『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:14頁
出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征
「壹與をとりまく仏教名と列石遺跡」
壹與は卑弥呼の宗教的後継予定者であったのであり、
血縁者でもある(卑弥呼や弟の曾孫)が、
シーラバッガ派(シンドー教の一派)の位宮の養女として
(加治木著書及び通信講座)、
女王に共立され、自らは天御中主(ビシュヌー教徒)になった。
三角縁神獣鏡は卑弥呼の好物(鏡)と、
シンドー(西王母東王父、神獣)教を
折衷した要素を表現したもの=ビシュヌー教徒を
意味しているのではないだろうか。
壹與は結果として卑弥呼の仏教倭国を排して(タタス《仏を去る?》)、
ビシュヌーの倭国女王として宗教的に成長した女性である、
という意味が含まれている。
おつぼ山列石遺跡のすぐ目の前の山が「立岩」である
(…使用された石材は安山岩質のもので、杵島山の各所で見られ、
おつぼ山に近い立岩付近がその石材採集加工地といわれている。
立岩は神籠石の北東約800mに位置し、
おつぼ山東側によく見える一武堆市教育委員会による掲示板より)。
以上から、以下の図式が得られそうである。
壹與 --咄固(儒礼王)- 美川王(肥前王)-故国原王
朴赫居世 (基臨王) 300~331 331~371
富登 岐(黄、気) 多多須 良伊(雷)
穂・投 霧(之国) 立の(立岩の)
伊勢(伊須須)
伊江島=依
壹国=依、姫木山 おつぼ山列石遺跡 雷山列石遺跡
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2010年3月7日日曜日
2010年3月6日土曜日
日本古代王族の婚姻系譜(29)
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録05:13頁
出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征
「ヒメをめぐる雑考」
さて、記紀神武天皇といえば、古事記の皇后選定段に
「富登多多良伊須須岐比売命亦の名は比売多多良伊須気余理比売」という名があり、
続いて
「七媛女(ななおとめ)…その中に伊須気余理比売ありき、ここに大久米命(が云々…)」
という部分がある。
「七媛女」といい「八少女、八美女」というのは、
古代の「ウーマンズ(ウイーメンズ)ハウス」とかかわる表現であろう、
七と八の意味の鮮明は省略(僕はまだ解明していない)、
大久米は倭・久(留)米でもあるのではないか、
などと乱暴(?)な解釈で通過するとして、
富=穂(=種子島)、登=投(馬国)(十島村やトカラ列島)、
多多良=立(辰)の国(種子島であり、
また徳之島町手手、武堆市立岩〈山の名または山中のある箇所の名》)、
良伊=雷(雷山列石遺跡)、伊須須=伊勢の=伊邪国(鹿児島県伊作都)、
気=岐=霧(之国)、比売(「ヒメ」タタラ…の方のヒメ)=姫=
姫木山(鹿鬼島県隼人町国分市の境)、
余理=依=ユイ=イエ=伊江島、壹国=イエッマ
(加治木先生通信講座・現在も進行中)、
などの名乗りが復原されるから、
これはあきらかに壹與の名乗りでもある
(この部分はP133加治木義博「邪馬壹国の風雲」
魏志倭人伝詳解2原語復元史学会参照)。
もっと強くこだわると、
富登=太=フツ=仏=仏教、多良=多羅=倭国、
多多須=(タンバヒコ・タタス・道主王《御中主》)のタタスで、
これは天御中主神の別称か?
(アーガタは如来、タターガタは如去を意味するパーリ語という研究がある)。
『参考』
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2010年3月5日金曜日
日本古代王族の婚姻系譜(27)(28)
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:33・34頁
出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征
咄固の出生と成育の記録が「常陸国風土記那賀郡茨城の里条」である。
咄固は日増しに母の手に負えないくらい成長していったと書いてある。
家来を欲したが、母と伯父(息長日子王)は無力で、
付け人を付けてやることも出来なかった。
母が甕を投げたので天に昇れなかった(沖縄に帰ることが出来なかった)と、
咄固が死んだ時のことまで(愛媛県の雉之尾古墳に埋葬された)書いてある。
常陸国の風土記だから沖縄は無関係だと素人のような判断を下して、
それ以上の追及をやめるような者は、古代史研究に不向きな人に属する。
咄固の父は位宮であって、位宮が古事記、
日本書紀の神武天皇(の一人)であることは間違いないのだから、
神武天皇は間違いなく実在する。
