2011年3月7日月曜日

『記・紀』双方とも欠陥をもつ当て字

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:25頁

こうして卑弥呼当時から7世紀の斉明天皇までの、

百済倭国五彩圏の実在は徹底的に史実だったことが確認できて、

どんなにしても疑えなくなった。

すると仲哀天皇と神功皇后との名乗りを

再検討する必要が生まれてくるのである。

その名乗りは、

『日本書紀』  足仲彦天皇      気長足姫

『古事記』   帯中日子天皇     息長滞日売命

これまでに私達は天皇の足仲は「ソナカ」に対する当て字で、

夫婦が同じ名乗りをもつのは当然だから、

皇后の息長もまた「ソナカ」に対する当て字だと確認し、

そのお陰で卑弥呼が仏教女王だった事実に至るまで、

大量の史実を発見することかできたのだった。

だとすれば、ソナカとは絶対に読めない

『古事記』の「帯中日子」天皇は完全に間違った当て字であって、

『日本書紀』の足仲彦をタラシナカツヒコと、誤読したために、

当て字に「帯」を使った単純な誤りか、

史実を隠そうとする小細工だとみるはかない。

この名乗りについては『日本書紀』の方が史実を伝えていることは動かない。

ところが皇后の方は『古事記』の息長は正しいが、

『日本書紀』の気長は全然意味をなさない。

天皇の場合と逆転して『古事記』の方が正しい。

駄目さ加減は勝負なしである。

『参考』

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2011年3月6日日曜日

「山」「本」の真意と、進化の極の新たな疑問!

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:24頁

「山本家」というのは

大本山(仏教の)を意味する「山」の「本家」である。

これは他の岡本家などでも確認できた我が国の姓氏の原則である。

だから大仙陵という「山」を守る位置に実在している。

山と本が何を意味するかは、

堺でこそ明確に証明されるのである。

そこは百舌鳥耳原で、その語源は百済(モズミ)だった。

百済(ポセイ)はポセイドンで海の神。

原は高天が原以来、政府の所在地だった。


舳松村は倭王・済=和泉王の「百済国」の首府の遺跡だったのである。

するとそこに世界最大の陵墓、大仙陵が築造されたのはなぜか?。


それこそ悪者に仕立てられている

済=住吉仲皇子(紀)・墨江中王(記)の都の跡を

抹殺するためではなかったのか?

