『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:14頁
だが垂仁天皇の命令に従ったのは邪馬壹国民だけだから、
倭国政権側の人々は、その後も殉葬を続けた。
それは例の景初三年鏡の出た古墳に明瞭に見られる。
そこにはその鏡をもった女性の柩を中心に、
それを守護する形で左右に男性が葬られていた。
だからこれは明かに位宮の禁止とは無関係な古墳で、
壹與政権系の人物の墓ではないし、
しかも女王の墓としか考えられない遺体配置になっている。
卑弥呼政権側の古墳であることは疑いない。
このこともまた、
倭(ウワイ)国政権は、首都・巴利国=隼人町での戦いで
位宮と壹與軍に敗れ、
首都を奪われはしたが消滅したのではなく、
東の宮崎県側へ大移動したことを示している。
そのコースは宮崎県の西都原(サイトバル)に
大量の古墳群を残したあと大分県へ進む。
この間(かん)の戦闘は、
卑弥呼側の闘将・景行天皇・大足彦忍代別(載斯烏越(タイシオジゥオ))の事跡として
『記・紀』に書かれており、
東に海を越えること千里の愛媛県に、
卑弥呼の語源・ぺマカ(パーリ語の「愛」)への当て字
『愛(え)』媛(ひめ)の国名を残したが、
それは後に壹與を意味する伊豫(壹與(イヨ))に変えられた。
まず卑弥呼政権の国になり、
後に壹與政権の国になっているから、
壹與政権は同じコースを進んでいる。
ここでウワが再び重大な問題になる。
壹與の国なら『邪馬壹国』という堂々たる国名がある。
卑弥呼政権の使った倭国=ウワイなど使う必要はないからである。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊
ウワイト
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ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2010年4月14日水曜日
2010年4月13日火曜日
倭と邪馬壹国、古墳埴輪が2政権の差を示す
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:13頁
だから卑弥呼の死の直後には大冢が造られたが、
それは次の男王の手によるもので、
まだ卑弥呼系倭国政権時代である。
しかし女王でないといけないという宗教反乱にあって
王位を追われたあとへ位宮が乗り込み、
壹與を女王にいただく新政権を樹立した。
この時、初めて邪馬(ジャマ)壹国が生まれたから、
伊都国に滞在していた帯方郡使張政が、
彼より先に九州へ来て伊都国で卑弥呼に会った
帯方郡使・梯儁(テイシュン)が調査して、
報告した帯方郡からの行程衷に、
新たな情報として、
伊都国以南の国々、
投馬国・邪馬壹国・奴(ノ)国(福岡県)・不弥国の4か国を書き加えた。
この国々は梯儁の知らなかった国々で、
いずれも卑弥呼の死後に、
新しく生まれたり、移動したり。
重要な意味をもち始めたために、
政治の表面に登場してきた国々である。
もちろん卑弥呼は、
それらの邪馬壹国も福岡の奴国も不弥国も知らずに死んだ。
『日本書紀』は垂仁天皇、すなわち位宮が、
男王を葬った古墳に殉葬された隼人=パーリ人たちが、
死ぬまで泣き叫び続けるのを見て、
野蛮な悪習だから今後は殉葬をやめて、埴輪で代用せよと、
野見宿祢の提案を採用して命令したと書いている。
その記事の通り、埴輪のある古墳が確かに実在する。
位宮は古墳を禁止したわけではないから、その後も古墳は造られ続けたが、
これで埴輪のある古墳は邪馬壹国系の壹與政権側のものだと確認できる。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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だから卑弥呼の死の直後には大冢が造られたが、
それは次の男王の手によるもので、
まだ卑弥呼系倭国政権時代である。
しかし女王でないといけないという宗教反乱にあって
王位を追われたあとへ位宮が乗り込み、
壹與を女王にいただく新政権を樹立した。
この時、初めて邪馬(ジャマ)壹国が生まれたから、
伊都国に滞在していた帯方郡使張政が、
彼より先に九州へ来て伊都国で卑弥呼に会った
帯方郡使・梯儁(テイシュン)が調査して、
