及して以後の信仰名である。

 「三宝」については「三本の松木」に表わされた

 後出の「三方」ともとれるし、

 「銅剣、銅鐸、銅矛」の三つが底にあるのかもしれない。

 「荒神」についても、出雲の神社の鎮座状況からみると

 素盞鳴尊に別称と判断されるが、

 ここではサンスクリット語の「青銅」を意味する āra-kūta に

 依拠していると考えられるが、

 今のところ何れも確証がない。


 「荒神」を素盞鳴尊と前提する場合には、

 これらの銅剣は出雲以外から持ち込まれた可能性が高くなる。

 その他の場合には出雲郡(斐川町)内における製作の可能性が

 高いと考える。

  素盞鳴尊は、『記・紀』神話においては
 
 天照大神と師弟の関係にあり、

 国土建設の役割を果たした祖神の一に並んでいる。

 だが、出雲にとっては外来の神である。

 『日本書紀』巻第一に「素盞鳴尊の行状は乱暴を極めた」

 とある。

 この乱暴こそ「荒(すさ)む」で「スサ」、

 『古事記』では「須佐」『日本書紀』で「素盞」の神名に

 依拠するところである。

 つまり「荒神」である。

 『日本書紀』は同神が「韓郷(からくに)の島」に行ったが、

 そこに留まらず、舟に乗ってこの国へやって来たと語る。

 その荒む様子は高天原で

 天照大神を困らせる物語として描かれている。

 天鈿女命が活躍する天岩屋戸の場面は、

 その乱暴に困り果てた天照大神が隠れてしまったために

 催された事件であった。

 高天原を追放された素盞鳴尊は寄稲田姫を助けて

 大蛇を退治することになるが、

 その大蛇の尾からは『古事記』の草那芸の太刀、

 『日本書紀』の一書の天叢雲剣を取り上げた。

 この物語は、外から出雲にやって来た同神を奉祭する勢力が、

 蛇神を信仰し、優れた剣を造作できる先住の勢力を征圧して

 彼等の剣を取り上げたという内容となる。

 第12章で島根県東部の意宇郡名は八雲村に蛇山があるように

 サンスクリット語の ahi の転写であることを指摘し、

 同村の日吉に剣神社が鎮座することから

 出雲で作られていたとも述べた。

 このように銅剣の出雲内製作の史料は前記ばかりでなく、

 さらに、後述するようにかなりある。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

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、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2015年5月24日日曜日

銅剣と荒神谷遺跡①

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 《参考:年表・資料》
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年


 牛角と祝祭・その民族系譜:883~886頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 銅剣と荒神谷遺跡①

