ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2012年7月7日土曜日
スサノオ神話の正体=速水俣孝説 島根大学講師
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録30:16頁
《スサノオ神話の正体=速水俣孝説 島根大学講師》
「スサノオ神話の正体=速水俣孝説 島根大学講師」
しかし島根大学講師当時に語られた速水保孝氏の次の説は、
異なった見方を教えてくれる。
それを要約すると、次のようになる。
* 『記・紀』の基になったものは、
弥生時代の稲作人たちが持ってきた話である。
その足と手を使って造った<稲田>が、
<脚摩・手摩・稲田媛>という名詞の意味なのだ *
といった解釈で、次のような結論を引き出している。
* それが豪雨による水害で破壊されてしまう。
それを八俣大蛇の仕業だとしたものが、スサノオ伝説なのだ。
だから出雲は特にヘビ信仰が強いのである。
それは八俣大蛇の姿をば
「眼が真っ赤。腹が血で赤く爛(ただ)れている」と書いている。
これにもこの地域独特の、密接な理由が考えられる。
それは船通山(鳥髪山)1143mを源とする<斐伊川>などは水の色が赤い。
それは鉄鉱石が多くて、大量の砂鉄が川底を流れる>せいなのである。
この鉄を用いるために古来、
タタラ送風機を使って高温をつくり鉄鉱を溶解して銑鉄を造ってきた。
その時の溶鉄の流れもまた異様に赤く輝いて、
いかにも赤く爛れた怪物の腹を思わせる。
スサノオは朝鮮半島から渡来したというから、
先進地の製鉄や治山治水技術をもっていた。
スサノオを祭るこの集団が尾鰭をつけて神話を作った。
作り話の背景には歴史がある *
『参考』
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2012年7月6日金曜日
神社の存在だけでは居住証明にはならない
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録30:15頁
《神社の存在だけでは居住証明にはならない》
「神社の存在だけでは居住証明にはならない」
これを「<稲田神社>も<須佐神社>も揃っているではないか」と主張するのなら、
全国には3万もの<八幡社>がある。
その全てに<応神天皇>がいたことになるから、
その主張が間違っていることは直ぐわかる。
八幡社が立証する通り、
神社は祭神の霊を祭るもの、
各家庭にある神棚や仏壇と同じものである。
それは死者を埋葬した墓地ではないから居住を証明する能力はない。
しかしそれは祭神の子孫や同族が住んだという事実は証明する。
こうみてくると地名が分布するのと同じく神社も移住先に分布する。
だが寺はそんな分布とは無関係である。
仏教徒の卑弥呼が、
死んだ南九州から遥かに離れた伊勢の、
皇大神宮に祭られているのはそのためである。
それを<天照大神は卑弥呼>だから、
彼女は伊勢にいてそこで死んだと主張するとすれば、
それは新しい「邪馬台国伊勢説」と呼ばなければならないが、
さすがにそんな愚説はまだ、一つも出ていない。
スサノオはまた八幡社ほどではないが、
同様に全国的に祭られている。
出雲佐田町の須佐神社はその内の一つでしかない。
在来の学者が犯した過ちは、
スサノオの出雲は島根県以外にないという固定観念で固まって、
『記・紀』をお粗末な名所案内に使い、
ウソの説明しかできなかったことである。
それは<奈良橿原>での<神武天皇即位>から
大日本帝国が始まったとする『日本書紀』を盲信した、
8世紀の愚民の頭と同程度でしかない。
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2012年7月5日木曜日
スサノオの名乗りは、スサの王家へ入り婿後のもの
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録30:14頁