ただ、位宮はその生存期間が限定されるから、
紀元前7世紀に即位したのでないことは間違いない。
神武天皇段には天武天皇の事跡が投影されている、
というのが「学会の常識」である。
他にも多くの神武天皇(のモデル)が含まれているというのが、
古事記神武天皇、日本書紀神武天皇段の結論ということになる。
そのモデルと彼の事跡を、
限り無く一人残さず、
一つ残さず鮮明していくのが古代史学であり、
古代史解明に従事する者の役割である。
「神武天皇は架空(の人物)である、これは歴史学の常識である
(某年しんぶん赤旗の『絹』記者)」などというのは、
「記紀神武天皇」の解明に従事する者への政治介入になるのではないだろうか。
加治木義博先生のKKロングセラーズ社シリーズは、
ある面で「記紀神武天皇」段の解明の著書であるから、
少なくとも入手通読の手間隙をかけるぐらいは、
「神武天皇に言及する」記者としての最低限の礼儀というものではなかろうか。
例えば「卑弥呼を攻めた神武天皇」にはこういう解明がある。
その日こそ、私たち日本人が、
「建国記念の日」として、尊重しようとしている日なのだから、
ここでいい加減に見通ごしてしまっては、なにもならない。
国家主義だとか帝国主義だとか、
皇国史観だとか唯物史観だとかいう看板は、
それを商売に利用している連中だけの問題で、
私たち大多数の日本人にとって迷惑な前世紀の遺物でしかない。
そんなものとは無関係に、純粋に日本という国の一つの出発点になった、
この「グレート・エポック」について知らない日本人は、
「文化人」の中に入る資格がないことは確かだ。
それは一体いっなのだろう。
だからここできっちりと、
この「大発見l」について正確に記憶しておいてほしい。
それは[西暦241年1月1日]=
「魏の少帝・芳の正始二年・辛酉(しんゆう)の春・更辰(こうしん)の朔の日(ついたち)」
である。(p37)。
以下の文章は各自で読んでいただくしかないが、
一言だけ付け加えるなら(おそれおおいことであるが)
この日付は個々の人の主義や主観で左右することが出来ない
「真理」であるということである。
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2010年3月4日木曜日
日本古代王族の婚姻系譜(25)(26)(27)(28)
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:31・32・33・34頁
出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征
3 北九州列石遺跡(おつぼ山、雷山、帯隈山)の築造者推定
美川王は肥前王で、美川王の祖母息長帯姫(壹與)が
久留米市とかかわりのある女性=倭女王であることは、
次の二つの説
話が残されていて、疑いようがない。
「万葉緯所引逸文風土記」
八小男八少女等、比(ここ)にこぞり逢いてイスス樹キ接(まじ)はりき
(p135山上伊豆母「神話の原像」岩崎美術社)
「住吉大社神代記」
…そこで、垂仁天皇の皇后は八大夫(やおとこ)と
八美女をひきつれてみずから神主となり、
神をまつった(p146谷川健一「白鳥伝鋭」集英社)
前者は歌垣(豊穣予祝の儀礼)のことだろうが、
後者は
「(この説話の舞台どなっている)八女県の藤山というのは今日、
久留米市郊外の藤山に比定されている」
とあるように、場所は久留米市である。
垂仁天皇は位宮で、位宮の妃は狭穂姫(初小の母)、
弟苅羽田=狭穂姫の妹(磐衝姫=播磨稲日大郎女の母)、
壹與(咄固の母)の三人で、
このうち壹與は「イスス」
(伊勢の、五十鈴《川》)とかかわりのある別名を持っている女性
(前の文は五十鈴川の川の名の縁起)である。
壹與は254年ごろ沖縄で咄固を産んだ
(咄固は儒礼王=首里王、284~298)。
晋書武帝妃泰始二年(266年)と、
同書四夷蛮伝・倭人条の「泰始初め、使いを遣わし、
訳を重ねて入貢す」とあるのは、壹與の献使とされている。
この年(266年)壹與は32歳位で、宗教家として成熟していく年齢に該当する。
咄固は12歳である。
咄固はトン(カラ)コで、トンカラコといえばトンカラリンだ(玉名市にある遺跡)、
玉名市の近くには菊池市や菊池川がある。
咄固の息子の美川王は肥前王の名乗りであるから(肥前は長崎県、佐賀県)、
美川王の出生はその周辺一帯のどこかであろう…。
だから咄固の妃は菊池姫で、
八女津姫の別名を持つ高田姫の妹にあたる女性ではないか…などと、
微かな手掛かりを頻りにして、
記録のない女性を復原した次第である(「七支刀」)。
本稿ではD系図のように修正したが、
これも文献的史料があってのことではないから、
読者への申し訳なさと、自分自身へや恥ずかしさとで充満している。
誰も、信用してかかる(認める)必要はないのであって、
僕もそれを(認めてもらえる)期待しているわけではない。
