『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録08:26頁
津名はチヌだから天でもある。
その女王をジョオーと発音して
「照」を当て字した可能性もある。
その孫に当たるのは倭王・興か武である。
彼らは間違いなく奈良に侵入し、
高市郡や高田市一帯を所領に加えた。
確かに神勅にある「葦(ナラ)」を支配した天皇たちである。
しかし武は五王の一人として、
父祖の遺産である摂河泉と紀伊を受け継いだのではなかったか?。
いや彼だけが、
いったん失われたそれらの領土を、神勅どおりに奪い返しているのである。
このことは、これまでの講義録で到達した答を訂正させる。
それは武が初めて高市を取ったから武を名乗ったという部分である。
それは誤りで、
高市郡一帯を取ったのは、
高をコウへの当て字とした倭王・興だったからである。
そうでなければ神勅に「葦(ナラ)」が入っているはずがない。
そこはすでに武より先に誰かが領土に加えていた。
その先人とは名乗りの最後に最新の所領地を書く
倭の五王の名乗りの原則からみて、
高も興もどちらも「コウ」だから、
倭王・興でなければならない。
しかし彼はそれを奪われてしまった。
それを取り戻せというのが
『神勅』の真意であり命令だったのだと、
ここで今、はっきりわかったのである。
だからこそ武は、
高市を「コウチ」から「タケシ」に発音を変えた。
そして自分の名乗りに使う最新の領土名を、
強く勇壮な「武」の字を選んで「タケシ」と訓ませたのだ。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
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ウワイト
古代史の画像
ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2010年6月6日日曜日
2010年6月5日土曜日
津名は「神勅の天照大神」の遺跡
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録08:25頁
天照大神の名はもともとギリシャ神道で
「天のゼウス」に当てた当て字だったが、
巫女の卑弥呼が仏教王になったことで意味が変わって
「尼寺師(テラス)」になった。
「寺師」をテラスと発音する「寺師」姓は現在も南九州に残っている。
しかし当時これを「アマテラス」と読んだとは決まらない。
パーリ語の their は「長老尼」のことだから、
アマテリへの当て字だった可能性もある。
また大神は大学院講義録03の14の
パーリ語 ukkamsa =大神様から発展した
「オカミさん」のオカミで、
「女将」と書く通り女性の長(おさ)を意味する当て字でもある。
ついでにお話ししておくと
丹波も津名と全く同じ「柱」を意味する
パーリ語thambaである。
その命名者は、
津名という名詞を使わないが、
同じ意味に同じ「柱」を使い、
それをパーリ語で表現しているから、
やはり仏教徒であったことは間違いない。
淡路島の方は漢字は津名を使っているが、
古代には「チヌ」と発音していたことが、
チヌの海という発音に残っているのだから、
その命名者は沖縄語または大隅語を話す人だったし、
彼と行動を共にした人々もまた、
南九州または沖縄からやってきたことを物語っている。
以上で『津名』が俵王・珍=履中天皇と天照大神の遺跡であり、
重要な名詞文化財であることが確認できた。
次は天孫・瓊瓊杵の命とは誰を指しているのか、考えてみよう。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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天照大神の名はもともとギリシャ神道で
「天のゼウス」に当てた当て字だったが、
巫女の卑弥呼が仏教王になったことで意味が変わって
「尼寺師(テラス)」になった。
「寺師」をテラスと発音する「寺師」姓は現在も南九州に残っている。
しかし当時これを「アマテラス」と読んだとは決まらない。
パーリ語の their は「長老尼」のことだから、
アマテリへの当て字だった可能性もある。
また大神は大学院講義録03の14の
パーリ語 ukkamsa =大神様から発展した
「オカミさん」のオカミで、
「女将」と書く通り女性の長(おさ)を意味する当て字でもある。
ついでにお話ししておくと
丹波も津名と全く同じ「柱」を意味する
パーリ語thambaである。
その命名者は、