《スサノオの名乗りは、スサの王家へ入り婿後のもの》
「スサノオの名乗りは、スサの王家へ入り婿後のもの」
「稲田宮主簀狭八箇耳」という名乗りは、
一書<2>では稲田媛の父の名乗りになっているが
一書<3>では母の名乗りになっている。
<男王と女王の問題>がここにも見られる。
この名乗りはどんな内容を記録しているのだろう?。
島根県の地名と照合すると、稲田神社が仁多郡横田町にあり、
簀狭に合う須佐神社が簸川郡佐田町にある。
八箇はヤツカと読めるから八束(やつか)郡に合う。
<宮主>は<ミヤヌシ>と読んだのでは候補地は見つからないが、
<ミヤヅ>と読むと少し離れるが同じ山陰の丹後に京都府宮津市がある。
<宮主>はまた<クシュ>とも読めるから
奇(くし)稲田媛の「奇(くし)」も同じものにみえる。
この<クシ>に合う地名も安来市に久白(くしろ)町がある。
これで出雲から丹後に及ぶ、
山陰のかなりの広域を領有していた王の名乗りだったように見える。
だがまだ結論することはできない。
これで発音上では揃うのだが、
主人公夫妻の名乗りの稲田と簀狭が地名ではなく神社名である。
肝心の地名が全然ないのは
出雲の大王・スサノオ夫妻の遺跡はここではないという
証拠なのである。
他にこの名乗りに合う地域を探す必要があるし、
またこの簀狭の領主だったのは稲田媛一族のほうで、
本来のスサの王は妻になった稲田媛の両親のどちらかだったのである。
スサノオは「入り婿」になってから始めて
「スサノオ」になったのであることを、
ここで確認して絶対に忘れてはならない。
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2012年7月4日水曜日
「素戔嗚の尊」の本文と一書の「名詞」比較
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録30:13頁
《「素戔嗚の尊」の本文と一書の「名詞」比較》
「「素戔嗚の尊」の本文と一書の「名詞」比較」
(本は『日本書紀』本文、数字は一書の順番) (獲た剣)
本 出雲 簸川 脚摩乳 手摩乳 奇稲田姫 八岐大虵 湯津爪櫛 赤酸醤 草薙剣
1 清地 天叢雲剣
2(父の名)稲田宮主簀狭八箇耳 稲田姫
3 安芸 可愛 脚摩 手摩 草薙剣
(母の名)稲田宮主簀狭八箇耳 尾張吾湯市熱田 虵麁正
眞髪觸奇稲田姫
4 奇稲田媛 尾張 草薙剣
吉備の神部(出雲簸川川上の 山)にあり=(斬った剣)虵韓鋤剣
5 出雲簸川川上鳥上峯 大虵 天蠅斫剣 草薙剣
五十猛神 新羅曾尸茂梨 興言 樹種
6 紀伊の国 根の国に入る 熊成峯 八十木種
五十猛命 大屋津姫命 抓津姫命
こう整理して見ると、「一事」の種類によって異なった点が、よく見える。
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2012年7月3日火曜日
出雲は出水より後世の国名、謎を解く伝承
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録30:12頁
《出雲は出水より後世の国名、謎を解く伝承》
「出雲は出水より後世の国名、謎を解く伝承」
これでようやく、
問題の「出雲の国」の手掛かりが得られた。
それが<ポセイドン>の名から<百済(ポセ)と出水(イヅン)>に分かれて、
種子島と薩摩の小地域名になり、
それ以後にイヅンという薩摩発音から、
その発音によりよく合った「出雲・イヅン」という当て字が生まれたことは、
すでに確認済みで、
種子島の小国・奴国が筑後に移動大国化し、
小さな首都・巴利国が邪馬壹国になった後、
兵庫県に移って播磨になり、
種子島人が但馬・丹波を造ったように。
南九州の小地名が本州の大地域=「国」に拡大しながら分布していった痕跡は、
今も大量に疑いようもない形で現存している。
<出雲も九州から本州へ拡大した後世の国名>だったことは決定的だが、
それがいつ?
