2010年10月7日木曜日

実在している「夜食国」それは仏教思想の産物

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:18頁

この<ヨナ>という発音はさらに別の問題にも、

正確な答を与えてくれる。

「夜々」と書いて「ヨナヨナ」と読み、

夜の仕事を「ヨナベ」という。

この「夜=ヨナ」の発音を意識すると、

これまで「夜の食(お)す国」などと読むのだと教えられてきたものの、

なんのことだか分らない3貴子分治に出てくる

「夜食国」の意味が正しく解ける。

南九州では夕飯の後で夜なべ仕事などをして、

もう一度食べる夜食を「ヨナグイ」という。

そして、その南九州語では与那国も「ヨナグイ」と発音する。

夜食国は南九州人が記録した与那国を指す、

実に適切な当て字だったのである。

沖縄語は<東>を<アガリ>、

<西>を<イリ>という。

明らかに太陽が上がる方向が東、入る方向が西と、

太陽を基準にした言葉である。

最も西の大島(だいとう)を西表島(イリオモテ)と呼び、

その西に最西端の与那国島がある。

これは確かに太陽が沈んだ後の「夜の国」だから「夜ナ国」でもある。

<ヨナヨナ>、<ヨナベ>、<ヨナグイ>の

「夜=ヨナ」という日本語は間違いなくここで生まれている。

3貴子の話では夜食国は月読の命が治める冥界である。

亡き母・伊耶那美は冥界に居るから、

スサノオは母とともに居たいと、

不満で泣きわめいて割り当てられた海洋を治めない。

西に冥界があるというのは仏教だけの思想である。

「西方浄土」という熟語がそれを証明している。

『参考』

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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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2010年10月6日水曜日

