2015年11月27日金曜日

安来:十戒神社③


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1008~1010頁

 《安来:聖地「十戒神社」と祈り》

   申命記33章は
 
 「神の人モーセが死ぬ前にイスラエルの人々を

  祝福するために与えた言葉」だという。

 そこにはガド族についても次のような詩句がある。

  ※(新共同訳/口語訳)
   http://www.bible.or.jp/i2/vers_search_i.cgi?cnt_here=11&flag_pre_next=next&cmd=search&trans=ni&book=deu.old&chapter=33&vers=&keyword=&back_url=&search_type=
   新共同訳/口語訳

  21 ガドのために彼は言った。

     讃えよ、ガドの土地を広げられる方を
 
     ガドは雌獅子のように待ち伏せ、

     獲物の腕や頭を引き裂く。

  22 彼は自分のために最上のものを選びだした
 
     指揮者の取り分がそこにあったからだ。

     民の長たちは相集い、
 
     主は恵みの御業を行い

     イスラエルのために裁きを行われた。

  28 イスラエルは安らかに住み

     ヤコブの泉のみが絶えない
   
     穀物を新しい酒に富み

     天が露を滴らす土地に。

  第1節(21)は

 ガド族が雌獅子のように剛勇果敢な支族で

 あることを褒め讃えたのである。

 イスラエルの人々がヨルダン川を渡った時、

 彼らは先陣を務めた。

  第2節(22)は

 モーセによりギリアデの地を与えられ、

 そこが豊かな収穫のできる
 
 土地であることを言っている。

 FRAD(Gelied:証の石塚)はシュメル語では

 ki-la-a-de(水を注ぐ土地) とも解釈でき、

 そこを流れるヤボの川やヨルダン川流域の

 豊かさを言ったものであろう。

 そして、彼らの祭壇を建てたが、
 
 その問題で他のイスラエルの人々との間に

 適切な審判を下し、

 モーセの律法を厳守する正義を通したと言っている。

 ガド族の正義は安来の新しい聖地においても
 
 保たれているといえるのである。

  第3節(28)は

 安来の様子によく合っている。

 ここに渡来した人々は

 この申命記の詩を聖書により知っていたと思われる。

 「安らかに住み」は

 まさに「安」字に表わされているし、

 「ヤコブの泉」は清水町となっており、

 「穀物とぶどう酒」は切川町の「キリ」が
 
 「農園」を表わしている GIRST(gersht)と
 
 関係ありそうである。
 
 また「天の露」は「雨」で、

 出雲は「矢持」の国、

 つまり雨を天のように降らせる所である。

 佐久保町の伯太川を挟んだ西向いの

 月坂町名は「ゲッサカ」と読めるが、

 ヘブライ語の GShM(geshm) の音写で

 「雨」を表わしている。

 木戸川名の「キド」の原語として紹介した

 KDVSH(キドゥーシュ)は

 「安息日や祭日の食事前に創造を賛美し、

  (日+賣)いを感謝して、

  ぶどう酒やパンを祝福する祈り」である。

 人々は、

 この東方(ヘブライ語で KDYM/kodim)の

 新しい聖地にあって感謝の祈りを

 献げていたに違いない。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年11月25日水曜日

安来:十戒神社②


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:1003~1007頁

 《安来:聖地「十戒神社」と祈り》

  第二の聖所は安来神社である。

 かっては祇園社と呼ばれた。

 同社の伝承にると、

 十神山から遷座されたという。

 同社の鎮座する安来公園内には

 「社日」の地名がある。

 これは「シャカ」で「箱 」SAKTL の転写である。
 
 安来公園と伯太川の間を木戸川が流れるが、

 「キド」は

 ヘブライ語の「聖、神聖、神聖な場所」の

 KDSh(kidesh)あるいは

 同類語の KDVSh(kidvsh 聖、神聖)の転訛とみられ、

 安来(ヤスキ)は聖地である。

 安来町の東隣り黒井田町に菊理神社が鎮座するが、
 
 これは「キリ」で、

 ガド族が

 イスラエルのヨルダン川の東側に

 居住していた頃の故郷名

 Gilied の転写と考えられる。
 
 「黒井田」名は