といった最も進んだ疑問が芽生える。

言語復原史学は無限に面白い学問である。

こうしたことは、現在の変化した地名では解らない。

地域に密着したご研究がいかに必要かを痛感する。

山本先生のご論文は致し方なく1ページに集約させて戴いたが、

有り余る位に「地域史研究」の素晴らしさ、俸大さを痛感させてくれる。

超集約型の本講は、毎号掲載するわけにいかないが、

多数のご教示を戴いて活用させて戴いており、

諸先生方にはここで改めて厚く御礼申し上げると共に、

他の皆様にも有意義な御生涯を記録する独自のご研究を、

心からお勧めしたいと、常々思っていることを申し添えておく。

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2011年3月5日土曜日

現代まで続く、堺市の「生きたギリシャ系海軍史」

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:23頁

大阪府の堺市が種子島の坂井からの移住者の町だったことは、

はるか後世に種子島銃工業が盛んだったことでも明らかだが、

同市支部長の最古参正会員・山本健氏は地域史のご研究が深い。

先生は

文久3年(1864年=蛤御門の変の年)に描かれた地図に、

広大な「山本新田」が載っている所縁(ゆかり)あるご出身だが、

当時の村名は舳(への)松村で、

松の名がついているだけでなく、

舳(へ)という船の部分の名まで村名になっていた。

この舳松という地名の由来は、

『堺市史』の「伝説の堺」第1節に

「神功皇后が朝鮮からお帰りになって、 

石津の汐穴の松原に船をつけたとき、

船を繋がれた場所を舳松、

ご乗船九艘が停泊したところを九艘小路と呼び、

宿院のあたりまで続いていた」とあるから、

その船は可なりの大船だったことがわかる。

「現在の小林寺小学校の北にある鎮守の森は

九本松大明神という」というのも

ギリシャ以来の信仰の名残とみると意義が深いが、

それ以上に感銘的なのは大正14年に舳松村は堺市と合併し、

昭和4年に耳原町その他を分立、

8年には御陵通などを、
10年には松原町などを分立したので舳松村は消滅した。

その後、

耳原町も昭和32年に、大仙中町、大仙西町、協和町などに分割された結果、

耳原町も34年に消滅した。

これでおわかりのように舳松村こそ、あの百舌鳥耳原であり、

大仙陵=仁徳陵や、履中、反正両天皇陵のある地域だったのである。

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2011年3月4日金曜日

ギリシャ系海人族はどうなったか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:22頁

しかし天智天皇は間もなく死に、

天武天皇の逆クーデターで天智系政権は潰れた。

国名は体面上そのまま「日本」を使い続けたが、

唐へ行った日本人たちは、

内乱続きで弱体化した祖国の真相をありのまま話す気にはなれなかった。

そこで改名の由来を訊ねられてもブスッとして答えなかった。

それを唐人は

「日本人は多く矜大(きょうだい=偉そうにしていて)、

真実味のある応対をしない」と

誤解して非難しているが、

今の私たちには、その実情が双方とも、

その深層心理までありありと手に取るようにわかる。

だが天武天皇に弘文天皇が殺されて、天智系政権が崩壊すると、

取り残された半島新羅は当然、天武政権と絶縁した。

これによって朝鮮半島は別の独立国になったから、

高句麓を黒、

新羅を白、

近畿を青、

鹿児島以南を赤としていた

「五彩圏国家」は完全に崩壊し去ったのである。

その結果、

海軍も統制力のない政府の管轄を離れて、

自活する民間水軍になり、

良く言えば海人族、悪く言えば海賊の、○〇水軍と

呼ばれるものになってしまった。

これが今の主題

「本土に移住したギリシャ系海人族ははどうなったか?」へのお答なのである。

その人々は得意の造船術と航海術とで、

次第に居住圏を拡大して全国的なギリシャ人圏を作り上げた。

それが隼人族と呼ばれたことは、

最も権威のある出身地証明書なのである。

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2011年3月3日木曜日

天智天皇は半島新羅人だったのか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:21頁

全ては粛慎でわかる。

この文字はチュクチ人に対する当て字である。

沖縄語のチュクチは南九州語ではキクチになる。

すると菊池・鞠智(きくち)と書かれた古代地名が、

九州の中央部にあることに気付く。

いま熊本県には菊池郡と菊池市があり、

鹿本郡菊鹿町米原に鞠智城址がある。

また沖縄語の語尾のチは本土語でシで、

チュクチはチュクシ、これは間違いなく筑紫でもある。

天智天皇は斉明天皇を筑紫に連れて行き、

女帝はその朝倉郡で死んだ。

天命開別は沖縄語では

天はチヌで本土語のキン=金、開きは古語ハラキで「春秋(ハラキ)」と

当て字できる。

すると新羅王・金春秋は完全に天智天皇であり、筑紫の白日は、

新羅を沖縄訛りでシラジと読んだものに助詞の津をつけた「シラジ津」への

当て字だったことがわかる。

だから彼の

「粛慎国討伐」は九州の白日国占領だったのであり、

筑紫が新羅だった証拠なのだ。

では彼は半島新羅人だったのか?。

それは彼が倭国を「日本」と改名したことで否定されている。

当時を記録した

『旧・唐書』が記録している初唐までの小国・日本は、

鹿児島県にしかない西と南が大海だという特徴をもつ

鹿児島県と熊本県の一部との国だった。

その国が北征して福岡をとり、半島新羅をとったのである。

彼が半島新羅の王だったのなら

新政権は日本などと改名するはずがない。

我が国は今も新羅という国名だったはずである。

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2011年3月2日水曜日

比羅夫が打った蝦夷は天智天皇が討った蘇我蝦夷(えみし)

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:20頁

しかし、同一人だとすると新たな疑問が沸(わ)いてくる。

先に阿部の比羅夫が蝦夷を討伐し、

粛慎を討ったとあるとお話しした。

だとすれば天智天皇の大変な業績なのに、

なぜ?それが一言も記録されていないのか?。

いくら記録が混乱したといっても、

それは記録の持ち主が、

それぞれ使った当て字が違うだけで、

その事跡は同じように書かれていたはずだから、

それまで変わってしまうことはない。

変わるのは当て字のちがう名前くらいのものである。

そして実際に検討してみると、

事実、全てその通りなのだ。

いやその名の1つである蝦夷に至っては、

その文字さえも同じなのである。

天智天皇は中ノ大兄ノ皇子時代に、彼の最も有名な行為、

クーデターを敢行して蘇我を倒したと記録されている。

もうおわかりのように、

その相手は蘇我「蝦夷」なのである。

すると阿部比羅夫が討った蝦夷討伐の、

顎田(アグタ=原文には歯偏に咢の文字と田)や

淳代(ヌシロ)はどうみても、

東北地方の秋田や能代ではありえなくなる。

ところが同じ年に粛慎も討つ。

粛慎といえば私たちの常識ではシベリアの住民である。

その一部が、

そのときの阿部比羅夫の名乗りである

「越国守」の名から北陸あたりが、

その粛慎国だったのだとされてきた。

だがこれも怪しくなる。

ではそれらの記事はすべて、

『日本書紀』がデツチ上げた大ウソだったのであろうか?。

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2011年3月1日火曜日

なぜ?3人のヒラッ(比羅夫(ヒラフ)・開(ヒラッ)く)は同一人か?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録16:19頁

この2人に見える比羅夫は実は同一人なのである。

なぜなら阿曇=アヅミはア津ミに対する当て字であり、

阿部は沖縄語ではアビでビは美を当て字するとミ。

ア津ミから助詞の津をとったアミと同じになるからである。

これは多くの記録を素材にした

『記・紀』編集者が、

文字が違うから別人だと錯覚して、

2重に記載したための事故だとすぐわかる。

しかしそれが同一人だという理由はまだ他にある。

これだけで断定するのは間違いなのである。

もう1つの理由は、

沖縄語では「天」もまたアミと発音することである。

この2人の比羅夫と同時存在である

天智天皇は、「天命開別」という名乗りをもっている。

これは大隅語では

「アミの命、開(ヒラ)ッビチ(日木(ビチ)=ヒコ=日子)」と読む。

このうちの敬称の「命と日子」を除くと、後に正味の名が残るが、

それは大隅語では「アミ・ヒラッ」になる。

2人に見える比羅夫もまた大隅語で「アミ・ヒラッ」である。

3つとも全く同じ名なのだ。

しかしこれでも同一人だというのは、まだ早い。

それは3人の別人が、

順番に一つの名乗りを継承した可能性があるからである。

しかしこの3人は単に同時存在だというだけでなく、

同時に同じことをしている。

この3人のヒラッは白村江戦争で共に百済を助けて戦っているのである。

同じ名乗りをもつ他人が同時に3人もいて、

同じことをすることは絶対にない。

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