  建御名方神の父神は『古事記』の挿話によると八千矛神である。

 八千矛神とは剣神であるから、その御子建御名方神も剣神であると

 考えるのは自然である。

 出雲風土記の出雲郡美談(みたみ)郷の条に

 「天の下造らしし大神の御子、和加布都怒志命」、

 秋鹿郡大野郷にも同名の命名が記載されているが、

 この和加布都怒志命は同風土記に登場する

 大国主神の御子のうち唯一剣に係わる尊名で、

 これは建御名方神の別称と推察される。

 美談郷は現在の平田市美談町で同市の南端出雲市との市境で

 斐伊川を挟んで斐川町に接する。

 同町にある縣(あがた)神社境内に和加布都怒志神社は鎮座しているが、

 かっては斐川町今在家の国長(川の対岸の地名)に

 あったと伝えられている。 

 延喜式神名帳出雲郡に「縣神社、同社和加布都怒志神社」とある。

 その川沿いの南側鳥井には風土記に「鳥屋社」及び延喜式神名帳に

 「鳥屋神社」と載る建御名方神を祀る神社がある。

 斐川町内にはJRの荏原駅の南西の額頭内とその西方の神庭に

 諏訪神社が鎮座するが、この二社は承久の乱(1221年)後、

 信州から守護として赴いた桑原氏が勧請したものとみられるが、

 その北側の恵原町内に鎮座する「佐支多神社」にも

 建御名方神は祀られている。

 同社は風土記で「佐支多神社」と載る古社である。

 この「サキタ」はサンスクリット語 śakti を祖語として

 「剣」を表わす用語である。

 第11章の「埼玉・鹿島:剣持神の国」で「前玉神社」の「サキタマ」を

 śakti-mat(剣持)と紹介した同語である。

 同社の鎮座する字名を「前原」といい、「前」は śak- に対応する。

 「前」は埼玉県の「埼(さい)」と転訛したように

 「西(さい)」となっている。

 つまり「西谷(さいだに)」の「西」は śakti にあるということになる。

  西谷には大量の銅剣が発掘された荒神谷遺跡がある。

 「サイダニ」は江戸時代に「才谷輪」と表記されたこともあり、

 単なる西(にし)の谷の意味ではなく他の由来を含んでいる。

 その理由が「剣」で西谷は「剣谷」である。

 ただし、ここに銅剣を埋蔵したから「剣谷」になったのか、

 他に理由があるのか答は簡単ではない。

  荒神谷遺跡には斐川町神庭西谷である。

 1984年の発掘調査かで58本の銅剣が谷奥の傾斜地に刃を上に

 向けられて埋蔵されていた。

 それまでは日本全国で発見されていた銅剣数が

 300本程度であったので、その数の多さが驚きであった。

 翌年の1985年の調査で、その地点から僅か7メートル離れた

 同じ斜面から銅鐸6個と銅矛16本が出土し、

 さらに驚きを拡大させた。

 銅剣は全て中細形で弥生次代中期後半代に

 製作されたものと考えられている。

 しかし、これが重要な点であるが、

 どこで製作されたか、またいつ埋納されたかについては

 まだ確定的な判断が専門家によっても出されていない。

 製作地や製作者については、その原料の研究が大事である。

 銅の産地は島根県内もある。

 斐川町の近くでは平田市の唐川川を遡った鍔渕、

 八束郡東出雲町の内馬にある宝満山付近、

 この山は八雲村との境界にあり、

 同村の岩坂秋家にある田村神社名の「タムラ」は

 サンスクリット語の銅を意味する tāmara に依るものだろうと

 第12章の「大穴持命と出雲」で述べた。

 また美保関町森山伊屋谷、石見銀山のある太田市大森町からも

 銅は産出された。

 これらの産地の銅か錫など周辺流域のものが銅剣などと

 同一であれば製作地は出雲に絞られることとなる。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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2015年5月22日金曜日

『古事記』の御名方神

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 《参考:年表・資料》
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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:880~883頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 『古事記』の御名方神