沖縄でのギリシャ人の移動拡大を記録した地名

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:17頁

だからそれは日本列島における

ギリシャ人居住の最初の遺跡でもある。

沖縄列島の最西端は日本の最西端である、

そこを出発点として、

日本列島の中に残っている

そのパーリ語圏とギリシャ語圏の移動拡大の跡を、

フリップ化してたどってみよう。

1   与那国島 ヨナグニジマ その東、約200kmの宮古島と那覇市の                 隣り南風原(ハイハラ)村に

2、3 与那覇  ヨナハ    という2つの字がある。その東隣りが

4   与耶原  ヨナハラ   町だ、広さは4平方kmだが人ロは                   12000人を超える。

5、6 与那城  ヨナグスク  はその北隣りの西席村の字(あざ)と、                 その北東20kmにある半島

このうちの与那原で、後の邪馬壹国女王壹與が即位したことも、

すでによくご存じである。

それは『三国史記』が新羅始祖王の赫居世として壹與を記録し、

彼女が<徐那伐>で即位したと記録しているが、

これは<ヨナバル>という発音で、

<与那原>を北九州語で発音したものに

朝鮮語で当て字したものだからである。

このことは他にも多くの証拠を残している。

壹與が新羅の初代女王だということは

神功皇后の関係記事が真実である証拠であり、

彼女らがパーリ語を話したこと。

赫夜姫と重ねると彼女は金髪のギリシャ人だったこと。

などなど……。

『参考』

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2010年10月5日火曜日

パーリ語のヨーナはなぜ?ギリシャ人のことか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:16頁

それは西方の大文明が大量に入っていた事実など、

想像する能力さえない証拠なのである。

世人に一流の知性人と尊敬されている

「大学教授」の肩書きをもつ人々でさえ、

そんな有様では、一般の国民はなおのこと、

古代日本にギリシャ人やパーリ語を話す人々が

来ていたと信じられなくても当然としか言いようがないが、

それらの人々にも納得のいくように、

まず日本列島の中に、はっきり残っている、

ギリシャ語圏の移動拡大から跡づけてみよう。

パーリ語で「ヨーナ」はギリシャ人のこと。

その本当の意味はイオニヤというギリシャ語が

「イオン=行く・移る・拓(ひら)く。イァ・ヤ=国・土地」で、

「開拓者の国=移住者の国」を意味することからイオニヤンと

自称していたギリシャから来た人々を、

インドのシヤカ人やマガダ国人などパーリ語系の言葉を話す人々は、

『ヨーナ人・ヨーニヤン』と呼んでいた。

この名詞語尾のヤンは静岡県以西で

「○○君」を「○○やん」というのと同形で、

パーリ語が我が国に入ってきて、

使用されていたことを立証している貴重な遺物なのである。

今なら、こんなふうに細かく意味を考えて名詞化するのだが、

当時はそれがギリシャ人を指す唯一の代名詞だったから、

パーリ人たちはヨーナを人種名として使っていたのである。

それが台湾経由で日本列島への取っ掛かりの島に、

今も与那国島として残っているのだ。

『参考』

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2010年10月4日月曜日

奈良に竜宮があり海洋王がいたとする恥辱的史学

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:15頁

また、

スサノオは海の支配者で、

ポントスも海の支配者である。

それも瀬戸内海のような小さな海ではない。

広大な「海洋」の支配者なのである。

この事実はうっかり見逃すことはできない。

なぜか?。

過去の日本史家は、

こうした事実に全然無知だったから

垂仁天皇親子を全く海のない奈良県の住民にして平気でいた。

そして竜宮城でもある狭穂を奈良市にある佐保だと主張して、

その無知を恥かしいとも思わなかった。

これでは、

オオヒルメである壹與は船にも乗れず、

幼い八幡を背中に負い、

山道を歩いて来るしか方法がないから

『大隅正八幡縁起』はニセ物だということになる。

しかしそれでは「狭い」を

アイヌ語で「タンネ」と表現したことが

島名の語源である「種子島」も、

ポセイドンから始まった海洋国を意味する

「百・日・穂」などのホの国も、

みな、奈良市の佐保にあったことになって、

とても日本の古代史の解明など、出来そうもなくなる。

また考古学者らも、

その佐保付近に垂仁天皇=位宮陵や、神功皇后=壹與陵があるからと、

大和朝廷は紀元前後に奈良に誕生したと教えているが、

彼らの頭には南九州の田舎者・神武天皇が奈良へ侵入して、

土民の村長らを倒して侵略したのだ、という建国史観だけしかなく、

天皇家とはその田舎のオッサンの子孫だと、

今も国民を教育し続けている惨状なのだ。

『参考』

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2010年10月3日日曜日

八俣大蛇はアポロンの大蛇退治から生まれた

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:14頁

この大蛇退治もギリシャ神話の重要なモチーフである。

北方からギリシャにやってきた、

太陽神・アポロンは、

今アポロン神殿跡が残るデルポイに行き、

テミスの神殿を守っていた

大蛇・ピュートンを退治てそこに君臨し、人々に神託を授けた。

このピュートンは、神託の巫女・ピューティアたちの怪物化で、

同じくもとはゼウスのビューティアだった卑弥呼を、

怪物・八俣の大蛇に変えたのは、

このアポロンの大蛇退治物語が大きく影響している。

それはスサノオが北方の朝鮮半島からやってきた状況から真似ている。

位宮は確かに高句麗からやってきた。

そして神託の女王であった卑弥呼を退治て君臨した。

そうした類似点がアポロンの大蛇退治を連想させて、

八俣大蛇物語を作り出したのである。

またスサノオの名乗りを見て見よう。

それは『後漢書・東夷・倭章』にある

「帥升」が、

カールグレンの上古音発音でスサヌウになり、

スサノオを沖縄語~大隅語発音にしたものに一致するから、

これが初期のスサノオの名乗りであることは、どこからみても疑いない。

その帥升は後漢安帝の永初元年=107年に

訪漢して安帝に会見を求めているから、

卑弥呼が死んだ247年の140年前である。

この間、何名のスサノオがいたか不明だが、

世襲された複数のスサノオが実在したことは疑いの余地がない。

『参考』

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2010年10月2日土曜日

本牟智和気もスサノオのモデル

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:13頁

これと同様に、

スサノオの命の実体も、

このギリシャ神話との関連確認が済めばわかる。

それは垂仁天皇皇子の本牟智和気が、

スサノオと全く同じ伝承で語られているからである。

スサノオは割り当てられた海原を治めないで、

母のいる根の堅州国に行きたいといって、

「八拳須(やつかひげ)(八握りもある長く伸びた顎鬚(あごひげ))が

心前(胸の前)に垂れるようになっても」

山の草木が枯れ、海も河も干上がるはどに、

泣きわめくばかりだった。

本牟智和気王も

「八拳鬚(ひげ)が心前に至るまで真事(まこと)とわず(話さなかった)」、

父の垂仁天皇(位宮)が心を砕いて、あやしたり遊楽に連れ出しても、

少しも喜ばず口をきかなかった。

スサノオは八俣大蛇を退治たので有名だが、

本牟智和気もまた檳榔の長穂の宮に移った後、

肥長比売と結婚したが、

戸の隙間から姫を覗き見すると何んと正体は蛇だった。

驚いて逃げ出したが、蛇は怒って追って来た。

そこで船で海へ逃げたが、

大海原を照らして輝きながら追ってくるので、

とうとう船を担がせて山を越えて逃げて、

やっと捕まらずにすむ。

スサノオの勇ましさとは正反対の話になっているが、

蛇と争ったという、そのモチーフはちゃんと揃っている。

これを史実に照らしてみると、位宮は卑弥呼と戦った。

八俣大蛇は卑弥呼と仏教を象徴しているから、

この部分のモデルは位宮で、父子で世襲したことがわかる。

『参考』

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2010年10月1日金曜日

神話や説話は史実の優れた表現法だった

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録11:12頁

だが、これまで『神話』と単純に分類していた学問が、

いかに不完全なものだったかも、すでにおわかりになっている。

それは神話と呼ばれたそのものが、史実を表現するための、

当時としては当然の「表現法」であり、

聴く者に理解しやすく、記憶しやすくする、

優れた教育法でもあったからである。

だから、それは単なる海外知識の受け売りではなく、

現実に起こった事件の記録法だったのである。

それは山上王位宮が魏軍との戦いに敗れて高句麗を脱出したとき、

鴨緑江海軍を率いていた

海人族の王・旦波の比古多多須美智能宇斯(ビチヌウシ)王の船で

琉球へ逃れたが、

それは位宮がビチヌウシに恩恵を施していた

報恩の行為だったことが琉球を竜宮に、

位宮を浦島太郎に、

ビチヌウシを亀に置き替えると鮮明に見えてくる。

高句麗はタカグニだから太カ国、その王だから太郎。

大国は沖縄~大隅語で

大=ウ、国=ラで「ウラ=浦」、「之国はシマで島」、

ビチヌウシはインドの最高神ビシュヌウのことで、

昆紐縫神(ビチュヌウシン)などの当て字があるから、

シをチと発音する沖縄語の影響で

美智能宇斯(ビチヌウシ)と書かれていることが分る。

このビシュヌウは

インドの創世記『乳海攪拌』では、

巨大な亀に変身して乳海の底に沈み、

巨大な回転軸マンダラ山を受ける軸受けになって、

不死の甘蕗をつくる。

だから美智能宇斯は亀なのだ。

これで神話や説話は史実の表現だと確信できるのである。

『参考』

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