津名という名詞を使わないが、
同じ意味に同じ「柱」を使い、
それをパーリ語で表現しているから、
やはり仏教徒であったことは間違いない。
淡路島の方は漢字は津名を使っているが、
古代には「チヌ」と発音していたことが、
チヌの海という発音に残っているのだから、
その命名者は沖縄語または大隅語を話す人だったし、
彼と行動を共にした人々もまた、
南九州または沖縄からやってきたことを物語っている。
以上で『津名』が俵王・珍=履中天皇と天照大神の遺跡であり、
重要な名詞文化財であることが確認できた。
次は天孫・瓊瓊杵の命とは誰を指しているのか、考えてみよう。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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2010年6月4日金曜日
渡海とピタゴラスの定理(1)
出典:加治木義博:言語復原史学会
邪馬臺国の言葉
コスモ出版社
158~160頁
ここで魏志の原文を御覧戴きたい。
「始度一海千余里至対馬国」
「又<南>渡一海千余里名曰瀚海至一大国」
「又渡一海千余里至末盧国」
となっている。
<対馬>から<一大>へ渡るのを特に南と指示している
(他の二つは方向の指示はない)。
この<一大>が後の<壱岐>であることは明瞭だが、
それではこの南はオカしいということになる。
対馬北端の現在の上対馬あたりからなら南であるが、
当時の小船を考えると島の沿岸伝いに<南端>へ来てから
海峡を横断したはずだというのである。
これなら東南行であって南とはいえない。
というのがこれまでの説の大半を占めている。
そして、これを理由に、魏志の方位はあてにならないとして、
末慮以後の方角を論者に都合のいいように
勝手に変更してしまったのである。
だからここの南の一字は、以後の方向決定に
重大な意味をもっている。
この<南端>からという意見は至極合理的であるから、
北端からだったと逃げをうたずに、
この問題を解決する必要がある。
この問題の重点は従来の邪馬臺論者が、
見落すことのできない大きな要素を考えることも
できなかったところにある。
それはわざわざ陳寿らが特記した
<瀚海>すなわち<玄海灘>の激しい潮の流れである。
この海峡は黒潮の分流対馬(つしま)海流が北東へ流れ、
<対馬>と<壱岐>によって
狭められた上に海峡は最深部でも80mと浅くなっている。
ちょうど水道のホースの筒先をつまむと
水が勢いを増して噴き出す原理と同じで、
流速は加わり、水流は複雑になって荒れ狂う海域なのである。
陳寿は「瀚海」の二字を明示しておけば、
当然これ位いのことはだれにでもわかると考えていたのである。
これを乗り切るためには目標へ真っ直ぐ進んだのでは、
北東へ流されてしまう。
図でおわかりのように船は<真南>へ進めねばならないのである。
当時の人々はピタゴラスの定理以前に
体験でこのことを知っており、
真南へ進むのが常識だったのである。
なぜなら<対馬>と<壱岐>の人々は南北に市糴して、
数千戸の人口を養う米や穀物をこの荒海を乗り切って
運んでいたことを忘れてはならない。
このことは当時の船がかなりの大船であり
帆船であったことを示唆している。
数万の人口を養うには当時の乏しい食生活を
計算に入れても米に換算して
年一万石をこえる穀物が運ばれたことになる。
丸木船で手漕ぎでほ、とうてい不可能な数字だからである。
またこの海流の平均流速約4kmを考えても、
重量物を載せて手漕ぎで渡海することは不可能である。
平水面で瞬間的に
時速10km以上出せるとしても50kmの荒海を乗り切る場合には、
波浪によるオールのロスと肉体疲労を考えれば、
自分自身を運ぶだけがやっとであるという計算になるからである。
「図:「南行」とピタゴラスの定理」(加治木原図)
だからこの海峡横断は風力の利用なくしてはあり得なかった。
市糴自体、一年に一回の収穫時のもので、
現代のように年中無休の米屋があったわけではない。
大量の塩干魚や千若芽(ほしワカメ)などを積んで行って、
米や粟と交換して帰る時期は限られた一ケ月程であった。
その間に一万石前後を運ぶということは、
から荷で自身を運ぶのがやっとの手漕船ではなかったことを
証明しているし、
また卑弥呼の遣使のうち年月がしるされているものは
一度だけだが、
それが六月であったことも季節風を利用しての北渡で
あったことを証明している。
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
実在した天照大神の社(やしろ)をもつ倭王・珍の都「津名」
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録08:24頁
次の「津名」はパーリ語では「tuna 桂」のことである。
『国生み』のところでお話ししたように、
伊弉諾(イザナギ)・伊弉冉(イザナミ)は天の御桂を立ててその周りを回る。
津名の名は、その御柱を意味している。
沼島にある立神岩もその御柱だが、
それだげではなく、津名そのものが巨大な御柱だったのである。
御柱とは「国家のセンター」を意味していたのだ。
そしてツナは沖縄発音だと「チヌ」。
倭王・珍の本領だったことがわかる。
大阪湾がチヌの海と呼ばれたのは、
淡路島の津名からみた大阪湾をチヌの海と呼んだ名残であって、
紀伊はチヌが語源でも、キノ国になった発音変化後の紀州からでは、
大阪湾にはチヌの名はつかない。
なぜなら友が島などの島々が大阪湾と紀淡海峡を
区切っていて和歌山は無縁だからである。
それでもまだ一歩譲って、命名したと仮定してみても、
その場合は「キノ」であってチヌにはならない。
どこからみても「チヌの海」は、津名が主体の名だったのである。
チヌが沖縄語ではテンの発音変化で、
「天」を意味することは常識だが、
その津名町には天神社があり
『延喜式』にまで記載されている古社であることは前にもお話しした。
これも津名が「天」であることを明確に証明している。
だから当時の天照大神がいたのは津名だと断定して間違いない。
天神はその略称で、本来の釧み方は「アマツカミ=尼津上」である。
『参考』
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次の「津名」はパーリ語では「tuna 桂」のことである。
『国生み』のところでお話ししたように、
伊弉諾(イザナギ)・伊弉冉(イザナミ)は天の御桂を立ててその周りを回る。
津名の名は、その御柱を意味している。
沼島にある立神岩もその御柱だが、
それだげではなく、津名そのものが巨大な御柱だったのである。
御柱とは「国家のセンター」を意味していたのだ。
そしてツナは沖縄発音だと「チヌ」。
倭王・珍の本領だったことがわかる。
大阪湾がチヌの海と呼ばれたのは、
淡路島の津名からみた大阪湾をチヌの海と呼んだ名残であって、
紀伊はチヌが語源でも、キノ国になった発音変化後の紀州からでは、
大阪湾にはチヌの名はつかない。
なぜなら友が島などの島々が大阪湾と紀淡海峡を
区切っていて和歌山は無縁だからである。
それでもまだ一歩譲って、命名したと仮定してみても、
その場合は「キノ」であってチヌにはならない。
どこからみても「チヌの海」は、津名が主体の名だったのである。
チヌが沖縄語ではテンの発音変化で、
「天」を意味することは常識だが、
その津名町には天神社があり
『延喜式』にまで記載されている古社であることは前にもお話しした。
これも津名が「天」であることを明確に証明している。
だから当時の天照大神がいたのは津名だと断定して間違いない。
天神はその略称で、本来の釧み方は「アマツカミ=尼津上」である。
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
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古代史の画像
2010年6月3日木曜日
瓊瓊杵(ニニギ)の命の出発点は何故?淡路島か?
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録08:23頁
以上で、
神勅の豊葦原瑞穂の国も、天孫降臨とは何であったかも、
その時期もわかった。
それは在来の解説が唱えたような神話ではなく、
現実にあった有史時代の史実だった。
さらにその変動がどこまで波及したかもわかっている。
またこれで、天孫降臨は従来いわれてきたような
「天皇政権正当化用の作り話」でもなかったことの確認もできた。
ではこの天孫降臨という史実の細部はどんなものだったか?。
なぜそんな国土回復が企てられたのか?。
主人公の瓊瓊杵(ニニギ)の命や天照大神とは維だったのか?。
考証に入ってみよう。
豊葦原瑞穂の国の範囲が詳細にわかり、時代もはぼわかったから、
それは倭王・済の反正天皇か倭王・興の安康天皇以後の統治圏だとわかる。
そこへ天から降臨するというのだから、出発点は天の国。
テンかチヌかアマのつく地名のあるところである。
それなら大阪湾の対岸にある。
前にもお話しした
倭王・珍(履中天皇)や倭王・済(反正天皇)の基地だった淡路島で、