  建御名方神が史料に登場する『古事記』を第一とする。

 そこでは同神は大国主神の御子として物語られる。

 その部分を日本古典文学大系から転載する。

  (大国主神が)是(ここ)に亦白しけらく、

 「亦我が子、建御名方神有り、此れを除きて無し。とまをしき。

  如此白す間に、其の建御名方神、千引(ちびき)の石(いわ)を

  手末(たなすゑ)に擎(ささ)げて来て、

 「誰ぞ我が国に来て、忍び忍びに如此物言ふ。
 
  然らば力競べ為(せ)む。

  故、我先に其の御手を取らむ。」と言ひき。

 故、其の御手を取らしむれば、

 即ち立氷(たちひ)に取り成し、

 亦剣刃(つるぎば)に取り成しつ。

 故爾に懼(おそ)りて退(しぞ)き居(を)りき。

 爾に其の建御名方神の手を取らむと

 乞ひ帰して取りたまへば、若葦を取るが如(ごと)、

 つかみ批(ひし)ぎて投げ離ちたまへば、

 即ち逃げ去(い)にき。故、追ひ往きて、

 科野(しなのの)国の州羽(すは)の海に迫め到りて、

 殺さむとしたまひし時、建御名方神白しけらく、

 「恐(かしこ)し。

  我(あ)をな殺したまひそ。

  此の地(ところ)を除(お)きては、

  他処(あだしところ)に行かじ。

  亦我が父、大国主神の命(みこと)に違(たが)はじ。

  八重事代主神の言(こと)に違はじ。

  此の葦原中国は天つ神の御子の命の

  隨(まにま)に献(たてまつ)らむ。」とまをしき。

  この神話のために山陰地方から東北地方の日本海側の

 神社の信仰と歴史を覆い隠したり、

 故意に曲げたりして解からなくした面がある。

 以下の考察はそのような隠された部分を明らかにする。

 ここで、建御名方神は大国主神の御子として物語られる。

 しかし、

 『古事記』はその誕生について直接的には何も説明していない。

 上記の挿話は突如として語られている感じがある。

 大国主神のもう一人の御子とされる

 事代主神については別のところで、

 母の名を神屋盾比売命と記している。

 「先代旧事本紀」の地神本紀に

 「次に高志沼河姫を娶りて一男を生む。

  児建御名方神、信濃国諏方郡諏方神社に坐す」とあり、

 その母が高志の沼河姫であることが示唆される。

 古事記では大国主神の別称である八千矛神と

 「高志国の沼河比売」との妻婚いの歌と、

 その嫡后須勢理比売の嫉妬の歌謡が長く記載されている。

 ここで重要なのは、その父名が「八千矛神」であることである。

 実際同神名を主祭神とする八剣神社(諏訪市小和田宿)が

 諏訪大社上社本宮の地に鎮座している。

 高志沼河姫神は、新潟県西頚城郡内であった

 糸魚川市一之宮に奴奈川神社が鎮座するように

 姫川に産するヒスイ(硬玉)を採っていた

 この地方の支配的氏族の姫と考えられているが、

 諏訪地方では茅野市本町鬼場の御産石神社に祀られている。

 「諏訪神社明細帳」は同神が

 高志国から鹿に乗って大門峠を越えて来たと語っている。

 八剣神社は諏訪湖が冬に結氷し、前面に張りめぐらされると、

 その水圧で氷が盛上るように裂け氷脈ができる「御神渡り」を

 神の表徴として拝観する神事を掌っている神社として知られる。

 先に転載した建御名方神と御雷神の決闘(力競べ)の場面で

 後者が手を掴むとその手が「即ち立氷に取り成し」とあるのは

 『古事記』の著者がこの「御神渡り」を

 知っていたからではないかと推測させる。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

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2015年4月10日金曜日

諏訪大社の「御頭」②

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:877~879頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 諏訪大社の「御頭」②

