2010年4月7日水曜日

和漢に2分している五王の名の発音

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:7頁

これまで折りに触れて、あらましはお話ししてきたが、

なお一層詳細な証拠群が望まれるこの

『国生み』の、より具体的な証拠と史料群を、

倭の五王史から順を追ってご覧にいれ、

たとえば淡路島の伊弉諾尊は、

卑弥呼政権の後か?

壹與政権の後か?

といった未到の部分の史実が、

どこまで確実、詳細に把握できるか、

という実例を次の主題に選んでみよう。

五王の名乗りについて、

これまでまだ扱わなかった問題の一つに、

名乗りの発音が2種類に分かれているという事実がある。

讃はサンと発音すれば讃岐の讃に合い、

阿波と合わせるとオオサザキと訓(よ)めて

仁徳天皇のオオサザキに一致する。

珍はチンと発音すれば沖縄(ウチナ)のチナから

大阪湾の茅沼(チヌ)の海に合い、

ウは沖縄~大隅語の大でオオサザキのオオと同じものだから、

珍は讃と全く同じ様式の名で、サン、チンともに漢音である。

ところが次の済になると『宋書』が書く

「倭済」はピッタリ和泉(いずみ)・泉州のイズミに合うから済はセイではなく

「スミ」への当て字だったことが確認できる。

この発音は漢音ではなく和訓で、讃・珍とは異なっている。

それなのに次の興は

高知・高(コウ)津・河内(コウチ)に共通するコウであって、

また漢音に戻り、それに続く武の正しい読み方はブではなく、

武市(タケチ)・高石(タケシ)・高市(タケシ)に共通するタケシに合い、

これはまた和訓に戻るので明かに音訓2種類に分かれている。

『参考』

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2010年4月6日火曜日

水戸黄門が創建した伊弉諾(イザナギ)神宮

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:6頁

その神宮は、今、津名郡一宮町にあるが、

この町名も戦後のものである。

黄門は私たちのように伊弉諾の尊と国生みを

史実として捉えたわけではなかったのである。

黄門当時の日本人が、

ただ利潤の追及と幼児的な興味を追うだけの低級な国民から、

もっと日本の歴史を知り、先祖の功業を意識して、

より高い教養によって国の文化を高めるような高級な国民にしたいと、

神戸の湊川に楠正成を祭る湊川神社を建てたのと同じく、

「神話としての国生み」の舞台になっている淡路島に、

伊弉諾の尊を祀る神社が無いことを慨嘆して、

この神宮を創建したのである。

目的は国民の教養を高め、

国民精神を高揚させることにあって、

史実を追及したり復元しようとしたのではない。

だからその位置も淡路島ならどこでもよかったのである。

しかし私たちは今や光圀の域をはるかに超えて、

史実としての伊弉諾尊を復元できるまでに至った。

それによって黄門が考えも及ばなかった高い教養と自信が、

日本人のものになろうとしているのである。

今では伊弊諾尊は子供だましの作り話とさ
れてきた

『神話の主人公』ではなく、

『真の大和朝廷の生みの親』として、

真実の日本誕生の消長に昇りつめた。

人工的な1建造物にすぎない神社とは

比較にならない壮大な真実の歴史が、

今、私たちによって復元されつつあることを、

国民はもちろん、

尊や黄門の霊も心から喜んでいると思う。

『参考』

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2010年4月5日月曜日

小地名でも古墳壁画を超える貴い価値をも

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:5頁

父がその荒れ地に日本最初の既製服量産(レディメード)工場を建て、

大阪市の要請を受けて川に私費で橋を架けたのが

『緑橋(みどりばし)』だったが、

その「緑橋」は今、なんと!

