ブログのタイトル「大学院講義歴史(創世紀)」は、 日本は平成から西暦2019年に元号が令和に御代代わりしました。 また20世紀も20年前に終わりました。 21世紀は日本にとっても私にとっても「黄金の世紀」です。 「黄金の世紀」に向ってそれぞれが邁進しましょう。 第二次世界大戦(日本にとっては大東亜戦争)が終了して75年目を迎えました。 更に2018年は明治維新からは150年になります。 この間の19世紀20世紀の日本の諸外国との政治外交の歴史は 事により未だ不透明な霧に覆われたままであります。 現在、日・中・韓で歴史認識が問題になっていますが それぞれの当時国が真実の歴史は何であるかの認識にたって 真剣に物事を考え、発言しないと言うだけでは問題の解決にはならない。 令和2年4月吉日
2013年8月3日土曜日
埋葬儀礼と牛頭(1)
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:103頁
第二章 埋葬儀礼と牛頭(1)
ケルメズ・テレ遺跡が属する原新石器時代
(紀元前九千三百年~八千五百年頃まで)と同時代の遺跡が
北シリアにある。
アレッポの東方、ユーフラテス川のトルコから
流れ出し大きく曲がって東流を開始する地点に
現在アサド湖と呼ばれる人造湖が造成されているが、
その東近くにあるムレイビト遺跡がそれである。
ここでも円形ないし楕円形の住居が
原新石器時代の古い時期から
永きにわたって使用された遺構として、残されている。
遺物の中から動物の骨が発掘され、
野生のロバ、鹿、野牛を狩猟していたことが解る。
しかし、注目すべきは、
動物の頭骨が建物の壁に掛けられていたことを
示す発掘があったことである。
そのような住居の慰留は今までのところ
ムレイビト遺跡を以って最古とする。
馬、牛、鹿(ガゼル)などの大型有蹄獣の狩猟は
次の無土器新石器時代(紀元前八千五百年から七千年頃まで)
に入ると盛んに行われるようになる。
アナトリアのタウロス山脈の西側にある
ハジラル遺跡では二万五千体に及ぶ牛の遺骨が堆積していた。
また、イランのテヘランの北側、
カスピ海の南岸に広がるエルブス山脈にある
タペ・サンギチャハマック遺跡からは
約六千体の牛の遺骨が確認されたとの報告がある。
同遺跡からは馬の遺骨四千一百体も確認されている。
『参考』
まんどぅーかネット
《Key Word》
石器時代
アレッポ
ムレイビト遺跡
アナトリア
タウロス山脈
カスピ海
2013年8月2日金曜日
埋葬儀礼(2)
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:102頁
第二章 埋葬儀礼(2)
環状の石の配列は炉と考えられており、
葬送に当り燔祭を行ったことを推測される。
エリドゥの神殿の供物台の上で供物が焼かれたり、
湯沸かし器で魚が煮られたことを思い出せば、
この無土器の新石器時代においては、
供物を焼くことが調理することであり、
炉が調理の場であった。
供物台の元祖であると考えてよいのではないだろうか。
そうすれば、エリドゥの最古と思われる最下層から
第四層の神殿建物の外に作られた円形の構造物をは
火を焚いた炉または窯であったことが推測される。
一辺三メートルに足らない建物の中で
供物を調理することはできなかったのである。
それに続く時代には神殿建物自体が拡大され、
内部で火を使っても危険が無くなり、
供物台上で焼いた痕跡が残されることとなったのである。
柱石状の立体物は祭壇になる以前の神の依代であることが判ってくる。
あるいは葬送の式礼の中で死んだ者の頭骨を
その柱(台座)に置いて儀礼を行ったとも考えられる。
頭骨を胴体から離し、別のところに
しかも集落の一定箇所に埋葬するのは
西アジアでの死者を葬送する方法としてよく行われた慣習である。
パレスティナ、レヴァント、
そしてアナトリア高原の遺跡で一般化していた方法である。
頭骨に塗装したり、飾り付けしたものさえ発見されている。
このような儀礼については、一種の祖先信仰を表しており、
祖先が死後も残されたものに対して強い影響を及ぼすため、
祈りや犠牲を捧げることによって、
鎮めねばならないと信じられていたというのが
専門家による理解である。
『参考』
まんどぅーかネット
《Key Word》
エリドゥの神殿
燔祭
埋葬儀礼(1)
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:101頁
第二章 埋葬儀礼(1)
ザウィ・チェミおよびシャニダールの両遺跡では
埋葬儀礼がすでに始まっていたことを指摘できる。
シャニダール洞窟の墓地では、
遺骨と共に小さな箱状に形作られた台座と思われる石が並べられていた。
また、ザウィ・チェミの遺跡では円形の家や
シャニダール洞窟で並列されていたのと
同じ方形の石を配列した石囲いがもられた。
これらの石の配列は葬送儀礼との関係を示唆している。
何らか式典のような作業があったに違いない。
埋葬儀礼の様子は
次の原新石器時代の遺跡とされるモスールに近い
ケルメズ・デレ遺跡ではより具体的にみえてくる。
最も古い建物跡は、
日本古代の竪穴住居のように地面を掘り込んで
外淵を地面より高く土で盛り上げて
壁を作った円形住居であったが
その内部に石と漆喰でできた
矩形の柱石状構造物と石の環状配列が残されていた。
また、