報告した帯方郡からの行程衷に、
新たな情報として、
伊都国以南の国々、
投馬国・邪馬壹国・奴(ノ)国(福岡県)・不弥国の4か国を書き加えた。
この国々は梯儁の知らなかった国々で、
いずれも卑弥呼の死後に、
新しく生まれたり、移動したり。
重要な意味をもち始めたために、
政治の表面に登場してきた国々である。
もちろん卑弥呼は、
それらの邪馬壹国も福岡の奴国も不弥国も知らずに死んだ。
『日本書紀』は垂仁天皇、すなわち位宮が、
男王を葬った古墳に殉葬された隼人=パーリ人たちが、
死ぬまで泣き叫び続けるのを見て、
野蛮な悪習だから今後は殉葬をやめて、埴輪で代用せよと、
野見宿祢の提案を採用して命令したと書いている。
その記事の通り、埴輪のある古墳が確かに実在する。
位宮は古墳を禁止したわけではないから、その後も古墳は造られ続けたが、
これで埴輪のある古墳は邪馬壹国系の壹與政権側のものだと確認できる。
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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2010年4月12日月曜日
本学が初めて解いた「古墳人の謎」
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:12頁
そしてそれらはさらに、
その政権が、同じ南九州出身であっても、
卑弥呼政権と壹與政権のどちらの後継者だったかまでも記録している。
それは興が、
天照大神や豊受大神の信仰を受け継いだ天皇だったことを立証しているし、
この二人の大神が卑弥呼と壹與であることも、
今では疑いのない事実である。
ではあるが卑弥呼は仏教女王だったのに、
皇大神宮の信仰は神道である。
このことは興が造営し始め、
その直線上に武である雄略天皇の陵が造られ、
それが皇大神宮に結ばれたのは、
倭の五王が単に古墳人だった事実のみでなく、
彼らが壹與政権の後継者だったことを証言しているのである。
するとこれはた五王に先行して大阪府に景初三年鏡を残し、
出雲に去った政権は旧卑弥呼政権の大隈の人々であり、
興の大古墳に先行する古墳群の建造者たちだったことが疑いなくなる。
こうして発掘考古学が解決の法をもたない
「古墳の謎」は、
私たちの「言語復原史学」によって始めて雲散霧消し跡形もなくなる。
我が国の考古学の遅れは、
本学を知らない無知が原因だというほかない。
『三国史記』は蓋盧王が古墳の造り方を知らず、
高句麗のスパイ道琳に騙され、
教えられて始めて大古墳群を造ったと書く。
これは高句麗も支配した孝霊天皇の子・卑弥呼は、大隈に葬むられたが、
壹與政権側の応神天皇以後は、
八幡社群や大三島神社などが示す神道であることに符合する。
『参考』
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そしてそれらはさらに、
その政権が、同じ南九州出身であっても、
卑弥呼政権と壹與政権のどちらの後継者だったかまでも記録している。
それは興が、
天照大神や豊受大神の信仰を受け継いだ天皇だったことを立証しているし、
この二人の大神が卑弥呼と壹與であることも、
今では疑いのない事実である。
ではあるが卑弥呼は仏教女王だったのに、
皇大神宮の信仰は神道である。
このことは興が造営し始め、
その直線上に武である雄略天皇の陵が造られ、
それが皇大神宮に結ばれたのは、
倭の五王が単に古墳人だった事実のみでなく、
彼らが壹與政権の後継者だったことを証言しているのである。
するとこれはた五王に先行して大阪府に景初三年鏡を残し、
出雲に去った政権は旧卑弥呼政権の大隈の人々であり、
興の大古墳に先行する古墳群の建造者たちだったことが疑いなくなる。
こうして発掘考古学が解決の法をもたない
「古墳の謎」は、
私たちの「言語復原史学」によって始めて雲散霧消し跡形もなくなる。
我が国の考古学の遅れは、
本学を知らない無知が原因だというほかない。
『三国史記』は蓋盧王が古墳の造り方を知らず、
高句麗のスパイ道琳に騙され、
教えられて始めて大古墳群を造ったと書く。
これは高句麗も支配した孝霊天皇の子・卑弥呼は、大隈に葬むられたが、
壹與政権側の応神天皇以後は、
八幡社群や大三島神社などが示す神道であることに符合する。
