2013年9月3日火曜日

カルト(スバル)人の地中海進出(2)フィリステル-2


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:183頁

 第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(2)フィリステル-2

  また、サムエル書下の第八章には

 「エホヤダの子ベナヤはケレテびととぺレテびととの長、

  ダビデの子たちは祭司であった(一八)」

 との節句がる。

 この「ケレテびととぺレテびと」を

 ヘブライ語で Cherethites・Pelethites とも、

 ドイツ語聖書では Krethi・Prethi と表記されている。

 彼等はダビデ王の親衛隊を構成していた人々である。

 Prethi については

 ペリシテ人 Philister と解釈されている場合もあるが、

 同じ第八章一二に Philistines の表記があり、

 同義とすることは難しく、正確のところは不明である。

 ゼパニヤ書のいうようにフィリステルの紀元前十世紀
 
 ヘブライの王ダビデの時代に、

 ウガリットの祖先の王家名と同じケレト人が

 活動していたとの記録は重要である。

  また、カナン語で keret と発音された用語が

 ヨーロッパ語圏のドイツ語において

  Krethi と発音されたことも留意すべき事項である。



 ARPACHIYAH 1976

 『参考』
 
 Tell Arpachiyah (Iraq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

  シュメル語・日本語

 《Key Word》

 ダビデ王

カルト(スバル)人の地中海進出(2)フィリステル-1


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:182頁

 第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(2)フィリステル-1

  『旧約聖書』ゼパニヤ書第二章もケレテが登場する。


  ともあれ、ガザは捨てられ、

  アシュケロンは荒れはて、

  アンドドは真昼に追い払われ、

  エクロンは抜き去られる。

  わざわいなるかな、

  海べに住む者、ケレテの国民。

  ペリンテだとの地、カナンよ、

  主の言葉があなたがたに臨む。


  前後の地名から判断すると、

 聖書においてペリンテといわれるギリシャ名フィリステルは

 現在のパレスティナであるが、

 この海岸地帯に住む人々を「ケレテの国民」といっている。

 カナンは「ペリシテびとの土地」であり、

 「ペリシテびと」は「ケレテの国民」であるとの内容になる。



 ARPACHIYAH 1976

 『参考』
 
 Tell Arpachiyah (Iraq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

  シュメル語・日本語

 《Key Word》

 中東の民族の一覧

 『旧約聖書』ゼパニヤ書第二章

 カナン

 ケレテの国民

 ダビデ

カルト(スバル)人の地中海進出(1)ウガリット-2


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:181頁

 第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(1)ウガリット-2

  ウガリットの主要な商品は蜷貝から取られた染料と織物であった。

 そして、多分すぐ目の前の島

 キプロス島から木材(杉)を入手するために

 船の建造技術を発展させたと考えられるが、

 このキプロスからは銅が採られりょうになり、

 彼等の航海術はさらに重要となったと思われる。

 熟練された航海術が

 スバルの金属工匠商人たちを遠海へと送り出すこととなった。

 以来ペルシャ帝国がアレキサンダー大王によって滅亡させられるまで、

 その担い手が、

 紀元前十二世紀頃交代はしたものの長きに渡って

 ウガリットは地中海に「海の勇」として君臨していたのである。



 ARPACHIYAH 1976

 『参考』
 
 Tell Arpachiyah (Iraq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

  シュメル語・日本語

 《Key Word》

カルト(スバル)人の地中海進出(1)ウガリット-1


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:180頁

 第三章 カルト(スバル)人の地中海進出(1)ウガリット-1

  地中海東岸の商業港として有名な都市の最初の創設者たちについては

 詳しいことは解っておらず、

 カナン人であったとの曖昧な見解が出されているに過ぎない。
 
 しかし、

 有力な創設者としてケルト人がやってきたと推測できる史料がある。

 ラス・シャムラから出土した楔形文字の粘土板の中に

 叙事詩的に書かれた「ケレト伝説」と呼ばれるものである。

 ケレト keret は当然 khald の転訛であるが、

 ジョン・グレイによると

 ケレトは「ウガリットの支配的王家の遠い祖先」であったとし、

 ウガリットが「ケルト」の末裔であることを示唆する。

 伝説によるとこの王は最初「さまざまな理由により七人の妻を失う。」

 この意義は彼が祖地にいられなくなった理由となる。

 彼には後継者がなかったので新しい花嫁を求めた。
 
 彼は睡眠の中で神からのお告げを受け、

 その指示に従い

 軍隊のように彼の全家臣を従えて求婚の旅に出立する。

 七日間の旅の後、ある砦にたどり着き、花嫁を得て

 「七人の息子と八人の嫁」が生まれ、後継者を得たが、

 彼等がウガリットの人民として広まったのであろうと思われる。

 ここに繰り返される「七」の数字は

 星空「ひしゃく」の七星を思い出させる。

 伝説は、王が病気になり、宗教的物語へ展開するが、ここでは触れない。
 
 要点は「ケレト」が