 明治期に黒島、細井、和田の三地区が

 合併してできた地名だが、

 ここに住む秦氏の人々の記憶に

 ギリアデ名の記憶があったに違いなく、

 黒井田はギリアデを暗示しているとみられる。

 また同地区内に鎮座する魚津神社も「ウオツ」で、

 INDVT(ed)、oath(英語) の音写とみられ、

 ガド族の「誓い、あかし」を言ったものと考えられる。
 
 その東南の門生町は「カド」あるいは

 「カドエ」と呼ばれているが、

 Gad、Gade (ガドの人) の意味である。

 さらにその東側の吉佐町は、

 そこは風土記にも「支布佐社」と載る

 支布佐神社が鎮座し、

 「キフサ」はこれも「箱」を意味する

  KPhSH の音写で「神の箱」であり、
 
 「キサ」となったものである。

 「インダ」は「波」を表わす AYND(ind) であり、

 市名米子は「マイス」で、

 神戸市垂水区や御津町の「舞子」と同様

 MYTs で「雨」を表わし、「水」に係わる地名である。

 黒井田町と門生町の間に清水町、清水山があるが、

 これは「ヤコブの泉」を表わす。

 清水町に接して宇賀荘町がある。

 宇賀は「ウケ」で「請」である。

 その字義は「保証人」である。

 ヨシュア記第22章34で「あかし」 IDVT(ied)を

 ほとんどの英訳本が witness としているが、

 その本義が保証人である。

 日本語訳本では「証拠、証人」とも訳されている。

 つまり字義は

 ガド族の最も貴重な約束である「誓い」を表わしている。

 誓いは「ウケい」とも読まれる。

 その北側の九重町は「くのう」と通称されている。

 ヘブライ語の KhHN(祭司)、KhHNH(祭司職)の音写で、

 ここに教会を守っていた祭司の施設があったのであろう。
 
 宮内町名も同類語とみられる。

  現在の郡名ともなっている能義神社の鎮座する

 能美町名は NAGV(nagu) で、

 「歓声を上げる、叫ぶ」の意味で、

 Gad がシュメル語の ga-de に係わると

 説明してきたことに係わる。

 nagu は日本語に消化され「なげく/嘆く」となっている。

 この「サケビ」を町名としているのが

 安来町の南側の佐久保町である。

 Gad の字義について「叫ぶ」が

 極めて重要であることがここに表明されている。

 「叫び」は「宣誓する」ことであり

 「誓い」することである。

 佐久保町内に鎮座する五神神社名は

 「モーセ五書」を言ったもので

 十神 TORH と同義である。

 ヘブライ語で「モーセ五書」を呼ぶ場合

 一般に KhVMSh(khumesh) と言うが、

 これは数字の「五」から取られた「五書」の意味で、
 
 五神は明らかに TORH (十神)である。
 
 その十神山は砥神嶋という「島で」あったが、

 人々はその信仰を「島」信仰として行っていた。

 播磨風土記飾磨郡に載っていた

 因達里の「インダツ」は

 ヘブライ語の AYNDZL(indzl島)に依るもので

 砥神島を指す。

 播磨国にも砥神島が

 聖地として知られていたとも考えられる。

  出雲風土記が

 伯太川が葛野山を水源とすると述べているが、

 そこは現在鳥取県の県境にして、

 風土記の言うように

 現在の意宇郡伯太町と能義郡広瀬町の境に当たる。

 その水源近く広瀬町東比田に縄久利神社が鎮座する。

 同社名は「シャウクリ」と読め

 「神の箱」SAKKTL である。

 伯太町側の草野は葛野(くずの)か、

 吉佐町名になっている

 KRhSh(箱)を基語としているとみられる。

 その下流の地名十年畑は「聖書」 TNKh 、

 赤屋は aguā で「水」である。

 広瀬町側の比田は日本語の「櫃(ひつ)」を

 転訛させた地名である。

 兵庫県の香寺町恒屋の

 櫃倉神社などに用いられた用語である。

 西比田に鎮座する比田神社は一宮と呼ばれているが、

 風土記にも仁多郡に「比多社」と載っている。

 さらにその仁多町との町境にある

 久比須峠と仁多町久比須は「支布佐」と同根で

 KPhSH が訛った名称である。

 ガド族の人々は日常的な聖地として

 安来市の砥神嶋(安来神社)を、
 
 そして el-sed(神-山)と言われるように

 奥深い山中に、もう一つ 、すなわち

 第三の聖地を創設していたとみられのである。

 因みに葛野山の「葛」は

 「カズラ」ないし「カツ」で、

 これは「ガド Gad 」を表わしている。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年11月24日火曜日