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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2010年4月11日日曜日
用語の地域差が立証する倭の五王の出自(しゅつじ)
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:11頁
倭王・武=雄略天皇が、
仮に在来説や邪馬台国大和説などの言う奈良県人だったとしたら、
高市王の彼は、タケシでなくタカシと名乗ったはずだから、
その当て字には武ではなく、
貴や隆・敬などを選ぶ以外なかったのである。
このように五王の名乗りのたった一字までもが、
彼等の出身地が南九州だったことを、
その「高市=武」によって充分に、
かつ完全に記録し証明し続けているのだということも、
また本学の真価の高さを教えてくれる。
それなのに、
こんなに重要な名乗りを何の研究も考慮もせずに、
ただ単純に「サン・チン・セイ・コウ・ブ」としか読めずにいて、
その発音を使って平気で議論し、
論文を発表している「学者」たちが、
我が国建国史の真実を発見したり復元したりできるわけがない。
この武の先代、
倭王・興が『三国史記』百済本紀の蓋盧(コウロ)(コウ国(ラ))王で、
世界最大の墓・巨大古墳群の建造者だということは、
すでに拙著や本講で許しくお話しした通りだが、
それらには仁徳天皇陵という堺市の大仙陵や
羽曳(ハビキ)野市の応神天皇・誉由陵があり、
この2大前方後円墳を結ぶ直線を東に延長すると、
雄略天皇陵を経て崇神天皇陵に達し、
さらに東へ延長すると
伊勢湾岸の、伊勢神宮が最初に建てられた場所・元伊勢に到る。
その神殿はその後、湾の水位が上がって水没したため、
現在地に連座したという記録が残っている。
『参考』
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倭王・武=雄略天皇が、
仮に在来説や邪馬台国大和説などの言う奈良県人だったとしたら、
高市王の彼は、タケシでなくタカシと名乗ったはずだから、
その当て字には武ではなく、
貴や隆・敬などを選ぶ以外なかったのである。
このように五王の名乗りのたった一字までもが、
彼等の出身地が南九州だったことを、
その「高市=武」によって充分に、
かつ完全に記録し証明し続けているのだということも、
また本学の真価の高さを教えてくれる。
それなのに、
こんなに重要な名乗りを何の研究も考慮もせずに、
ただ単純に「サン・チン・セイ・コウ・ブ」としか読めずにいて、
その発音を使って平気で議論し、
論文を発表している「学者」たちが、
我が国建国史の真実を発見したり復元したりできるわけがない。
この武の先代、
倭王・興が『三国史記』百済本紀の蓋盧(コウロ)(コウ国(ラ))王で、
世界最大の墓・巨大古墳群の建造者だということは、
すでに拙著や本講で許しくお話しした通りだが、
それらには仁徳天皇陵という堺市の大仙陵や
羽曳(ハビキ)野市の応神天皇・誉由陵があり、
この2大前方後円墳を結ぶ直線を東に延長すると、
雄略天皇陵を経て崇神天皇陵に達し、
さらに東へ延長すると
伊勢湾岸の、伊勢神宮が最初に建てられた場所・元伊勢に到る。
その神殿はその後、湾の水位が上がって水没したため、
現在地に連座したという記録が残っている。
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
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2010年4月10日土曜日
興の所領の変遷と武による読み替え地名「高市(タケシ)」
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:10頁
だから従来『出雲神話』と呼ばれてきたものは、
これに卑弥呼政権崩壊と大化の倭国政権消滅時のものに、
ギリシャ神話までが混じり合っているが、
その最も中核になっているのは、
やはりこの倭王・済の時の国譲りだということになる。
また一見、自然な混乱にみえる
『記・紀』の『国譲り神話』も、
5世紀と7世紀という時代の近さからみて、
真相を隠すために、
わざと混ぜ合わせて作った
『政略用の作品』だという結論は動かない。
こう見えてくると次の興の名乗りはさらに多くを物語る。