どんな経緯?で、
そうなったのか?は、
ほとんどわからずにいたのである。
この謎を解く手掛かりを秘蔵しているのが
『名乗り』と『伝承』なのである。
ではその出雲に伝わった『スサノオ伝承』の正体はどんなものだったのか?。
次はそれを確かめてみよう。
だがどうすれば、それがわかるのか?。
それは「名乗り」でわかるというのが、
我が「言語復原史学理論」の中核である。
活用してみよう。
よそものスサノオは、
天という地域の統治者の一族に生まれたから出雲人から見れば
「他所者」である。
彼の出雲入り伝承を『記・紀』はどう書いているか?その名詞を見てみよう。
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2012年7月2日月曜日
仁徳系記事が暴露している『倭国(イナバ)のウサギ』の比喩
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録30:11頁
《仁徳系記事が暴露している『倭国(イナバ)のウサギ』の比喩》
「仁徳系記事が暴露している『倭国(イナバ)のウサギ』の比喩」
こうした事実を考え合わせると、
『記・紀』の仁徳系記事の偏向(かたよ)りや、
奈良朝人事が仁徳系の子孫をもたないのを、
単なる差別や虐待のせいだと思うのは、
単純過ぎることになる。
それは前にお話ししたように、
仁徳天皇と磐之姫皇后の話は、
大国主夫妻の話と余りにもそっくりで、
仁徳=大国主の部分が実在しているし、
また<白ウサギの挿話>も、<仁徳天皇自身の名がウサギ>なのだから、
彼は<大国主の後継者>として<ガマのホワタ>に見合う存在に包まれたことによって、
次代の大国主として再生したという話になる。
これらは何を意味するか?。
忘れてならないのは倭国は卑弥呼時代から
推古、斉明まで、
ざっと見ても女王制国家で、
日本になってからでも持統、元明、元正、孝謙とそれは続いた。
これは<倭=優婆畏(ウワイ)>で、それを国名にしているのだから、
女王制は当然すぎるほど当然なことなのだ。
仁徳系の天皇たちは
文字通り<クシャトリヤ=武者棟梁=大元帥>の時代だったのである。
その本来の倭は言うまでもなく<ソナカ仏教皇室>で
『日本書紀』が<蘇我(ソナカ)>と当て字した人たちだから、
大戦後は大半が近畿から逃げて、
石川麻呂らのごく少数が人質として飛鳥に残ったに過ぎない。
これが<仁徳系の実像>だから、
その子孫が奈良朝政権に入れられなかったのは当然である。
はるか東北へ亡命した人々でさえ、
平安朝まで「蝦夷」として討伐を受け続けたのだから……。
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2012年7月1日日曜日
「出雲の国」が生まれた時期まで教えた「住」の1字
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録30:10頁
《「出雲の国」が生まれた時期まで教えた「住」の1字》
「「出雲の国」が生まれた時期まで教えた「住」の1字」
即位もせずに横死したのでは、
巨大古墳の立ち並ぶ
近畿の中央=和泉に進出した倭王済の事跡はどうなるのか?。
この答も『宋書』にある。
讃と珍は倭の次に百済(モズミ)を名乗るが、
済は百済を消してしまう。
何故か?。
彼の時にはそこは和泉に併合されて百舌鳥耳(モズミ)の原(首都)になっていたから
国名は消えて当然なのだ。
そして、この<和泉>こそ南九州語で「イズン」と呼んだ国土であり、
そこが次の<興=安康天皇>が、
巨大天皇陵群を造った国の中心であり最高の繁栄時代を物語る地域だから<済>の力が判る。
それが仇して<興>が国力を消耗、高句麗に敗北して政権を譲り渡し、
イズン「出雲」を山陰に移して引退した史実が細部まで判っている。
墨江、住吉、当て字は異なるが、このスミエ=スメは、
スメル発祥の「統べる者」という名乗りだから、
済が五王中でも最も優れた統治力をもった大王だったことは間違いない。
「住」の一字でも、こんなに謎の連鎖が解け、
それが私たちがシュメル文明の後継者であることの証拠群を形成し、
言語復原史学による、
『魏書倭人章』解読がどれほど精密なものかを立証し、
五王の史実にさらなる知見を加え、
<出雲のスサノオ>と<大国主の国譲りの真相>が、
さらに明確に理解できた。
わが言語復原史学の徹底した
証拠発掘力、史実復元力がどこからくるものか、
まざまざと教えてくれたのである。
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