ただ、咄固の妃のおよその世代関係だけは、正しく修正されたものと確信している。
「D系図再掲」
4 5 6 7
難升米∥_|多婁王∥_|己婁王
中日女∥ 清姫∥ |菊池姫∥ |美川王
|高田姫∥ 咄固 ∥
烏越 ∥_|慕容傀
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出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征
3 北九州列石遺跡(おつぼ山、雷山、帯隈山)の築造者推定
美川王は肥前王で、美川王の祖母息長帯姫(壹與)が
久留米市とかかわりのある女性=倭女王であることは、
次の二つの説
話が残されていて、疑いようがない。
「万葉緯所引逸文風土記」
八小男八少女等、比(ここ)にこぞり逢いてイスス樹キ接(まじ)はりき
(p135山上伊豆母「神話の原像」岩崎美術社)
「住吉大社神代記」
…そこで、垂仁天皇の皇后は八大夫(やおとこ)と
八美女をひきつれてみずから神主となり、
神をまつった(p146谷川健一「白鳥伝鋭」集英社)
前者は歌垣(豊穣予祝の儀礼)のことだろうが、
後者は
「(この説話の舞台どなっている)八女県の藤山というのは今日、
久留米市郊外の藤山に比定されている」
とあるように、場所は久留米市である。
垂仁天皇は位宮で、位宮の妃は狭穂姫(初小の母)、
弟苅羽田=狭穂姫の妹(磐衝姫=播磨稲日大郎女の母)、
壹與(咄固の母)の三人で、
このうち壹與は「イスス」
(伊勢の、五十鈴《川》)とかかわりのある別名を持っている女性
(前の文は五十鈴川の川の名の縁起)である。
壹與は254年ごろ沖縄で咄固を産んだ
(咄固は儒礼王=首里王、284~298)。
晋書武帝妃泰始二年(266年)と、
同書四夷蛮伝・倭人条の「泰始初め、使いを遣わし、
訳を重ねて入貢す」とあるのは、壹與の献使とされている。
この年(266年)壹與は32歳位で、宗教家として成熟していく年齢に該当する。
咄固は12歳である。
咄固はトン(カラ)コで、トンカラコといえばトンカラリンだ(玉名市にある遺跡)、
玉名市の近くには菊池市や菊池川がある。
咄固の息子の美川王は肥前王の名乗りであるから(肥前は長崎県、佐賀県)、
美川王の出生はその周辺一帯のどこかであろう…。
だから咄固の妃は菊池姫で、
八女津姫の別名を持つ高田姫の妹にあたる女性ではないか…などと、
微かな手掛かりを頻りにして、
記録のない女性を復原した次第である(「七支刀」)。
本稿ではD系図のように修正したが、
これも文献的史料があってのことではないから、
読者への申し訳なさと、自分自身へや恥ずかしさとで充満している。
誰も、信用してかかる(認める)必要はないのであって、
僕もそれを(認めてもらえる)期待しているわけではない。
ただ、咄固の妃のおよその世代関係だけは、正しく修正されたものと確信している。
「D系図再掲」
4 5 6 7
難升米∥_|多婁王∥_|己婁王
中日女∥ 清姫∥ |菊池姫∥ |美川王
|高田姫∥ 咄固 ∥
烏越 ∥_|慕容傀
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ウワイト
古代史の画像
2010年3月3日水曜日
日本古代王族の婚姻系譜(22)(23)(24)
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:28・29・30頁
出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征
掖邪狗(拘)は正しくは(?)
「ヨーナ・ジャナ・公」で、このジャ「ナ」とジャ「ロ」は
同じ「~の」という意味の助詞にあたる。
この助詞はあってもなくても同じだから、
石勒はジャナクのナがロに変化したもので、
石虎のジャコはナ、ロの部分が省かれたものだと、
音韻学的には説明がつく。
「ソヤロ」「ソウジャロ」「ソヤナー」「ソウジャナー」「ソヤソヤ」という
俗会話を持ち出すと、少しは理解の足しになるかもしれない。
しかし、人の会話(発音)の場合はそうであるとしても、
人の名として記録される場合には、
勒には琉球(の支配者だった)、という名乗りも含まれたものであって、
石虎も人為的に選択された当て字であることに気付く必要がある。
この文字を教えたのは倭人(列島人)側であった、とだけは言えそうである。
劉淵、劉聡、劉曜の場合も淵はフチ、フヂで葛(フジ)、百済(フジ)、聡は襲王(ソウ)、
曜はヨース、余氏、尾久島の名乗りを持っていて、彼らの生地や故地、出身地を示している。
曜の場合で言えば、哀邪本王の王子の妃は星久島で曜を生んだことになるから、
屋久島と関わりのある女性だったのであ
る。
「系図J」
3 4 5 6
_|末仇2 ━ 末仇3 ━ 末仇4(扶余王玄)∥
|末仇∥ 蜂上王 ∥ |石城別
休礼∥ |哀邪本嬢 ∥_|高奴子