胴体をはずされた人間の頭骨が六体発見されたので、
単なる住居でなく埋葬に係わる儀礼の場で
あったことをうかがわせる。
『参考』
まんどぅーかネット
《Key Word》
ケルメズ・デレ遺跡
角の崇拝(7)
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:100頁
第二章 角の崇拝(7)
しかし、
この地域の羊飼いたちは流動性を持った生活者であった。
トルコのヴァン湖周辺の黒曜石や現在の地名でも
「銅の町」意味するダイヤルバギル市の北にある
エルガニ・マデンから粗銅を
また、イラクのアルビルよりさらに南へ離れた
キルクークからアスファルト用の瀝青を手に入れている。
彼等は文化を伝播させる行動力を
十分備えていたと判断してもよいだろう。
シュメル語で売買する意味の用語は šam である。
発音が šum に近似している。
貨幣にによる交換はなく、
物々交換による交易であったに違いない時代、
羊飼い達は羊を追いながら遠出を行い、
物々交換が成立すると羊を屠殺して
手渡しを行ったのかもしれない。
屠殺者は売買人なのである。
羊飼い達は、
彼等の流動性を生かして
次第に商人としての性格を
確保していったと十分考えられる。
『参考』
まんどぅーかネット
《Key Word》
ヴァン湖
黒曜石
2013年8月1日木曜日
角の崇拝(6)
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:99頁
第二章 角の崇拝(6)
ところで、Shamdr の語幹となる語は
シュメルの šum と同根であると考える。
絵文字に表される Sam の意味は「咽を切る」で、
「虐殺する」あるいは「屠殺する」である。
さらに「供与する」の意味まで含まれる。
語尾 dr は「~する人」あるいは「~する者」の意である。
Shamdr はサンスクリットは取り込まれて、
祝祭における屠殺者 šamitr となっている。
犠牲獣を屠殺し解体して調理するのがその役目である。
以上のように山狭の一角に
羊を家畜化した最古の地に関係ある地名が
集中してみられるのである。
羊の家畜化を始めた人々が、
その羊を屠殺することに
特別の想念を興しただろうことは容易に想像できるが、
当地域付近から羊に対する崇拝や
祝祭に関連ありそうな遺構や遺物は
いまのところみつかっていない。
また、
ザウィ・チェミ、シャニダール洞窟の文化が、
地域において後世へ継承されたかについて
専門家は考古学的確証を得ていないので否定的である。
さらに、
この山狭で屠殺に関連した宗教的儀式が
成立したとはいえない状況である。
『参考』
まんどぅーかネット
《Key Word》
角の崇拝(5)
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:98頁
第二章 角の崇拝(5)
大ザブ川沿いの町ゼバルから上流へ遡及してしばらくすると
北方のトルコから国境を越えて
英語名シャニダール川、
現地名ではシャムディルナ川 Shamdrna (シャムディの川)
が合流する。
その川の上流国境を越えたトルコ領内には Shamdr 山があり、
山の東方に Samdinli の村がある。
この深い峡谷のイラク領の一角にシャンデル洞窟があり、
ザウィ・チェミ遺跡と同時期の遺物が発見されている。
ザウィ・チェミ遺跡あたりの人々が冬の寒い季節に登って来て
この洞窟を住居としたのではないかとの見解が出されている。
洞窟内から二十六体の人骨が発見されたために有名になったが、
この洞窟は墓地として使われたのである。
『参考』
まんどぅーかネット
《Key Word》
角の崇拝(4)
創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:97頁
第二章 角の崇拝(4)
ザウィ・チェミ遺跡のある北限イラクの東側の地域は
前歴史時代の動物家畜化に係わる歴史に
重要な役割を果たしたことが理解できた。
そして、その後の歴史時代においても
この地方の人々が時代のまにまに活発な活動をしたと考えられる。
現在の地名にその文化遺産を残している。
第一に遺跡で登場した Zawi は
大ザブ川の Zab と同じく
シュメル語の羊飼いと同根であると考える。
大ザブ川沿いにある町ゼバル Zebar は羊飼いの町であり、
ハリル山系の東端の延長の山々
Spilik 山地の名称も羊飼いと関係があろう。
ゼバルから南方のイランとの国境方面の町
Ramandiz は牡牛(英語 ram )。
さらに南方の Arbil は赤鹿、
この赤鹿の名はザクロス山脈の南方になるが、
スーサを中心としたエラム Elam 、
そしてその地方名
ルリスタン Luristan に反映している。
町 Gawra は鹿の角の意である。
Gawra は
ギリシャ語の κερος
ドイツ語の Gehörn
英語の Corn と同根語である。
旧約聖書創世記に記される
エデンを流れ出た川が四っに分流したうちの一つである
ギホン Gihon 川は
このガウラを流れる大ザブ川の別称であると考えられる。
『参考』
まんどぅーかネット
《Key Word》
ザウィ・チェミ遺跡
ザクロス山脈
スーサ
エラム
ルリスタン
エデンの園
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