その名は単に河内だけでなく四国の高知も指している。
また大阪市の高津は沖縄発音でタカチとも読める。
これは高族居住地も意味しているから、
3千年前に沖縄に移住してきた
カリエン人の子孫たちの居住地だったことがわかる。
興は中央政権が四国~淡路島にあった当時、
皇子の所領として高知を与えられていたのでコウを名乗り、
済の死後、
領土に加えた土地に河内(コウチ)・高市(コウチ)と命名したが、
発音はいずれもコウチだった。
その高市を武が相続した後、
興当時のままではまぎらわしいと、
文字は高市のままで、発音だけをタケシに変えた。
このタカをタケと発音するのは南九州発音だから、
五代を経過しても、
彼等はやはり南九州語を話していたことがわかるのである。
しかし5代にわたって拡大した国土のどこにも、
ヤマトという国名は全く見(み)当たらない。
『参考』
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だから従来『出雲神話』と呼ばれてきたものは、
これに卑弥呼政権崩壊と大化の倭国政権消滅時のものに、
ギリシャ神話までが混じり合っているが、
その最も中核になっているのは、
やはりこの倭王・済の時の国譲りだということになる。
また一見、自然な混乱にみえる
『記・紀』の『国譲り神話』も、
5世紀と7世紀という時代の近さからみて、
真相を隠すために、
わざと混ぜ合わせて作った
『政略用の作品』だという結論は動かない。
こう見えてくると次の興の名乗りはさらに多くを物語る。
その名は単に河内だけでなく四国の高知も指している。
また大阪市の高津は沖縄発音でタカチとも読める。
これは高族居住地も意味しているから、
3千年前に沖縄に移住してきた
カリエン人の子孫たちの居住地だったことがわかる。
興は中央政権が四国~淡路島にあった当時、
皇子の所領として高知を与えられていたのでコウを名乗り、
済の死後、
領土に加えた土地に河内(コウチ)・高市(コウチ)と命名したが、
発音はいずれもコウチだった。
その高市を武が相続した後、
興当時のままではまぎらわしいと、
文字は高市のままで、発音だけをタケシに変えた。
このタカをタケと発音するのは南九州発音だから、
五代を経過しても、
彼等はやはり南九州語を話していたことがわかるのである。
しかし5代にわたって拡大した国土のどこにも、
ヤマトという国名は全く見(み)当たらない。
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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2010年4月9日金曜日
先住民・出雲人は卑弥呼系。勝った済は壹與系
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:9頁
なぜか?
…それは倭の五王が取ったこれらの地域が、
彼等以前に、
すでに別系の南九州人によって
占拠されていたという動かぬ証拠になるからである。
なぜなら「イズミ」と発音する地名は、
ポセイドンから生まれた名詞
「百済出水(ホセイズン)」の後半部であり、
鹿児島県西部の出水地方からの移住者がつけた地名だとするしかない。
そしてそこにある4世紀古墳から副葬された景初三年鏡が見つかっている。
倭王・済(スミ)に先行して和泉地方を領有していたのは、
間違いなく出水地方を故郷とする倭人たちだったのである。
こう見えてくると、
この和泉地方の王が政権を譲って落ちて行った先がどこだったかも、
明確に見えてくる。
それは出雲以外にはありえない。
本講で先にお話したように、
イドン→イヅン=出水→イヅミ=和泉→イヅン=出雲と、
その当て字を比較してみると、
出雲が一番、元のイヅンに近い当て字である。
ということは、出雲に移った人たちは、
ポセイドン信仰に最も近い古い信仰の持ち主たち=卑弥呼に近い人たちだが、
倭済はオオスミとも読めるから、
出雲へ去った出水系の人たちとは別系の、
大隅系の王、
すなわち壹與政権の王だったので、
和泉は大隅系のイヅミであることを示す意味で、
宋帝への信書にわざわざ
「倭済」のサインをしたためたのだとみても、
以上の考証による断定結果と少しも食い違わない。
『参考』
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なぜか?
…それは倭の五王が取ったこれらの地域が、
彼等以前に、
すでに別系の南九州人によって
占拠されていたという動かぬ証拠になるからである。
なぜなら「イズミ」と発音する地名は、
ポセイドンから生まれた名詞
「百済出水(ホセイズン)」の後半部であり、
鹿児島県西部の出水地方からの移住者がつけた地名だとするしかない。
そしてそこにある4世紀古墳から副葬された景初三年鏡が見つかっている。
倭王・済(スミ)に先行して和泉地方を領有していたのは、
間違いなく出水地方を故郷とする倭人たちだったのである。
こう見えてくると、
この和泉地方の王が政権を譲って落ちて行った先がどこだったかも、
明確に見えてくる。
それは出雲以外にはありえない。
本講で先にお話したように、
イドン→イヅン=出水→イヅミ=和泉→イヅン=出雲と、
その当て字を比較してみると、
出雲が一番、元のイヅンに近い当て字である。
ということは、出雲に移った人たちは、
ポセイドン信仰に最も近い古い信仰の持ち主たち=卑弥呼に近い人たちだが、
倭済はオオスミとも読めるから、
出雲へ去った出水系の人たちとは別系の、
大隅系の王、
すなわち壹與政権の王だったので、
和泉は大隅系のイヅミであることを示す意味で、
宋帝への信書にわざわざ
「倭済」のサインをしたためたのだとみても、
以上の考証による断定結果と少しも食い違わない。
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2010年4月8日木曜日
名乗りの発音差は先住民語のせい
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:8頁
この音読と訓読の違いはどういうことなのか?。
過去にもこの王たちは親子関係が単純でなく不鮮明だとして、
分割する案が出ていることはご存じの通りである。
たしかに『宋書』の記事は、
それを疑わせるような書き方になっている。
いまこの発音差を重ね合わせると、
いかにもそれが真実だったように思えてくる。
この発音差は天皇たちの国籍が変わったせいなのか?
…それ程ではなくても、
別系の王が交互に即位した痕跡なのだろうか?。
しかし発音は人種とは無関係に、その地域に土着する。
親の国籍や発音がどうであろうと、
次の世代になれば、その地域の言葉をそっくりそのままに話す。
五王各人固有のこの名乗りが領土拡大に伴なう新領地名であることは、
すでに確認済みだから、
彼等はその名乗りの地域の住民からみれば「よそ者」であり、
新来者にすぎないから。
いかに武力に勝っていても、数ではとうていかなわないので、
多数が使っている言葉のほうを使うことになる。
だとすれば倭済が獲得した地方をイズミと呼ぶから、
済はセイでなくスミへの当て字として使い、
武も占領した地域・高市をタケシと発音していたから、
武はブではなくタケシへの当て字として使ったのであって、
天皇たちの国籍や系統が変化したのではないと裁定できる。
するとこの間題はここから、
重大な局面に突入することになる。
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この音読と訓読の違いはどういうことなのか?。
過去にもこの王たちは親子関係が単純でなく不鮮明だとして、
分割する案が出ていることはご存じの通りである。
たしかに『宋書』の記事は、
それを疑わせるような書き方になっている。
いまこの発音差を重ね合わせると、
いかにもそれが真実だったように思えてくる。
この発音差は天皇たちの国籍が変わったせいなのか?
…それ程ではなくても、
別系の王が交互に即位した痕跡なのだろうか?。
しかし発音は人種とは無関係に、その地域に土着する。
親の国籍や発音がどうであろうと、
次の世代になれば、その地域の言葉をそっくりそのままに話す。
五王各人固有のこの名乗りが領土拡大に伴なう新領地名であることは、
すでに確認済みだから、
彼等はその名乗りの地域の住民からみれば「よそ者」であり、
新来者にすぎないから。
いかに武力に勝っていても、数ではとうていかなわないので、
多数が使っている言葉のほうを使うことになる。
だとすれば倭済が獲得した地方をイズミと呼ぶから、
済はセイでなくスミへの当て字として使い、
武も占領した地域・高市をタケシと発音していたから、
武はブではなくタケシへの当て字として使ったのであって、
天皇たちの国籍や系統が変化したのではないと裁定できる。
するとこの間題はここから、
重大な局面に突入することになる。
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