オフィスや人家が密集する大都心の名に変貌している。

その間には
太平洋戦争による戦禍もあったのに、

私の記憶の中だけでも、

こんなに変転するのである。

史上有名な平城京跡でも、奈良市街になったわけではない。

周知のように農地や荒れ地として横たわっていた。

だから古代の首都を現在の主要地名に結びつけようとするのは誤りである。

今は小字(こあざ)ていどの地名になっていても、

軽視したり無関係視したりするのはいけない。


現状は古代を継承していないはうが多いからである。

だからこそ消滅寸前の小地名でも、

古墳の希少壁画を超える非常に負い価値があるのである。

「古代の首都は現在も少なくとも都市でなければ証拠にならない」と

言った本学への反撃者もいたが、

あなたにはそれが幼稚な暴論だと、

よくおわかり戴けると思う。

淡路島の伊弉諾神宮も以上のような「時代違い」の例に入る。

この神宮も古代からの遺跡ではなく、

やはり江戸時代に、水戸光圀が創建したものである。

地名は単なる無形の発音に過ぎないと思われ勝ちだが、

実際には大地、距離、方位など有形のもの=遺跡で構成されている。

水戸黄門は何を根拠に、

何を考えて、そんな神宮を建てたのだろうか?。

『参考』

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2010年4月4日日曜日

ウワジマ命名の背景と古代都市の存続度

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:4頁

この宇和島命名問題は30年ほど前にも指摘されて再検討したもので、

その結論を手短(てみじ)かに要約すると、宇和島は確かにイタジマだったが、

江戸時代以前の複数の文献に愛媛西岸に「ウワの海」の名と、

ウワのつく地名が記録されている。

またイタの名そのものが一大であり、伊都であって、後にお話しする八幡その他、

倭国と切り離せない地名が複合して愛媛地域に密集している。

命名者・伊達氏そのものも仏教の守護神

「伊達天(イダテン)」を名乗る仏教倭国の後裔で、

前領地名ウワも、間違いなく「大倭(ウワ)」を意味していたことなども、

江戸時代には文献などの表面には出ないが、

本学の常識から推して容易に判定のつく問題だった。

むしろここで注意が必要なのは、

現在の都市・宇和島の位置に

古代の首都・大倭之国があったとするのが正しいかという点である。

なぜなら古代の首都や大都市は短命で、永続していないからなのだ。

シュメル、エジプト、インド周辺、ギリシャ、東南アジア、中国、中南米の

どの古代文明をとってみても、

その大遺跡は砂漠やジャングルや荒れ地や高山の頂上などに、

無人の廃墟としてしか残っていない。

私の小さな体験を振り返ってみても、

小学校に入学した東京市郊外は農村そのものだったし、

その後、生活した大阪市の、大阪城の東の地域も、

東は生駒山の麓まで一望できる、

田畑と荒れ地以外なにもない農村地帯だった。

『参考』

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2010年4月3日土曜日

宇和島は果たして大倭之国だったか?

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録06:3頁

淡路島を拠点とした『国生み』とは、

倭の五王の最後の王・武による今の奈良県高市地方侵入による、

のちの大和朝廷(天武天皇以後)の創設という視点から見たもので、

「地方政権時代から脱皮して、中央政権としての地盤を確立し、

朝廷による統一国家を生み出した」

という意味の国生みだったことを、

前講までで一応ご納得いただけたと信じている。

では、この建国のあらすじは、

信頼できる証拠や証明をどれくらいもっているか?。

それをどう見つけ、どう理解し、どう説明して、

それが史実の残した貴重な文化財であり、

国宝であることを、どう立証すればいいのか?。

その実例をこれからご覧戴くことにしよう。

東京都の塩崎恵一正会員は

史実の実地調査を入念に実行されてきた碩学で、

従来もいろいろご教示を戴いてきたが、最近のご指摘をあげると、

これまで本講で、

愛媛の宇和島は発音が大倭之国(ウワシマ)に一致するから、

四国倭国の都の名残で、

倭の五王の重要拠点の遺跡だとお話ししてきたが、

氏はその宇和島は江戸時代の伊達氏転封以前はイタジマという名で、

伊達氏前領地首府の「ウワ」という地名を移してウワジマに改めたもので、

古代地名ではないというご指摘を戴いた。

言語復原史学を否定する説には、このご指摘に類するものが多く、

粗雑に大まかな座標として利用していた愚に気づき、

貴重なご指摘に深く感謝申し上げている。


『参考』

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2010年4月2日金曜日

いま初めて解った『国生み』の真意

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:12頁

もとは上下2つの立神岩があったが、下立神岩は崩落して今はない。

上立神岩だけが沼島中央部の東海岸の海中に、

今も古代の姿をとどめて、大阪湾を背に立っている。

その真東の対岸は和歌山県日南市「日方(ひがた)」である。

この地名の対照からみて上立神岩は、

伊勢の二見(ふたみ)が浦の夫婦(めおと)岩と同じ性格の、

太陽を崇拝するシンボルだったことがわかる。

すると上下ー対(つい)の立神岩も本来は夫婦(めおと)岩だったのであり、

それが伊弉諾(イザナキ)・伊弉冉(イザナミ)の2神を表現する象徴であり、

だからこそ夫婦の道を説き、

女性上位では国土獲得は難しく国家の経営と永続は

期待できないという統治哲学などを教えつつ、

国土や3貴子を生む物語りの母胎になったことが、容易に推理できる。

そればかりでなく、

これまで不明だった、二見(ふたみ)が浦の夫婦岩の真意も、

皇大神宮の本来の信仰の性格もわかり、

淡路島から伊勢までの天皇家の血統に至るまで、

その真相と繋がりがみえてくる。

また仁徳天皇陵から伊勢に至る遺跡の直列とも

淡路島が深く関わっていることも見えてくる。

「写真」上神立岩

『参考』

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2010年4月1日木曜日

今も実在する『帝の(ミカドの)柱』インギーラ

『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:11頁

しかし幾ら発音がうまく合っても、

意味が通じなければ、なんにもならない。

一体?このパリー語の意味はどんなものなのだろう?。

これには『帝柱』という訳がついている

日本語でいえば「ミカドの柱=天皇の柱」であり、

その意味は「国の御柱」といったところだ。             

こうみてくると『記・紀』の『国生み』の最重要モチーフは、

男女2神が「国の御(み)柱」を回ることにある。

どこからみても「磤馭盧(インギーラ)」とは、

この『帝柱』だったのであり、

それが理解できない人々が、

ただその発音に当て字しただけのものだったのである。

それをムリヤリ『古事記』の筆者が「オノゴロ」とコジつけ、

それだけでは不足なので「島」を追加した。

そのためそれが一見、

真実らしく見えたために真相が現在まで闇に葬られてきたのだ。

だがそれなら、どこかにその『帝柱』がなければならない。

わざわざ原語で記録されたのだから、

当時は隠れもない現実の事件として、

天皇と皇后がその帝柱めぐりに相当する行為を行ない、

それが国を生むという歴史的大事件の象徴として、

重大な意味をもっていたのである。

少なくとも伝承誕生当時には、

それがどこかに実在していなくてはならない。

そしてそれは今も実在している。

古来、オノゴロ島てはないかといわれそきた沼島(ヌシマ)に、

それは今も天に向かって聳えている。

立神岩と呼ばれているのがそれなのである。

『参考』

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