|味鄒∥_|哀部本王∥_|哀邪本皇子 ∥ |サホ姫 ∥
光明∥ 玉姫 ∥ |水歯郎女(五十香彦の妃)
|室比古王∥ 屋久島の女性∥__|劉曜
張氏 ∥_|劉聡(四男)
E系図とJ系図の室比古王の列を並立させてみると、次のようになる。
2 3 4 5
仇道(剄頚) ∥ |末仇∥_|末仇2 ━末仇3
(伊声耆) _ 休礼∥ (比流王)304~344
息長水依姫 ∥ |味鄒∥ |室比古王∥
光明∥ 張氏 ∥_|劉曜(四男)
僕の「ホケノ山古墳の被葬者特定」という論考の中で、
味鄒=山代大国淵、室比古王=劉淵であることは解明してあるから、
陳舜臣前掲書p384に「劉淵の祖父於夫羅(オフラ)は、献帝の東帰を援け、
その居住地は中原からごく近いところだったのです」と
ある文章のオフラのルビはオフロと変更出来る。
オフロはオフロー(=イフロー=ユーロー=ギリシャ人)である。
仇道は烏越(慕容渉)にとっても祖父である(仇道━臣濆姑━烏越)。
どちらから見ても合うものは、それが真実の系着であることの証拠である。
ギリシャ人である伯固(紀妃の孝霊天皇)の息子はやはりギリシャ人である。
この人種の名は、後のオホド大公王(継体天
皇)になって復活(?する。
オホド=オホロ=オフロ=イフロ(意はイとオの南方の発音を持っている)=
ギリシャ(人)になるからである。
劉淵は大航海王味鄒の息子で、彼自身も航海王(船長、海軍大将)だったし、
彼は三世紀未に沿海州で人望を得て、
ついに皇帝になった(漢)=304~310年病没。
沿海州で人望を得た、彼は航海王(大商人=海商)というのなら、
南九州、瀬戸内海のみならず、日本海沿岸と半島、大陸を航海(交易)していたのである。
2002年1月12日各紙の報道は紙面の大きさと内容面の両面において、
実に濃淡の差があって、尽きない興味をそそられるものであったが、
その報道とは、石川県七尾市の「万行(まんぎょう)遺跡」に関してであった。
「ヤマト政権の支配がはやくも及んでいた」という
パターン通り(共同配信?)の解説の他に、
「ヤマトとは異なる独自の勢力が、
朝鮮半島から日本列島へ放射状に伸びる交易ルートのうちの
一つを担っていたのではないか」
(山尾幸久・毎日新聞)などのコメントが掲載されていた。
報道の通り「三世妃未~四世紀始め(の倉庫群跡)」の年代が正しいものならば、
どう考えてもこの時期、
この地域を航行していたのは室比古王(劉淵)たちの商船、軍船である
(劉淵は名前が確認される彼ら豪族連合の一代表者にすぎない)。
劉淵の父は畿内、大和に移住していて、
息子の室比古王も瀬戸内海を航海したから、
ヤマトと無縁ではないが、どうみても、
彼、(室比古王)がヤマト政潅の代表者だったと
位置付けるわけにはいかないではないか。
彼が大和政権なら、彼が「大陸で皇帝に推される」筈はない。
「ヤマトとは異なる独自の勢力」の表現の方が正しいのだと思う。
また、味鄒も大和政権ではない。
「方位は北極星を基準にした真北に沿っており」
「高度な測量、設計技術がうかがえる」とあり、
天御中主(金味鄒)の息
子の宗教観を反映している。
室比古王は若狭の耳別の祖であり、
若狭は秦氏の居住が濃厚に確認される地域である。
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掖邪狗(拘)は正しくは(?)
「ヨーナ・ジャナ・公」で、このジャ「ナ」とジャ「ロ」は
同じ「~の」という意味の助詞にあたる。
この助詞はあってもなくても同じだから、
石勒はジャナクのナがロに変化したもので、
石虎のジャコはナ、ロの部分が省かれたものだと、
音韻学的には説明がつく。
「ソヤロ」「ソウジャロ」「ソヤナー」「ソウジャナー」「ソヤソヤ」という
俗会話を持ち出すと、少しは理解の足しになるかもしれない。
しかし、人の会話(発音)の場合はそうであるとしても、
人の名として記録される場合には、
勒には琉球(の支配者だった)、という名乗りも含まれたものであって、
石虎も人為的に選択された当て字であることに気付く必要がある。
この文字を教えたのは倭人(列島人)側であった、とだけは言えそうである。
劉淵、劉聡、劉曜の場合も淵はフチ、フヂで葛(フジ)、百済(フジ)、聡は襲王(ソウ)、
曜はヨース、余氏、尾久島の名乗りを持っていて、彼らの生地や故地、出身地を示している。
曜の場合で言えば、哀邪本王の王子の妃は星久島で曜を生んだことになるから、
屋久島と関わりのある女性だったのであ
る。
「系図J」
3 4 5 6
_|末仇2 ━ 末仇3 ━ 末仇4(扶余王玄)∥
|末仇∥ 蜂上王 ∥ |石城別
休礼∥ |哀邪本嬢 ∥_|高奴子
|味鄒∥_|哀部本王∥_|哀邪本皇子 ∥ |サホ姫 ∥
光明∥ 玉姫 ∥ |水歯郎女(五十香彦の妃)
|室比古王∥ 屋久島の女性∥__|劉曜
張氏 ∥_|劉聡(四男)
E系図とJ系図の室比古王の列を並立させてみると、次のようになる。