 諏訪神社の神職は「風の祝」と宣伝されたように祝の官として

 よく知られた。

 「ハフリ」ないし「ホフリ」は

 メソポタミアを起源とする祭官であった。

 その旧石器時代のムレイビト遺跡や新石器時代のケルメで、

 デレ遺跡、ネムリク遺跡に牛頭(牡牛の角)を掲げた

 痕跡が残っており、アナトリアのチャタル・フユク遺跡からは

 大量の牛頭の像型が発見された。

 それらを基盤として牛頭(牛角)が

 シュメルなどのメソポタミアのペルシャ湾岸に近い文明

 (エリドゥなど)に影響を与えたばかりでなく、

 ヨーロッパへも波及し、クレタ、ケルト、ゲルマンの祖語

 (シュメル語で galam-am:野牡牛の階段<角>)であるとの

 考察を本書は展開した。

 「ハフリ」はメソポタミアから東方へも伝授され、

 インドのバラモン教の祝祭に重要な役割を負ってり、

 ヴァーダ(教典)の初期の支配的最高神インドラ神は「牡牛」である。

 そして日本においても、

 古代に牛祝祭が盛んに行われていた事実あり、

 保食神や登由宇気神の「ウケ」はサンスクリット語の転訛による

 牡牛がその語源で

 「神饌」にその意味が転換されていることを紹介した。

  奈良時代末から平安時代のかけ牛馬を屠殺する祝祭は

 時の政府により禁止された様子も紹介したが、

 諏訪大社は牛を鹿に換えてその祝祭(御射山祭)の

 伝統を守っていたのである。

 洩矢神を祖神として奉祭する守矢氏の家紋は

 「丸に十字㊉」でシュメルでは羊にその初源を持つが
 
 「牧者」を意味する象形で文字で、楔形文字としても使われ、

 メソポタミアからの伝統を継承したものと考えられる。

 同社には後に述べるように「ミナ」に絡む

 メソポタミアの影がある。
 
 洩矢神の表徴であるミシャクジ神は、御社宮司などと表記されるが、

 その祖語はサンスクリット語のシャクティ śakti で

 シヴァ神の女性的側面を表わす用語である。

 その表れが神妃デーヴィである。

 ミシャクジ神は立石と立木で祀られている事例が多いが、

 これは『古事記』に語られる大山津見神(シヴァ神)の姫神である

 磐之比売命と木花咲耶比売命との対に相応し、

 リンガ(陽石)とシャクティを表わしているのである。

 シャクティ神信仰は信濃まで伊勢など

 南方太平洋側から入って来たものである。

 社宮司などその信仰の分布が

 長野県南部から東海地方に集中していることがその理由となる。

 シヴァ神の美称の一つにパシュパティ paśupati があり、

 「家畜の主」の意味である。

 実際は人間を家畜とみて人を導く神の意義ではあるが、

 獣類の王としての象徴でもある。

 なぜならば、シヴァ神の祖像をインダス文明の印章にみられる

 牛頭の神に習合させた見方があるからで、

 シヴァ像とは牛角がその額に刻まれていることが多い。

 いずれにしても「牧者」である。

 シヴァ神はヴェーダ時代のインドラ神(牡牛)に

 遅れてヒンドゥ教の最高神の一に上がった支配的神であった。

 「モリヤ」は「森の獣」を表わし信濃の南から入ってきた。

 これに対し、

 諏訪大社の現在の主祭神建御名方神は信濃の北方かr

 入って来た神である。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

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2015年4月9日木曜日

諏訪大社の「御頭」①

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:875・876頁

 第14章 牛頭と鹿頭 

 諏訪大社の「御頭」①

  第12章では「三輪氏」をなぜ「神氏」と表記するのか

 触れなかったが、その理由が本章で明らかになる。

 また大国主命の別称にある八千矛神あるいは葦原志許男神に

 ついての解釈をここで行う。

 さらにメソポタミアを起源とする祭官「祝」と祝祭に欠かせない
 
 牡牛が鹿になっている。

 その経緯を推察し、諏訪神の性格と出雲との関係を明らかにする。

  諏訪大社上社の祭事のうち、最も重要な行事は

 例年4月15日に行われる御頭祭である。

 同祭は上社前宮の吹き通しの建物十間廊で開催されるが、

 その最大の特徴は鹿頭が神饌と共に供えられることである。

 江戸時代の紀行家菅江真澄の「すわのうみ」には、

 75の鹿頭がそこには供犠されていたと書かれている。

 それらを俎上に載せて供えるのが古式であったという。

 同社の祖神である漏矢神社第12でも触れたが「鹿」を表わす。

 サンスクリット語の mṛja がその祖語で、

 「森を歩き回る」を意味し、その同類語 mṛga は「森の獣」で

 特に「鹿」を表わす。

 長野県」の諏訪郡に接する伊那郡名は ena(enea) の音写で

 同じく「鹿」の意味である。

 日本武尊の東征の際、神奈川県の足柄辺りや信濃で白鹿を

 退治したとの物語が語られているが、

 これらは東国の古代にあった鹿に対する信仰者の集団の象徴で、

 洩矢神の影響があった人々と考えることができる。

  御頭祭には「諏訪大明神画詞」が

 「禽獣ノ高モリ魚類ノ調味、美ヲ尽ス」と述べて「おり、

 鹿頭のほか、江戸時代の史料によれば、

 猪頭のほか、鶴・雁の頭、鯉などの水産物が供えられたが、

 特に鹿肉も大量に供犠された。

 同社には「鹿食免」御幣や「鹿食箸」があり鹿との係わりが深い。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
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2015年4月5日日曜日

男王卑弥弓呼と孝霊天皇④

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 《参考:年表・資料》

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

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 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:872・873・874頁

 第十三章 「倭人伝」 
 
 男王卑弥弓呼と孝霊天皇④

  倭人伝には

 「倭の女王卑弥呼は

  もとから狗奴国の男王卑弥弓呼と不和であったので、

  倭の戴斯烏越らを遣わして〔帯方〕郡に行かせ、

  戦っている様子を報告した」とあり、

 卑弥呼と戦争状態のあったことを示す。

 『古事記』の孝霊天皇の条には

 「大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、

  二柱相副ひて針間の氷河の前に忌瓮を居えて、

  針間を道の口と爲て吉備を言向け和したまひき」

 とあるように配下を西方へ派遣し

 勢力を拡大している様子がみられ、

 これは卑弥呼との戦争を内容とする記録と考えられる。

 第12章「大国主神の奉祭氏族(1)磯城氏」でみた様に

 前者は「吉備上つ道臣の祖」で、

 後者は「吉備下つ道臣、笠臣の祖」となった。

 このほか日子寝間命が「針間の牛鹿臣の祖」、

 日子刺肩別命が

 「高志の利波臣、豊国の国前臣、五百原君、角鹿の海直の祖」とあり、

 豊国の国前臣と九州へもその勢力が及んだ様子を窺わせており、

 九州を勢力圏とする卑弥呼の邪馬臺国と対峙する状況が

 見え隠れする。
 
 大吉備津日子命の別称を

 比古伊勢理毘古命(『日本書紀』五十狭芹彦命)という。

 「伊佐」は isa で「支配者」、

 「勢理」は saila で、

 須勢理毘売命と同じく「繭」をいう。

 伊佐勢理 isa-saila は「繭の支配者」となる。

 第16章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰

      「絹と地名分布」で

 吉備を kṛni の指摘するが、事実吉備国が

 絹糸の産地であると共に鉄の生産地でもあり、

 「長船」のような刀鍛冶の地でもあった。

 大吉備津日子命の二つの名称はそれを表わしている。

 kvath, kṛni はその訓音が近似しており、

 双方が融合して「キビ」 となったと考えられる。

  孝霊天皇の御陵は「片岡の馬坂の上」とあり、

 現在の北葛城郡王子町本町にある。

 同天皇の活動の本拠が

 大和盆地の北西地域でにあったことを示す。

 卑弥弓呼、孝霊天皇の時代は倭人伝の記すとおり、

 5世紀中葉(正始8年、247年)であり、

 まだ大古墳が造られ以前である。

 第9代開化天皇の御陵まで各天皇の御陵に記されている墳丘は

 いずれも前方後円墳ではない。

 箸塚を卑弥呼の大塚とするのは不自然なことである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