そこにはアマ(阿万=南淡町)があるし、
津名郡のツナがチヌであることもご存じの通りである。
これらの地名が古代からのものであることは、
『記・紀』に「淡路の海人(あま)」という名があることでも確認できる。
これらの天は海女であり尼でもあって、
それは建国史解明の最強の切り札=「卑弥呼の仏教女王制」社会が生んだ
歴史的な産物だったのである。
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以上で、
神勅の豊葦原瑞穂の国も、天孫降臨とは何であったかも、
その時期もわかった。
それは在来の解説が唱えたような神話ではなく、
現実にあった有史時代の史実だった。
さらにその変動がどこまで波及したかもわかっている。
またこれで、天孫降臨は従来いわれてきたような
「天皇政権正当化用の作り話」でもなかったことの確認もできた。
ではこの天孫降臨という史実の細部はどんなものだったか?。
なぜそんな国土回復が企てられたのか?。
主人公の瓊瓊杵(ニニギ)の命や天照大神とは維だったのか?。
考証に入ってみよう。
豊葦原瑞穂の国の範囲が詳細にわかり、時代もはぼわかったから、
それは倭王・済の反正天皇か倭王・興の安康天皇以後の統治圏だとわかる。
そこへ天から降臨するというのだから、出発点は天の国。
テンかチヌかアマのつく地名のあるところである。
それなら大阪湾の対岸にある。
前にもお話しした
倭王・珍(履中天皇)や倭王・済(反正天皇)の基地だった淡路島で、
そこにはアマ(阿万=南淡町)があるし、
津名郡のツナがチヌであることもご存じの通りである。
これらの地名が古代からのものであることは、
『記・紀』に「淡路の海人(あま)」という名があることでも確認できる。
これらの天は海女であり尼でもあって、
それは建国史解明の最強の切り札=「卑弥呼の仏教女王制」社会が生んだ
歴史的な産物だったのである。
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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2010年6月2日水曜日
政権交替の相手は先行倭国(旧卑弥呼政権)
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録08:22頁
また、大阪府下の巨大古墳群も安康天皇=倭王・興=百済蓋鹵(コウロ)王が、
高句麗の僧・道琳に教えられて作った父祖を供養する仏教のスツーパ=卒塔婆で、
前方後円の形は仏教の聖山・須弥山(しゅみせん)を象ったものなども、
拙著『邪馬臺国の言葉』、
『日本人のルーツ』、
『真説・日本誕生、誰が巨大古墳を造ったのか』
などで考証済みであり、
応神天皇陵の円墳頂部には
印度サーンチーの舎か迦仏塔の頂部にあるのと
同じ意味の九輪塔があって、
応神天皇が八幡大菩薩という仏号で呼ばれていることとも併せて、
仏教建物であることは周知のはずであるから、
いまさら合子(ごうす)形石製品を持ち出すまでもないが、
それが
「ヤマトでは前期中葉-後半の古墳にみられる副葬品である」
事実は、
『天孫降臨』の時期を計る尺度として貴重なのである。
またそれは旧卑弥呼政権の南九州からの移動が、
倭の五王系の移動に先だっていたことを証明する。
それもまた和泉黄金(こがね)塚古墳の景初三年鏡などが立証していたが、
この合子(ごうす)形石製品の洗練された姿と量はそれに勝る説得力がある。
弥生時代の開始期に水稲稲作農業と金属工業をもって仏教の宣布にやってきた
ウッタラと銅鐸と古墳群。
その後へ3世紀半ばに南九州を追われてやってきた旧卑弥呼政権と古墳群。
それを追って奈良にはいった5世紀の倭王・興と武の古墳群。
3者は全て仏教徒だから
「葦(ナラ)」が仏教圏だったことは明瞭なのである。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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また、大阪府下の巨大古墳群も安康天皇=倭王・興=百済蓋鹵(コウロ)王が、
高句麗の僧・道琳に教えられて作った父祖を供養する仏教のスツーパ=卒塔婆で、
前方後円の形は仏教の聖山・須弥山(しゅみせん)を象ったものなども、
拙著『邪馬臺国の言葉』、
『日本人のルーツ』、
『真説・日本誕生、誰が巨大古墳を造ったのか』
などで考証済みであり、
応神天皇陵の円墳頂部には
印度サーンチーの舎か迦仏塔の頂部にあるのと
同じ意味の九輪塔があって、