2 3 4 5
仇道(剄頚) ∥ |末仇∥_|末仇2 ━末仇3
(伊声耆) _ 休礼∥ (比流王)304~344
息長水依姫 ∥ |味鄒∥ |室比古王∥
光明∥ 張氏 ∥_|劉曜(四男)
僕の「ホケノ山古墳の被葬者特定」という論考の中で、
味鄒=山代大国淵、室比古王=劉淵であることは解明してあるから、
陳舜臣前掲書p384に「劉淵の祖父於夫羅(オフラ)は、献帝の東帰を援け、
その居住地は中原からごく近いところだったのです」と
ある文章のオフラのルビはオフロと変更出来る。
オフロはオフロー(=イフロー=ユーロー=ギリシャ人)である。
仇道は烏越(慕容渉)にとっても祖父である(仇道━臣濆姑━烏越)。
どちらから見ても合うものは、それが真実の系着であることの証拠である。
ギリシャ人である伯固(紀妃の孝霊天皇)の息子はやはりギリシャ人である。
この人種の名は、後のオホド大公王(継体天
皇)になって復活(?する。
オホド=オホロ=オフロ=イフロ(意はイとオの南方の発音を持っている)=
ギリシャ(人)になるからである。
劉淵は大航海王味鄒の息子で、彼自身も航海王(船長、海軍大将)だったし、
彼は三世紀未に沿海州で人望を得て、
ついに皇帝になった(漢)=304~310年病没。
沿海州で人望を得た、彼は航海王(大商人=海商)というのなら、
南九州、瀬戸内海のみならず、日本海沿岸と半島、大陸を航海(交易)していたのである。
2002年1月12日各紙の報道は紙面の大きさと内容面の両面において、
実に濃淡の差があって、尽きない興味をそそられるものであったが、
その報道とは、石川県七尾市の「万行(まんぎょう)遺跡」に関してであった。
「ヤマト政権の支配がはやくも及んでいた」という
パターン通り(共同配信?)の解説の他に、
「ヤマトとは異なる独自の勢力が、
朝鮮半島から日本列島へ放射状に伸びる交易ルートのうちの
一つを担っていたのではないか」
(山尾幸久・毎日新聞)などのコメントが掲載されていた。
報道の通り「三世妃未~四世紀始め(の倉庫群跡)」の年代が正しいものならば、
どう考えてもこの時期、
この地域を航行していたのは室比古王(劉淵)たちの商船、軍船である
(劉淵は名前が確認される彼ら豪族連合の一代表者にすぎない)。
劉淵の父は畿内、大和に移住していて、
息子の室比古王も瀬戸内海を航海したから、
ヤマトと無縁ではないが、どうみても、
彼、(室比古王)がヤマト政潅の代表者だったと
位置付けるわけにはいかないではないか。
彼が大和政権なら、彼が「大陸で皇帝に推される」筈はない。
「ヤマトとは異なる独自の勢力」の表現の方が正しいのだと思う。
また、味鄒も大和政権ではない。
「方位は北極星を基準にした真北に沿っており」
「高度な測量、設計技術がうかがえる」とあり、
天御中主(金味鄒)の息
子の宗教観を反映している。
室比古王は若狭の耳別の祖であり、
若狭は秦氏の居住が濃厚に確認される地域である。
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ウワイト
古代史の画像
2010年3月2日火曜日
日本古代王族の婚姻系譜(19)(20)(21)
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:25・26・27頁
出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征
350年:かって石虎の配下だった麻秋が符洪(胆咋)を暗殺。
354年:五十跡手(故国原王)が仲哀天皇(伊呂弗)に降伏する
(伊呂弗には、当時全盛だった慕容儁がバックにいた)。
362年:仲哀天皇が筑紫(北九州のどこか)で遭難(戦死)
=その相手は故国原王(この戦争は「肥後国風土記姫杜郷条」で推定できる)。
371年:南九州で近肖古王(五十琴)と王子
(実は多遅麻=近仇首王)が故国原王を戦死さす。
ふつう(?)、息子が親の仇を討つのであるが、
この371年の場合は親が息子の仇を
討ったという形(?)になっている(なお、親の仇《かたき》、
子の仇討ちなどというのは劇画的な表現だが、因果応報の説明にはなっている)。
Ⅰ系図の五十琴(近肖古王)、玉彦姫(神功鼻后)、布都久留(応神天皇)として、
H系図の真浄、武内宿祢、石川宿祢を吟味してみると、次の記録の意味がみえてくる。
1)百済本紀近肖古王条;真浄を「朝廷佐平」とし、国政をゆだねた。
2)仲哀天皇9年(362年)2月:仲哀天皇が戦死して武内宿祢が争議をおこなう。
3)神功皇后46(366)~52年(372年);久邸が往還。
4)応神天皇3年(392年);石川宿祢(他)を遭わす。
2、3、4の絶対年代は小林「4C」に従ったものである。
まず3の「久邸(右のこざとのない文字)」と1の「朝廷」を比較すると、
朝廷は宮廷と同じ意味になるから久=宮とすると、久邸はクティではなくキュウティで、