 ウガリットの創世の段階で深くかかわっていたということである。



 ARPACHIYAH 1976

 『参考』
 
 Tell Arpachiyah (Iraq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

  シュメル語・日本語

 《Key Word》

 ケルト人

 ラス・シャムラ

 ケルト伝説

 ジョン・グレイ

2013年9月2日月曜日

カルト(スバル)人の地中海進出


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:179頁

 第三章 カルト(スバル)人の地中海進出

  錫を混ぜた青銅器の品質は柔らかく、造型する便利性は高く

 需要が高かったと判断される。

 その需要は金属工匠商人を西アジアにない錫鉱を求めて

 域外へ進出させる機会となったと考えられる。

 もちろん増大する需要に応ずるため銅鉱山を求めてもいただろう。

 彼等の活路は陸を、

 つまりアナトリアから黒海を越えてヨーロッパの内陸へ向かう経路と

 ウガリットを港として地中海を西へ向かって航海する

 方法があったと考えられる。

 アメリカ大陸の西部開拓の波と同じように

 「西方へ、西方へ」が合言葉であったかもしれない。

 このスバル人の大進出運動が地中海人種の形成となったのである。

 彼等の祖地は北メソポタミアにあったわけである。

 いうまでもなくスバル人の進出はカルト人の進出を意味する。

 ここからのカルト人の呼称を都合上ケルト人とする。



 ARPACHIYAH 1976

 『参考』
 
 Tell Arpachiyah (Iraq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

  シュメル語・日本語

 《Key Word》

 

2013年9月1日日曜日

スバル人の商業活動(4)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:178頁

 第三章 スバル人の商業活動(4)

  古アッシリアの初期三十代の王名はシュメル名でもなく、

 セム系でもないことが知られるが、

 これらの王名はスバル人のもので、
 
 彼等が軍事力によったのではない、

 それが神殿によって統率されていたにしても

 商人国家を形成していたのである。

 西アジアにおいて

 貴重な錫の商業権を独占していたことをうかがわせるのが

  annakam と呼ばれる前期アッシリア商人(といってもスバル人と思われる)が

 アッシュールからアナトリアのカネシュへ運んで行った金属名である。

 正確には何の金属であったか疑問もあるようだが、錫と考えられている。

 シュメル語の anna は錫と鉛少々の合金とされている。

  アッシリア商人が主に扱ったのは金属と

 ウガリットを窓口とする織物・染料であったが、

 スバル人が確立したネットワークは

 古アッシリアを重商主義国家として発展させていったのである。



 ARPACHIYAH 1976

 『参考』
 
 Tell Arpachiyah (Iraq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

  シュメル語・日本語

 《Key Word》

 アッシリア王名表

 アッシュール

 カネシュ

 古アッシリア

スバル人の商業活動(3)


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:177頁

 第三章 スバル人の商業活動(3)

  ザウィ・チェミ遺跡の位置する峡谷は

 英語名で Shanidar で世界に知られた呼称であるが、

 川名や国境を越えたトルコ領内に Samdr 山、町の名 Semdinli がある。

 その祖語はシュメル語の šam (屠殺する)の同類である。

 この šam には「突く、打つ」の意味もあり、

  samdr は「突く者、打つ者」の意味になり、「鍛冶工」の意味をも含む。

 ザウィ・チェミの羊飼いたちはアナトリアで粗銅を入手したが、

 その当時は鍛打法により銅を抽出したのである。

  samdr はサンスクリット語に入り samitr となったが、

 ドイツ語の Schamip 、

 英語の smith ともなり、

 「鍛冶工」がその意味するところである。

 この鍛打工たちが銅を鋳出する技術を発明すると、

 「溶解」することを

 ドイツ語で Schmelze 、  

 英語で smelt と šum の派生語が拡大した。

 なお、シュメル語には、

  šum の同義語 sim があり、 simug 「鍛冶工」となり、

 その同義語に de がある。

 金、銀、鉛 また後世の鉄鉱は

 アナトリアからザクロス山脈にかけての山岳地帯から入手できた。

 しかし、錫は西アジア地方からは掘り出されず、

 遠く現在のイランのカヴィール砂漠の東方から

 運んでこなければならなかったのである。

 そして、この錫を専有的に取り扱うネットワークを獲得したのが

 スバル人であったと考えられる。

 南メソポタミアの王権にとっては

 この商業権こそが我が物にいたい対象であったのである。



 ARPACHIYAH 1976

 『参考』
 
 Tell Arpachiyah (Iraq).

 まんどぅーかネット

 シュメル絵文字 

  シュメル語・日本語

 《Key Word》

 ザウィ・チェミ遺跡

 アッカドとエラム

 Shanidar洞窟

 カヴィール砂漠

 フルリ人

 ※フルリ人(英: Hurrian)は、古代オリエントで活動した人々。

  紀元前25世紀頃から記録に登場する。

  彼らは北メソポタミア、及びその東西の地域に居住していた。

  彼らの故郷は恐らくコーカサス山脈であり、

  北方から移住してきたと考えられるが、確かではない。

  現在知られている彼らの根拠地はスバル(Subar)の地であり、

  ハブール川流域や後には北メソポタミアと

  歴史的シリアのいたるところで小国を形成した。

  フルリ人達が建てた国の中で最も大きく、

  有力であったのはミタンニ王国であった。