応神天皇が八幡大菩薩という仏号で呼ばれていることとも併せて、
仏教建物であることは周知のはずであるから、
いまさら合子(ごうす)形石製品を持ち出すまでもないが、
それが
「ヤマトでは前期中葉-後半の古墳にみられる副葬品である」
事実は、
『天孫降臨』の時期を計る尺度として貴重なのである。
またそれは旧卑弥呼政権の南九州からの移動が、
倭の五王系の移動に先だっていたことを証明する。
それもまた和泉黄金(こがね)塚古墳の景初三年鏡などが立証していたが、
この合子(ごうす)形石製品の洗練された姿と量はそれに勝る説得力がある。
弥生時代の開始期に水稲稲作農業と金属工業をもって仏教の宣布にやってきた
ウッタラと銅鐸と古墳群。
その後へ3世紀半ばに南九州を追われてやってきた旧卑弥呼政権と古墳群。
それを追って奈良にはいった5世紀の倭王・興と武の古墳群。
3者は全て仏教徒だから
「葦(ナラ)」が仏教圏だったことは明瞭なのである。
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2010年6月1日火曜日
特に注目してほしい合手(ごうす)形石製品
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録08:21頁
あとは前記のとおり副葬品の鏡や武具や、
筒形や琴柱(ことじ)形や合子(ごうす)形、鍬(くわがた)形、
紡錘車(ぼうすいしゃ)形、るつぼ(柑)形、
農耕具形などの石製品、曲玉や管玉などの装飾品。
特殊な文物として家屋文鏡や環頭と、
きぬがさ(蓋)形埴輪を代表とする
器材埴輪といったものが展示されている。
この中で特に重要なのが合子(ごうす)形石製品である。
合子(ごうす)は現在も寺院で香器として
使われているものと全く同じといっていい
蓋付きの円形容器で、短い脚がついている。
この姿は戦前まで、まだ使われていた、
花見などの行楽時に弁当などを天秤棒で担いでいく道具の
「行器(ほっかい)」にそっくりでもある。
ただ内容物が違うから大きさが変わるだけである。
行器(ほっかい)は薄く軽く削った木を曲げて造った漆器であるから、
合子(ごうす)も本来は漆器だった時代の姿を、
その脚に残していると考えていい。
仏教の香具はいうまでもなく死者を弔うためのものである。
それが副葬品の中に必需品として入っているのは当然のことだが、
それらが遺品として存在するということは、被葬者が仏教徒であり、
その文化がインドからのものであることを証言している。
私たちはすでに古墳が仏教のスツーパ(塔・卒塔婆)であることを知り、
奈良には大太郎法師・ダイタラポッチのウッタラが早く布教して、
銅鐸などを残したことを知っている。
前記の円墳・方墳以前の前方後円墳は彼等のものである。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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あとは前記のとおり副葬品の鏡や武具や、
筒形や琴柱(ことじ)形や合子(ごうす)形、鍬(くわがた)形、
紡錘車(ぼうすいしゃ)形、るつぼ(柑)形、
農耕具形などの石製品、曲玉や管玉などの装飾品。
特殊な文物として家屋文鏡や環頭と、
きぬがさ(蓋)形埴輪を代表とする
器材埴輪といったものが展示されている。
この中で特に重要なのが合子(ごうす)形石製品である。
合子(ごうす)は現在も寺院で香器として
使われているものと全く同じといっていい
蓋付きの円形容器で、短い脚がついている。
この姿は戦前まで、まだ使われていた、
花見などの行楽時に弁当などを天秤棒で担いでいく道具の
「行器(ほっかい)」にそっくりでもある。
ただ内容物が違うから大きさが変わるだけである。
行器(ほっかい)は薄く軽く削った木を曲げて造った漆器であるから、
合子(ごうす)も本来は漆器だった時代の姿を、
その脚に残していると考えていい。
仏教の香具はいうまでもなく死者を弔うためのものである。
それが副葬品の中に必需品として入っているのは当然のことだが、
それらが遺品として存在するということは、被葬者が仏教徒であり、
その文化がインドからのものであることを証言している。
私たちはすでに古墳が仏教のスツーパ(塔・卒塔婆)であることを知り、
奈良には大太郎法師・ダイタラポッチのウッタラが早く布教して、
銅鐸などを残したことを知っている。
前記の円墳・方墳以前の前方後円墳は彼等のものである。
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