結局「朝廷佐平」のことではないのか、ということになる。
朝廷佐平とは朝廷を補佐する役割のことで、「朝廷ウチの朝臣アソミ」で、
これが武内宿祢や主要な役目(属性)であることは、
ほとんど定説化しているといえる(p359~岩波日本書紀二など参照)。
ただし、この属性は記紀編纂時代(当時)の位置付け、
百済本紀でいえば百済王朝側からの位置付けであって、
当時の金官加羅国でいえば彼自身が金官加羅国王、
朝廷そのものだったのである。
定説化といえば「武内宿祢は『実在者ではない』というのが定説」
とされているが、これは
① 年代を限定しない、
② 系譜上の位置を明らかにしない、
③ 名乗りとしての意味を解明しない、
そういう人たち(学者、研究者)の言い分である。
玉彦姫の兄の多遅麻も、別の系図では武内宿祢になっている。
なお、Ⅰ系図をみる限りでは神功皇后(玉彦姫)は、
なんと、
「前百済」王妃(皇太子妃)だった、ということになるではないか。
これは驚くべきことである。
系譜の中で、武内宿祢━石川宿祢の父子関係は確定しているから、
4の石川宿祢はF系図の石川宿祢の可能性が高い
(多遅麻の息子に、大別の他に印葉、伊予、小神がいて、
これらの誰かが「石川宿祢」と表現されたという可能性も完璧に
排除してしまうことは出来ない)。
いずれにしても、
ここでの推定のように
網浜茶臼山(武内宿祢)、
湊茶臼山(石川宿祢)の被葬者であるなら、
間違いなく特定個人ということになる。
百済本紀は1の真浄の属性として「性格がねじけていて…国民は彼を嫌った」
という意味の表現をしている。
これはあきらかに、
晋書載記の「石虎の描写」を意識して対照させている、といえる。
その中で、石虎は「尼僧を犯したり、
美女の首を撥ねて皿に載せて眺めて楽しんだり、
肉を刻んで羊の肉と混ぜて煮て食したり…」と、
身の毛のおだつような描写がされているが、
これらの描写はインドのカーリー女神やエンマ大王の属性そのものであって、
この時期の右虎たちが信奉した宗教に他ならない、
ということである、と僕には思える。
ともかく石虎と真浄の性格付けに対照が認められるということは、
両者の近親関係(二人は実の兄弟)の強力な傍証になる。
石勒はイソリクと読めるから、磯(城)と琉球という名乗り、
石虎はイソトラと読めるから
磯(城)投(ト)(馬)国(ラ)という名乗りが復原出来るだけでなく、
前者はシャ(ロ)ク、後者はシャコであるから
(掖)邪(シヤ)狗(ク)、(掖)邪(シャ)拘(コ)になって、
余・邪拘、余・邪拘
つまりギリシャ公(家長・族長)という意味だったのである。
どちらも八坂王(=掖邪狗《拘》)の子孫であることは系図B、Hが示している。
石勒も石虎も中国大陸で皇帝になったが、生粋の列島人だったのである。
そんなことを、後の記紀編纂事業の最高責任者たちが、
当時の中国(唐朝)の官吏たちにたやすく見破られてしまうような安易な(?)
歴史書を記述編纂するわけがないし、今の(21世妃)中国政府でも、
こんな歴史復原を認めない懸念が無しとはしない。
逆に言えば言語復原の操作だけが、歴史の真相を解明するのである。
『参考』
翻訳と辞書 [無料]
リンクフリー〔UTF-8 対応版〕
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
歴史徒然
歴史回廊
ウワイト
古代史の画像
出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征
350年:かって石虎の配下だった麻秋が符洪(胆咋)を暗殺。
354年:五十跡手(故国原王)が仲哀天皇(伊呂弗)に降伏する
(伊呂弗には、当時全盛だった慕容儁がバックにいた)。
362年:仲哀天皇が筑紫(北九州のどこか)で遭難(戦死)
=その相手は故国原王(この戦争は「肥後国風土記姫杜郷条」で推定できる)。
371年:南九州で近肖古王(五十琴)と王子
(実は多遅麻=近仇首王)が故国原王を戦死さす。
ふつう(?)、息子が親の仇を討つのであるが、
この371年の場合は親が息子の仇を
討ったという形(?)になっている(なお、親の仇《かたき》、
子の仇討ちなどというのは劇画的な表現だが、因果応報の説明にはなっている)。
Ⅰ系図の五十琴(近肖古王)、玉彦姫(神功鼻后)、布都久留(応神天皇)として、
H系図の真浄、武内宿祢、石川宿祢を吟味してみると、次の記録の意味がみえてくる。
1)百済本紀近肖古王条;真浄を「朝廷佐平」とし、国政をゆだねた。
2)仲哀天皇9年(362年)2月:仲哀天皇が戦死して武内宿祢が争議をおこなう。
3)神功皇后46(366)~52年(372年);久邸が往還。
4)応神天皇3年(392年);石川宿祢(他)を遭わす。
2、3、4の絶対年代は小林「4C」に従ったものである。
まず3の「久邸(右のこざとのない文字)」と1の「朝廷」を比較すると、
朝廷は宮廷と同じ意味になるから久=宮とすると、久邸はクティではなくキュウティで、
結局「朝廷佐平」のことではないのか、ということになる。
朝廷佐平とは朝廷を補佐する役割のことで、「朝廷ウチの朝臣アソミ」で、
これが武内宿祢や主要な役目(属性)であることは、
ほとんど定説化しているといえる(p359~岩波日本書紀二など参照)。
ただし、この属性は記紀編纂時代(当時)の位置付け、
百済本紀でいえば百済王朝側からの位置付けであって、
当時の金官加羅国でいえば彼自身が金官加羅国王、
朝廷そのものだったのである。
定説化といえば「武内宿祢は『実在者ではない』というのが定説」
とされているが、これは
① 年代を限定しない、
② 系譜上の位置を明らかにしない、
③ 名乗りとしての意味を解明しない、
そういう人たち(学者、研究者)の言い分である。
玉彦姫の兄の多遅麻も、別の系図では武内宿祢になっている。
なお、Ⅰ系図をみる限りでは神功皇后(玉彦姫)は、
なんと、
「前百済」王妃(皇太子妃)だった、ということになるではないか。
これは驚くべきことである。
系譜の中で、武内宿祢━石川宿祢の父子関係は確定しているから、
4の石川宿祢はF系図の石川宿祢の可能性が高い
(多遅麻の息子に、大別の他に印葉、伊予、小神がいて、
これらの誰かが「石川宿祢」と表現されたという可能性も完璧に
排除してしまうことは出来ない)。
いずれにしても、
ここでの推定のように
網浜茶臼山(武内宿祢)、
湊茶臼山(石川宿祢)の被葬者であるなら、
間違いなく特定個人ということになる。
百済本紀は1の真浄の属性として「性格がねじけていて…国民は彼を嫌った」
という意味の表現をしている。
これはあきらかに、
晋書載記の「石虎の描写」を意識して対照させている、といえる。
その中で、石虎は「尼僧を犯したり、
美女の首を撥ねて皿に載せて眺めて楽しんだり、
肉を刻んで羊の肉と混ぜて煮て食したり…」と、
身の毛のおだつような描写がされているが、
これらの描写はインドのカーリー女神やエンマ大王の属性そのものであって、
この時期の右虎たちが信奉した宗教に他ならない、
ということである、と僕には思える。
ともかく石虎と真浄の性格付けに対照が認められるということは、
両者の近親関係(二人は実の兄弟)の強力な傍証になる。
石勒はイソリクと読めるから、磯(城)と琉球という名乗り、
石虎はイソトラと読めるから
磯(城)投(ト)(馬)国(ラ)という名乗りが復原出来るだけでなく、
前者はシャ(ロ)ク、後者はシャコであるから
(掖)邪(シヤ)狗(ク)、(掖)邪(シャ)拘(コ)になって、
余・邪拘、余・邪拘
つまりギリシャ公(家長・族長)という意味だったのである。
どちらも八坂王(=掖邪狗《拘》)の子孫であることは系図B、Hが示している。
石勒も石虎も中国大陸で皇帝になったが、生粋の列島人だったのである。
そんなことを、後の記紀編纂事業の最高責任者たちが、
当時の中国(唐朝)の官吏たちにたやすく見破られてしまうような安易な(?)
歴史書を記述編纂するわけがないし、今の(21世妃)中国政府でも、
こんな歴史復原を認めない懸念が無しとはしない。
逆に言えば言語復原の操作だけが、歴史の真相を解明するのである。
『参考』
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小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
『メソポタミア世界』
シュメル-人類最古の文明
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2010年3月1日月曜日
日本古代王族の婚姻系譜(17)(18)
『出典』言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録04:23・24頁
出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征
石虎の后は劉曜の娘である。
晋書によると、15人の息子がいて、互いに殺し合ったり、
石虎の死後の反乱で全滅したと書かれている
(陳舜臣「中国の歴史(三)」講談社学術文庫)が、
娘のことは出ていないようである
(石虎に娘がいたという記録はない、ということになる)。
「故国原王は335年には遼東の撫順市郊外に新城を築き、
342年2月に鴨緑江中流の北に国内城(遼寧省集安県)を築いた。
また8月には国内城近くの丸都城に遷都するなど、
高句麗は『石虎をバックに』、
じりじりと遼東に勢力を伸ばしてきていた…」とある(p118小林「4C」)。
石虎と故国原王の同盟関係(婚姻関係でもある)が推察出来る部分である。
H系図によれば、石虎の娘と故国原王は「またいとこ」になる。
さて、「山王山古墳」「網浜茶臼山古墳」「湊茶臼山古墳」の古墳名について考察すると、
山王=邪馬・王で、これはおよそ「スサノオ」の別称である。