安来:十戒神社①


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:996~998・1002頁

 《安来:聖地「十戒神社」と祈り》

  因幡国風土記に記載されていたものだろうとして

 「稲葉国」と「白兎」が遺っている。

 また『古事記』に同様の話が載っているが、

 そこでは稲葉を「稲羽」、白兎を「素兎」と表記している。
 
 その説話の舞台は鳥取市西部の海岸高草郡の辺りである。

 その内容はあまりにも有名なので除くが、

 本書ではこれまで「ワニ」は

 サンスクリット語の交易商人である

  vanika に依ると紹介してきた。

 それでは「ウサギ」とは何か。

 これはヘブライ語の HSGKH(hasigha) の音写で、

 現代風にいうと「監督」を意味する。

 hash が「ウサ」になっているが、

 それは天鈿女(あまのううめ)命の場合と同様である。

 「ウズ」はサンスクリット語の「哄笑」を意味する

 hāsa の転訛したものである。

 天岩屋戸の前の「大笑い hāsa 」は哄笑であるいは

 歓楽として全く適切な形容である。

 また「白」は「繭」を示している。

 この近く現岩美郡国府町に

 稲葉山とも呼ばれる宇倍山があるが、

 この「ウベヤ」が VVYYS からできた名称である。

 宇倍山には宇倍神社が鎮座し、因幡国の一宮である。

 また稲羽は和名類聚抄に法美郡稲羽郷とあり、

 訓を「伊奈波」としており、

 播磨国風土記宍粟郡に載る

 伊奈加川と同様「秦」を意味する。

 「稲羽の素兎」は「秦氏族の繭監督官」となり、

 因幡地方で算出した繭あるいは絹糸の貿易商人との取引で

 問題が起こり困っていた秦氏族の取締の者を

 大国主神が援助したという物語となる。

 ワニである商人は大型の貿易船で行き来しており、

 ワニの数えるとは、その船を検査したのであったろう。

 ここで重要なのは、絹の商人秦氏と大国主神、

 つまり、
 
 大名持命の部族神門族が援助関係にあることである。

 大国主神が因幡に出掛けた理由は

 須勢理比売やその母八上比売を訪ねるためであったが、

 「スセリ」は「白い石」、

 「ハチカミ」は「絹虫:蚕」に意味であることを

 「絹と地名分布で」で述べてある。

 これらの女神は秦氏に係わる者と考えられる。

 大名持命は須勢理比売を正妻とするのであり、

 双方の親近さが理解される。

  第6章の「海洋交易商人へ」で

 月氏であるイスラエル人は

 インドの貿易商人組合に加入して

 東アジアへ渡来したのだろうと推測される。

 それというのも出雲の東端にイスラエル人である

 ガド族の聖地が創設されていたからである。

 それが安来市である。

 成立の時期については確定し難いが、

 3世紀後半から4世紀の初頭と考えられる。
  
  「安来」名は出雲風土記の意宇郡に、

 和名類聚抄には出雲国能義郡に「安来郷」とある。

 双方ともその訓は解らない。

 中世には「安来荘」となったが、

 その後、屋杉、矢杉、八杉、安来などと表記された。

 ここが秦氏、ガド族の居住地かどうかであるが、

 風土記に「伯太川」があり、

 その呼称をかっては「ハタ」と言っていた。

 風土記に

 「源は仁多と意宇と二つの郡の堺なる葛野山より出で、

  北に流れて母里・縦縫・安来の三つの郷を経て、

  入海に入る」とあり、

 その水源がガドに縁りのsる葛野山である。

 日本古典文学大系の訓も「ハタ」としており、

 ここが秦氏に関係あることを示唆している。

  「安来」の地名由来について風土記は

 「神須佐之烏命、天の壁立廻りまししき。

  その時、此処に来まして詔りたまひしく、

  『吾が御心は、安平(やす)けくなりぬ』

  と詔りたまひき。

  故、安来といふ」とあるが、

 これにそのまま従うことはできない。

 なぜならば、「ヤスキ」はヘブライ語の

 IShRH(Iasarah)の音写で

 「十戒」を表わしているからである。

 十戒は IShRT-HDBVT といい

 「十のこだま」の字義で通用されている。
 
 IShRHとIShRTは「十」を表わす。

 文法的に男性形の表記で同意をなす。

 その「十戒」の聖地が、「安来」にあるのである。

  安来市安来町に聖所が弐ヵ所あると考えられる。
 
 第一は十神山である。

 風土記は「嶋」として載る。

 現在は陸続きとなり島ではなくなったが、
 
 古代においては中海中の離れ島であった。

 「十神」とは「十戒の神」であり、

 「砥神」は「卜の神」で、これは D' 、

 すなわち旧約聖書のヤハウェ神の御名で、

 ADNY(主)の略称とも云え、

 無闇に YHVH との呼称を使わないための方法である。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年11月20日金曜日

秦王国播磨②


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:994~995頁

 《秦王国播磨》

  斯羅(新羅)は sila,saila に依るものであることは

 第10章で述べた。
 
 だからといって、

 この播磨が韓半島の新羅国と連携された

 深い関係にあった言えない。

 但し、秦氏は韓半島の南部に居たのであるから

 全く関係ないと言うわけではない。

  以上述べてきた状況をみると、

 ここに秦氏の強力な勢力圏があったことが判明する。

 この播磨国の状況を

 「隋書俀国伝」が「秦王国」と称したのである。

 同伝には大業3年の明年(608年)に

 「煬帝は文林郎の裴(世)清を俀国に遣使した」とあり、

 次のように記述する。

  百済に渡り、行きて竹島に至る。

  南に(身+冉)タン羅国を望み、都斯麻国を経て、

    ※(身+冉)タン羅国は済州島あるいは巨済島か。

  迥(はるか)大海の中に在り。

  又、東して一支国に至る。

  又、竹斯国に至る。

  又、東して秦王国に至る。

   ※秦王国は馬関(下関)か。

  其の人、華夏(中国)に同じ。

  以て夷洲(台湾)と為すも、

  疑いを明らかにする能(あた)わざるなり。

   ※秦王国を夷洲とするのは疑問である。

  又、十餘国を経て、海岸に達す。

  竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。
 
  俀王、小徳阿軰臺を遣し、数百人を従へ、

  儀仗を設け、鼓角を鳴し、迎え来る。

  後十日、

  又、大禮可多比を遣し、二百餘騎を従へ、郊労す。

  既に彼の都に至る。

  608年は

 小野妹子が隋へ遣使として遣わされた翌年に当たり、

 聖徳太子の時代で、

 秦河勝がその寵臣として盛んであった時代であり、

 秦氏族の繁栄していた時代と考えられる。

 「中国人と同じ」とは

 どのような事情を言ったものだろうか。

 養蚕業を田野で行っていただろう倭人を言ったものか、
 
 隋の都、洛陽などが西方の胡人など多くの外来の人々で

 溢れていたことを考えると、

 胡人と似たガド族の多数居住していた様子を

 言ったものか推測を越えない。

 「夷洲」は後漢書倭伝などにも出てくるが、

 イスラエル人を夷人(えびす)みたからだろうか。

  秦王国は、

 ここが秦氏族のいうところの王国であったことに

 間違いなく、その意味においてシラ(白)国でもあった。
 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年11月9日月曜日

秦王国播磨①


 創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―

 著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦

 執筆時期:1999~2000年

 牛角と祝祭・その民族系譜:990~992頁

 《秦王国播磨》

  明石市の播磨灘に沿った藤江はかって葛江と表記されたが、

 これは Gade で「ガドの人」を表わす用語の音写である。
 
 京都府と同じ葛野名は氷上町にもあり、

 和名類聚抄に「葛野郷」とある。

 訓を「加止乃」としている。

 同町は加和良神社が鎮座するところである。
 
 この地域の絹産業について新宮町の芝田(こげた)の「コゲ」が

 ヘブライ語の「玉」を表わす KVGL によると紹介したが、
  
 相生市の小河も同様で、寺田は ZYYD(絹) である。

 姫路市の市名は風土記に

 「蠶子(ひめこ)落ちし處は、即ち日女道(ひめじ)丘と號く」と

 あることから、

 養蚕の行われたことによるものであった。

 織居神社(北平野町)はそれを表わすが、

 特に白国神社に触れておきたい。

 「延喜式」神名帳の飾磨郡に

 訓を「シラクニ」として記載されている。

 現在も市内の白国に鎮座する。

 かって新羅訓神社とも表記されたが、

 この社名は「白」がサンスクリット語の sila(石)か

 ヘブライ語のSLI(selai:岩)で、どちらも繭の名称とみられる。

 もう一歩深く検討すると、これは「マユ(繭)国」なのである。

 ヘブライ語の「白い」を意味する用語が VVYYS(vayis)であるが、

 発音がよく似た用語に VVYI(vie)があり、

 その意味が「眉:まゆ」である。

 つまり、 vie (ヴァユ)が「マユ」に変化したのであり、

 vayis が「マユ」になったと言えるのである。

 日本語の顔にある眉(まゆ)も繭(まゆ)も

 ヘブライ語が祖語であることが判明する。

 そして「白国」が「繭の国」であることになるのである。

 VVYYS は後に述べるが「ウベヤ」「ウマヤ」にも転訛されている。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