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創世紀―牛角と祝祭・その民族系譜―
執筆時期:1999~2000年
牛角と祝祭・その民族系譜:371~376頁
第6章 イスラエル人の日本定着とヘブライの信仰
茨田神社と茨田
延喜式神名帳山城国乙訓郡のうちに「茨田(また)神社」が
記載されている。
この神社名を持つ現存の神社が見当たらない。
そのため京都市南区上久世町の綾戸国中神社のうち
合祀されている一方の綾戸神社を充てる見解もある。
神名帳には訓読として社号の右に「マタ」左に「スイタ」と
付している。
茨の訓音は「シ」、「次」は「シにしジ」であるので
「スイタ」が原語に近く「シタ」「スィタ」であったと言える。
「シタ」の付く神社名は
南区久世大藪町に鎮座する木下神社がある。
語頭の「木」を「クサ」と解釈したこと及び
当神社がある久世(クセ)であることを加味すると、
木下は「久世茨田」と解釈できる。
よって、茨田神社の比定地社は木下神社となる。
すでにみたようにこの地は秦氏の勢力の中心地であった。
大藪町のヤブはヤハウェ神の別称
YH(ヤハウェ神名をむやみに呼ばないための別称)
の転訛である。
「スイタ」名は南の久世郡の神名帳にも載る
「水度(みとの)神社」の訓読にも係わる。
同社は城陽市寺田宮の平に現存するが、
やはり秦氏の勢力地に鎮座している。
茨田名は秦氏と強い係わりを表す。
後に触れるが亀岡市の矢(や)田町は本来「シタ」であり、
丹波に矢田神社がみられるのはここから始まる。
延喜式神名帳河内国に茨田郡が載る。
同郡は明治29年に廃止され北河内郡へ合併されたが、
現在の枚方市と交野市の地域である。
茨田の初出は『古事記』仁徳天皇記の
「役秦人作茨田堤、茨田三宅」である。
『日本書紀』の
仁徳天皇紀、宣化天皇紀にも茨田屯倉があらわれる。
秦氏に役目を担わせて淀川の堤防を築き、
農業地を造成させたいうものであるが、
秦氏はここに居住することになったか、
以前から居住していたことになる。
以前から居住していたことになる。
『古事記』には景行天皇の御子の名を挙げ
「櫛角別王者茨田下連等の祖」としている。
櫛角名は荒樔田について述べたように
「アラクサクルセ」つまり「牛頭の角」を
彷彿させる名称である。
茨田三宅は中世に交野郡に入った。
和名類聚抄交野郡三宅郷は
現在の交野、磐船、星田のようで星田について
吉田東吾が地名事典で
吉田東吾が地名事典で
「古の茨田屯倉遺号となるべし」と
「スイダ」に依ることを推察しているが、
現在の枚方市に鎌倉期からみえる津田にも当てはまる。
すぐ南には交野市の織物神社のある倉治がある。
茨田郡内の和名類聚抄に載る幡多郷は
現在の寝屋川市太秦の地域で、
新撰姓氏録には河内国諸蕃には秦宿禰とある。
茨田の訓音を神名帳には「マタ、スイタ」、
和名類聚抄には河内国茨田郡に「マツタ」、
その茨田郡の茨田郷を「万牟多」としている。
これは何を意味するのだろうか。
実は茨田が秦氏と強い係わりを持つのは
この事情のよるのである。
「万牟」はヘブライ語の「水」の意味のMYMの転訛とみられる。
また「マツ」は同じく
「雨」を表わすMTsRあるいはMTsRITの音写であり、
双方とも水神、降雨神を旨とする名称と考えられ、
「スイ(水)」との表現が理解できる。
また「水度」もその概念に依るだろう。
ヤハウェ神が古代日本で水神として尊崇された事実は
これから次第に明らかになっていくだろう。
現在もそれは継承されている。
またその神社名の表記として「茨」字を
なぜ使ったかであるが、これもモーセの伝承に係わる。
出エジプト記第3章において
出エジプト記第3章において
モーセがシナイのホレブの山で神の啓示を受けた時の節句は
「ときに主の使いは、しばの中の炎のうちに彼に現れた。
彼がみると、しばは火に燃えているのに、
そのしばはなくならなかった」と語る。
この神の坐す「しば」こそ「茨:いばら」なのである。
この神の坐す「しば」こそ「茨:いばら」なのである。
またアブラハムが現在のエルサレムのモリヤの山で
その子イサクを殺して神に燔祭の犠牲として献げようとした時
「角をやぶに掛けている一頭の牡羊がいたと」語られる
「やぶ」を連想させる。
「やぶ」を連想させる。
京都府南区久世の茨田神社であると述べた
木下神社の所在地はもと藪といわれた大藪町である。
秦氏が築いた茨田堤は水を鎮める事業であったことは勿論で、
神名帳茨田郡に載る堤根神社も茨田神社の水神を
祀ったものであろう。
城陽市久世の水度神社も同じ同じ神を祀ったことが理解できる。
このように茨田神社には、やぶ(いばら)の中に坐す水神
ヤハウェ神が鎮座していると考えられるのである。
ヤハウェ神はこのモーセの「十戒」の告知の故事から
山の神エル・シダイ AL(山)-SDY(山頂)と呼ばれる。
この呼称は創世記17章1に、
主がアブラハムの99歳の時現れて告示があった時の言葉で、
日本語では「全能の神」と訳されている。
だが SDY はセム語(アッカド語)の山頂を表す
複数形 šedu (単数形 šadu ) に依拠した用語である。
ただし、シュメル語において šudu は「完全な」の意味であり、
また、
アッカド語 šedu は守護神として用いられているのであろう。
これらの概念が移入されたものであろう。
茨田の「シダ」は SDY の音写であり、
秦氏の居住地では
「シタ、セト、セタ」となって地名に留めている。
南インド西海岸コーチン市隣接する
マッタンチェリ Mattancheri 名とも関係する。
ここがユダヤ人の古くからの居住地であることは
すでに第6章ユダヤ人と月氏の
すでに第6章ユダヤ人と月氏の
「海洋交易商人」で述べた。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