位宮は「山上王」である(邪馬のお上)
(㊟鹿児島県隼人町の「高屋山上陵」が位宮の墓━加治木先生)、
美川王墓のある「四御神」は「死の神(エンマ)」という意味がふくまれていた。
H系図であきらかなように、美川王と「武」は位宮(スサノオ、邪馬、エンマ)の
子孫(孫と曾孫)である。
網浜は阿爾(兮)国(バ、ハ、マ)(阿爾王の国という意味)、
湊は弥奴(ミナ)・投(ト=投馬)になる。
H系図の玉彦姫の別名姪「岡陋姫」は
「崗(遠賀)水門姫」の意味だから、ミナト=水門=遠賀でもある。
HH系図の武内宿祢の先祖を逆上ると菅韓多羅に至る。
菅韓多羅B系図によると阿爾兮の娘であるから、
彼ら(子孫)はだれ一人として例外なく、
「阿爾兮(アミ・キ=アジ之岐)」ということになる。
菅韓多羅の夫大筒木垂根ま「三野前(弥奴国)国造」であることは、
もう少し別の系譜解明の部分で扱う方が便利なので、ここでは保留にする。
その子孫の墓の名の中に「弥奴国投馬国、遠賀水門」の名乗りが含まれていて、
それが美川王の墓の周辺にあるということは、
美川王━その娘(その夫武内宿祢)━石川宿祢の系譜の蓋然性を強めるのである。
故国原王と五十琴(近肖古王)、
伊呂弗(仲哀天皇)との間には、
互いに攻略しあう因果関係がある。
大筒木垂根の妹(の一人)は時姫であるから、
両者の子孫系簿を並立させて眺めてみる。
「系図I」
4 5 6 7 8 9
|大筒木垂根━息長帯姫∥_|咄固 ━美川王━故国原王━小獣林王
位宮 ∥
|時姫 ━汾西 ━ 胆咋 ━五十琴━伊呂弗∥ |真椋(枕=枕崎)
|玉彦姫∥_|布都久留
|多遅麻
この図の
五十琴=近肖古王、
伊呂弗=仲哀天皇、
玉彦姫=神功皇后、
布都久留=応神天皇、
多遅麻=近仇首王(武内宿祢)
として、このあたりの略年表を見つめてみる。
『参考』
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出典:言語復原史学会・正会員:柿本一征
石虎の后は劉曜の娘である。
晋書によると、15人の息子がいて、互いに殺し合ったり、
石虎の死後の反乱で全滅したと書かれている
(陳舜臣「中国の歴史(三)」講談社学術文庫)が、
娘のことは出ていないようである
(石虎に娘がいたという記録はない、ということになる)。
「故国原王は335年には遼東の撫順市郊外に新城を築き、
342年2月に鴨緑江中流の北に国内城(遼寧省集安県)を築いた。
また8月には国内城近くの丸都城に遷都するなど、
高句麗は『石虎をバックに』、
じりじりと遼東に勢力を伸ばしてきていた…」とある(p118小林「4C」)。
石虎と故国原王の同盟関係(婚姻関係でもある)が推察出来る部分である。
H系図によれば、石虎の娘と故国原王は「またいとこ」になる。
さて、「山王山古墳」「網浜茶臼山古墳」「湊茶臼山古墳」の古墳名について考察すると、
山王=邪馬・王で、これはおよそ「スサノオ」の別称である。
位宮は「山上王」である(邪馬のお上)
(㊟鹿児島県隼人町の「高屋山上陵」が位宮の墓━加治木先生)、
美川王墓のある「四御神」は「死の神(エンマ)」という意味がふくまれていた。
H系図であきらかなように、美川王と「武」は位宮(スサノオ、邪馬、エンマ)の
子孫(孫と曾孫)である。
網浜は阿爾(兮)国(バ、ハ、マ)(阿爾王の国という意味)、
湊は弥奴(ミナ)・投(ト=投馬)になる。
H系図の玉彦姫の別名姪「岡陋姫」は
「崗(遠賀)水門姫」の意味だから、ミナト=水門=遠賀でもある。
HH系図の武内宿祢の先祖を逆上ると菅韓多羅に至る。
菅韓多羅B系図によると阿爾兮の娘であるから、
彼ら(子孫)はだれ一人として例外なく、
「阿爾兮(アミ・キ=アジ之岐)」ということになる。
菅韓多羅の夫大筒木垂根ま「三野前(弥奴国)国造」であることは、
もう少し別の系譜解明の部分で扱う方が便利なので、ここでは保留にする。
その子孫の墓の名の中に「弥奴国投馬国、遠賀水門」の名乗りが含まれていて、
それが美川王の墓の周辺にあるということは、
美川王━その娘(その夫武内宿祢)━石川宿祢の系譜の蓋然性を強めるのである。
故国原王と五十琴(近肖古王)、
伊呂弗(仲哀天皇)との間には、
互いに攻略しあう因果関係がある。
大筒木垂根の妹(の一人)は時姫であるから、
両者の子孫系簿を並立させて眺めてみる。
「系図I」
4 5 6 7 8 9
|大筒木垂根━息長帯姫∥_|咄固 ━美川王━故国原王━小獣林王
位宮 ∥
|時姫 ━汾西 ━ 胆咋 ━五十琴━伊呂弗∥ |真椋(枕=枕崎)
|玉彦姫∥_|布都久留
|多遅麻
この図の
五十琴=近肖古王、
伊呂弗=仲哀天皇、
玉彦姫=神功皇后、
布都久留=応神天皇、
多遅麻=近仇首王(武内宿祢)
として、このあたりの略年表を見つめてみる。
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