2016年2月22日月曜日

《浅草と目黒》➀

 『浦和レッズレディース』 猶本光サポーターズサイト
 『浦和レッズ』
 『ひねもす至福の時』
 『誕生日の花と花ことば』
 『湘南ベルマーレ』『サンフレッチェ広島』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『明星院・広島県歴史&地名他』
 『madiのブログ』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ(History)
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1087~1097頁

 第16章 ヘブライ人の日本定着とヘブライ(イブリ)の信仰

 《浅草と目黒》

 久伊豆神社を奉祭した氏族は

 土師氏であったことは明らかであるが、

 東京都台東区浅草に鎮座する浅草神社にも

 檜前氏、土師氏の伝承があり、

 江戸湾から埼玉県、群馬県へと連なる

 ガド族の植民地の入り口であったとみられる。

 同社の社伝によると、

 推古天皇36年に檜前浜成、竹成の兄弟が

 隅田川で投網を用いて漁をしていたところ、

 網に大型像が何度か掛かって上がってきたという。

 そこで土師真仲知(あるいは真中知)の見せたところ、

 聖観音菩薩像と判ったので、

 土師真仲知が沙門に入り、

 自宅を寺として像を安置することとしたのが浅草寺で、

 後になって土師真仲知の子孫が夢のお告げにより、

 土師真仲知、檜前浜成、竹成を奉祀した

 三社権現と称するようになったという。

 この伝承で明らかなのは、

 土師氏が

 推古天皇の時代(6世紀後半)はここにいたことである。

 「檜前」は奈良県高市郡明日香村檜前と同名で、

 その周囲に呉原、見瀬など呉人に係わる地名であること、

 また、同地区に於美阿志神社が鎮座し、

 漢人に係わっていることなど、

 百済系の渡来人の足跡があることから、

 江戸湾の奥に当たるここに秦人に連なる人々が集まって

 居住するようになっていたと考えられる。

 『日本書紀』の天智天皇5年(656年)条に

 「この冬、百済帰化人二千余人東国に移される」とある。

 また、

  それより早く『日本書紀』の欽明天皇元年(529年)の8月に

 「秦人、漢人等、諸藩の投化ける者を召し、集へて

  国郡に安置めて戸籍に編貫く、

  秦人の戸数総べて七千五十三戸。

  大蔵掾(ふびと)を以ちて、秦伴造(みやっこ)としたまふ」

 とあり、

 岩槻市の久伊豆神社の創建由来に欽明天皇の御代に

 土師氏が出雲から渡来したと伝えていることから、

 6世紀の前期後半から

 秦氏族は東国に移り始めたと推測される。

  同社の祭事のうち、最も賑わうのは三社祭

 (5月17日、18日、第三日曜日)である。

 第三日曜日には神輿渡御で多くの人々が群れとなって

 神輿を兒くためや見物のため集まってくる。

 「輿」の祖語がヘブライ語の 

 KISTL(箱)であることは既に述べた。

 その箱とは「神の契約の箱」で、

 中に律法である「十戒の石板」を納めた聖櫃である。

 イスラエル人がヨルダン川の東岸(ギリアド)から、

 その川を渡る時には各支族から一人ずつ

 12人の祭司が選ばれ神輿を兒っがれた。
 
 その足の裏は濡れなかったと

 ヨシュア記の第3章(ヨルダン川を渡る)は語っている。

 その後イスラエル人が約束の地

 カナンへ進攻するに当たっても

 「神の箱」は祭司達に兒っがれ進んだ。

 三社祭りの御神輿渡御は

 その勇壮な歴史に依拠しているようである。

 掛け声、「ソイヤ、ソイヤ」 

 SY-YH-SY-YH で「行け、神様」の繰り返しとみられる。

  土師真仲知の名前は「マッチ」という。

 この名称は浅草七丁目にある待乳(まっち)山と同じである。

 この山には現在聖天宮が置かれている。

 山名は何時から「マッチ」となったか明らかでないが、

 古い記録には「亦土山」「真土山」と表記されている。

 同名は聖天宮が置かれる以前よりあったものとみる。

 その名称由来伝承に

 土師真仲知の城があったとことに依るというのがあり、

 「マッチ」はヘブライ語「城、砦、要塞」を意味する

 MTsVDH(metsudah) が祖語と考えられる。

 待乳山は小高い丘山である。

 同類語MTsDH(metsadah)は

 岩山などの山上に築かれた城、砦などを表わす。

 また、その漢字表記「真中知」は「真シン」が

 SNH(sinah:柴) の音写とすれば

 「柴の中の智恵(律法)」であり、

 ヤハゥエ神信奉者の字義と解釈できる。

 言問(こととい)通りが浅草にはある。

 言問は「言掛け」の字義であるが、

 これは神の「柴の中の声」を言ったものと考えられ、

 具体的には「十戒」を表わしていよう。

  待乳山の北隣りの今戸はかっての今津村と呼ばれ、

 そこに今戸神社が鎮座するが、今戸は

 IVD(ivat)の音写で「神の僕」を表わし、

 真中知に対応される。

 田原町名は TFYLH(tfile)、神への「祈り」を

 松葉(松が谷)名は MTsVH(mitsevah 戒律、神への命令)、

 入谷(いりや)は ALH(aelih 神)、

 下谷(したや)は加須市下谷と同じく「シモヤ」で、

 ShMI(shmei)に依拠している。

 ShMIは「シェマーの祈り」のことで、

 「聞け、イスラエルよ」で始まるユダヤ教の真髄を象徴する。

 申命記第6章4~6に書かれているヤハゥエ神の唯一性と

 神に対する愛と奉仕を主眼とする祈りを表わしている。

  イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である。

 あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、

 あなたの神、主を愛さなければならない。

 今日、私が貴方に命じるこれらの言葉を

 貴方の心に留めてこれらを貴方の子らに教え、

 貴方が家に座している時も、道を歩く時も、

 寝る時も、起きる時も、

 これについて語らなければならない。

 また、貴方はこれを貴方の手に付けて印しとし、

 貴方の目の間に置いて覚えとし、

 また、貴方の家の入口の柱と貴方の門とに

 書き記さなければならない。

  ここに書かれている

 「貴方の入口の柱と貴方の門に書き記す」

 される印しとして用意されたのが

 MZVZH(mezuzah)で本来は「戸口の側柱」ではあるが、

 シェマ―の祈りを記した

 羊皮紙を入れた小箱(あるいは筒)である。

 これを戸口の古柱に取り付けるのが掟である。

 町名三筋はこの MZVZH の音写であり、

 小島はその名を呼ぶ名称 HShM(hashem)の音写であろう。

0 件のコメント: