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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
著述者:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:994~995頁
《秦王国播磨》
斯羅(新羅)は sila,saila に依るものであることは
第10章で述べた。
だからといって、
だからといって、
この播磨が韓半島の新羅国と連携された
深い関係にあった言えない。
深い関係にあった言えない。
但し、秦氏は韓半島の南部に居たのであるから
全く関係ないと言うわけではない。
以上述べてきた状況をみると、
ここに秦氏の強力な勢力圏があったことが判明する。
この播磨国の状況を
「隋書俀国伝」が「秦王国」と称したのである。
同伝には大業3年の明年(608年)に
「煬帝は文林郎の裴(世)清を俀国に遣使した」とあり、
次のように記述する。
百済に渡り、行きて竹島に至る。
南に(身+冉)タン羅国を望み、都斯麻国を経て、
※(身+冉)タン羅国は済州島あるいは巨済島か。
迥(はるか)大海の中に在り。
又、東して一支国に至る。
又、竹斯国に至る。
又、東して秦王国に至る。
※秦王国は馬関(下関)か。
其の人、華夏(中国)に同じ。
以て夷洲(台湾)と為すも、
疑いを明らかにする能(あた)わざるなり。
※秦王国を夷洲とするのは疑問である。
又、十餘国を経て、海岸に達す。
竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。
俀王、小徳阿軰臺を遣し、数百人を従へ、
俀王、小徳阿軰臺を遣し、数百人を従へ、
儀仗を設け、鼓角を鳴し、迎え来る。
後十日、
又、大禮可多比を遣し、二百餘騎を従へ、郊労す。
既に彼の都に至る。
608年は
小野妹子が隋へ遣使として遣わされた翌年に当たり、
聖徳太子の時代で、
秦河勝がその寵臣として盛んであった時代であり、
秦氏族の繁栄していた時代と考えられる。
「中国人と同じ」とは
どのような事情を言ったものだろうか。
養蚕業を田野で行っていただろう倭人を言ったものか、
隋の都、洛陽などが西方の胡人など多くの外来の人々で
隋の都、洛陽などが西方の胡人など多くの外来の人々で
溢れていたことを考えると、
胡人と似たガド族の多数居住していた様子を
言ったものか推測を越えない。
「夷洲」は後漢書倭伝などにも出てくるが、
イスラエル人を夷人(えびす)みたからだろうか。
秦王国は、
ここが秦氏族のいうところの王国であったことに
間違いなく、その意味においてシラ(白)国でもあった。
《参考》
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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